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「ぅぁ――――う、あ、うぅ……ぁ――っ」
「うわ、僕もこんな風になってたのか」
夕刻。ソファの上で白金髪の少女がぴくぴくと痙攣しながら喘ぐという酷い有様を目の当たりにしながら、思わず僕はそんな感想を漏らしていた。
白目を剥いていたりはしないが、涙や鼻血や涎やらがだらりと流れて、品のいい顔立ちがもうすっかり台無しだった。
ブリーゼはあの後、「お姉さんを助ける協力ができますが、あなたにはどこまでする気がありますか」というロイエに対して、「姉を助ける為ならなんでもする」とまで意気込んでいた。
その結果が、このありさまだ。
傍観していた僕が言うのもなんだが、ロイエもなかなかにえげつない奴だと思う。
思い返して不具合に対する認識を深めている時点で、恐らく調整者になる条件は満たしているはずだ。それを彼女は本人の「なんでもする」などという発言で後々の保険を得ようとしたのだろうか。
「とりあえずこれどうぞ。長話になりますので」だとかいってロイエに与えられた睡眠薬入りの飲み物を、ブリーゼが何の疑いもなく飲んだ時は流石に可哀そうにも思えてきていた。
ともかくとして。やはりというか、神託に会うための条件は『不具合を認識』して、それを思い出して、意識状態の希薄な状態――――つまり睡眠などの状況下に置くこと、なのかもしれない。
「まだアナトリと比べたらブリーゼは上品なほうね。あんたは吐いてたからもっと酷かったわよ」
濡らしたタオルをブリーゼの額に当てながら、ミットライトは淡々と述べる。
「うげ、そうだったっけ」
「覚えてないの? 人がうとうとしてるときにあんな盛大に色んな体液を撒き散らす大罪を犯してるっていうのに」
「本当かよ。吐き散らかしただなんて身に覚えが――――いや、無くもないか……、なんか今更だけどごめんな。なんていうかその、あのときはほんと薬キメてるみたいでラリってたもんだから、何が起きてたかなんて覚えちゃいないんだ……。たぶん起きたときには綺麗だったから気づかなかったんだろうと思う」
「まあ別に私はもう気にしてないけど、ロイエにはひとこと言っといたほうがいいと思うわよ」
「――そうしよう」
ブリーゼの世話をミットライトに任せ、コーヒーを入れていたカップなどをせっせと洗っている白髪の少女のほうに目をやる。彼女は此方に気付くと、「別にいいですよ」と言って愛想のいい笑顔を向けた。
恐らくこれは、なんやかんや後々になって何か驕らされるパターンなのだろう。
「なあミットライト」
「なあに、アナトリ」
赤髪の少女はブリーゼの容態を確認しながら返事をした。
「この、刷り込みによる初期症状ってのは、どのくらい個人差があるんだ?」
「そうね……、大概は眩暈や頭痛、あとは魘されるくらいで済むのだろうけど、たぶん完全にキャパオーバーな行為みたいだし、人によっては壊れちゃうのいるらしいわよ」
「そりゃ物騒だな。壊れるってのは精神的に、ってことであってるよな? 」
壊れるまではいかないけど、性格が変わるなんて話も聞いたことがあったな。
「まあそれもあるけど、肉体情報まで壊れることもなくはないわ」
「体が壊れるとどうなるんだ」
「生物として存在できなくなるから、情報粒子化して砕け散るのが妥当ね」
「その後は?」
「そのまま残留したり、風化して跡形なく消えたり。場合によっては集まって新しく存在を得たりするかしら」
「つまり、インストールに失敗したら不具合存在になることもあるってことか」
不具合存在――情報の軋轢によって生まれた、人間の認識から逸脱した情報体。それらはそれ自体こそが、世界が偽物である証明になり得る存在に他ならない。
ミットライトは頷くと、テレビの電源をいれた。
バラエティ番組が映し出されたが、何回かチャンネルを入れ替え旅番組になった辺りでリモコンから手を離した。
「失敗、っていうとちょっとあれだけど、まあだいたいそれで正しいわね。私たちがこうやって世話してあげてるのは不具合存在になった時に迅速に処理するためだもの」
「ずいぶんと非情なんだな」
「わかってるくせに嫌味言わないでよ」
溜息を吐くようにミットライトが言う。
無論、彼女が建前で言っているのはわかっている。調整者は皆刷り込みにおける苦痛を共通の認識として持っているのだ。
だからこそ、僕らはブリーゼの容態を見て目覚めるときまで世話しているのである。
「――で、個人差の話に戻るけど、現実世界からの避難所のような立ち位置にあるこの世界、すなわち電脳世界で全てがシミュレーション上の情報に過ぎないここにおいては、あらゆるものが明確な『情報量』を持っているってことはわかってる?」
「んまあ、なんとなく」
「この世界に住む全ての生物は各々のキャパシティに情報を読み込んで物事を理解しているのだけれど――――キャパシティっていうのはコンピュータでいうところのメモリみたいなところかしらね。各々が持つそれを超える情報量をもつものというのは通常認識できない。コンピュータだってメモリに対してそれを上回る作業を要求したら重くなるし、最悪落ちたりするでしょ?」
「不具合存在なんかはその情報量が多いってことか」
「そういうこと。なんせガン細胞だから。機械なんかでもそうだけど、滅茶苦茶に作られたものって無駄が多いのが大概だし」
なるほどと思った。確かに、逆を言えば洗練されているものは無駄が少ない。
ミットライトは「インストールの場合はちょっと違うんだけど」と言葉を続ける。
「あれは滅茶苦茶とか無駄が多いっていうよりは、純粋にこちらの器の容量を遥かに超えた情報量なのよね。力や知識を無理やり押し込める為に、まず私たちの存在情報から書き換えている。調整者が不自由なく不具合を感知できたり力を行使できるのは、世界における『私たち』という存在情報から『人間』というレッテルが剝がされてることに等しいと言ってもいい」
「つまり……どういうこと?」
「そうね、つまり『本来胃袋に入りきらない量の食べ物を無理やり押し込める。その為にお腹を開いて胃袋を拡張している』って感じ?」
また物騒な例えだな。
「人間の枠から外れているから、電脳であることをそれとなく認識できるし、人間に出来ない動きができる――――」
不具合存在に対する大きな攻撃力を得られている背景は、そういったところにあるのだろうか。
「――そんなところかしら。ともかく、そんな大仕事を身体の内部、ひいては存在情報の中でやってるんだから、少しばかりキツい負荷がかかっても仕方がないと言えば仕方ないのかもね。……とはいえ、常人にはできない体験とかでそれなりに楽しくやれている辺りだけは、まあそれなりによかったと思えてるけどね」
「……でもなんつーかな、それ、物騒な話だよな。もう僕らは人じゃないみたいで」
彼女は視線を逸らすようにテレビへと向けた。
「――――ま、みたい、じゃないんだけどね」
*
不具合存在をはっきりと認識した人間には言葉通り『世界から』いくつかの権利が与えられる。――押し付けられると言っても間違いではないが。
権利というよりは実用的な力や知識の類ではあるのだが、どちらにせよ、それは人間には過ぎたものであることに違いはない。
そのうちの一つが、言わずもがな、世界について知る権利である。
『この世界は模造品だ』なんて、だからどうしろといいたくなるような話を聞かされる場を設けられるのだ。
ブリーゼは今、それを押し付けられつつあるといったところだろうか。
「この世界」というのは実に潔い。
自分が今生きている箱庭が電脳内の情報に過ぎないということを知る「きっかけ」を掴んだ人間に対し、それはそれは懇切丁寧に暴露される。
本能的、直感的な領域にまで干渉し、ひとつの大きな確信としてそれを植え付けるのだが、その過程にあるのが刷り込みだ。ミットライトが言ったように、人間という『存在情報』や『概念』をより都合の良い物――世界にとっての抗体のそれへと書き換えているのだろう。
個人差はあれど、それらは大きな眩暈や頭痛を中心とした苦痛と、そして強烈な現実遊離を全身で感じるような嫌悪感を伴う。
「いつ頃目が覚めるんだ?」
未だうんうん魘されているブリーゼを見る。涙や汗を流しているので、ミットライトとロイエがちょくちょく交代しながらそれを拭いていた。
僕も手伝おうかと思ったが、「寝ている女の子にアナトリが近づいたら何をするかわからない」とか言われて何もさせてくれなかった。なのでとりあえず今は二人の分も淹れつつ、椅子に座ってコーヒーを飲んでいるところだ。
「明日の朝くらいですかね。たぶん」
というのはロイエ。
「たぶんかよ。意外と適当なんだな」
「しょうがないじゃないですか。医者に行って『この風邪いつ治る?』って聞いているようなもんですから、それ」
やれやれといった感じでそう言うと、「じゃあ私は先にシャワー浴びてきます」と言ってその場を立ち去った。
「アナトリも次入っていいわよ」
「いいのか」
「私はゆっくり入りたい派だから。ロイエの入った後だからって興奮しちゃだめよ?」
「お前は僕をなんだと思ってるんだ? 性欲の権化か?」
「え? 違うの?」
「あのな」
「でもちょっと意識するでしょ」
「うるせえ」
そんなこと考えてもいなかったのに、言われてしまうとなんだか意識してしまうのが悲しい男の性というもの。
ちらり、と視線を寝ているブリーゼに向ける。
瞬間、ミットライトが鼻で笑ってにやけ顔を浮かばせた。
クソ、恐るべし魔性のロリ。余計なことをしくさって。
「だからムッツリって言われるのよ」
「お前がそう仕向けてんだろうが」
「さあ、なんのことだか」
知らん顔して先ほど僕が淹れたコーヒーを飲むミットライト。
いつかなんか仕返ししてやりたい。
そんな思いを募らせてしまう。
「――はあ。ところで、今日はブリーゼのこともあるし、寝ないつもりなのか?」
とは一応の確認である。
曰く、僕がこうなったときには一晩面倒見てくれていたらしいし――――
「いや、寝るわよ私は。ロイエに任せる」
「年下をいい様に使うなよ大人げない」
「何言ってんのよ。前半は私が、後半はロイエがって感じで見るに決まってるじゃない」
あんたは仕事無いから寝てていいけどね、とまで言われて情けなくなってしまった。
「なんやかんやで面倒見いいよな、お前ら」
「褒めても何も出ないわよ」
ミットライトは、ふふ、と微笑む。それだけを見れば可憐な少女のそれだ。
そんなのを見てしまえば何もしないのは罪だと感じてしまう。それも悲しき男の性かね。
「何もしないで寝るのも申し訳ないし、僕もなんかやるよ」
「あら、珍しく律儀じゃない。それじゃあとりあえずコンビニいって梅酒でも買ってきてよ」
「未成年にそんなこと頼むなよ。コーヒーならまた淹れるから勘弁してくれ」
え~、と駄々をこねる赤ロリを尻目にキッチンへ向かうと、置いてあった小さめの電気ケトルに水を入れる。
窓外は既に橙の空を暗闇へと変遷させきっていた。
僅かながらのグラデーションもなくなり、何もかも暗い景色へシフトする。
僕らが少しも喋らなければ、外では何の音も聞こえないだろう。
冬色を濃く感じさせ始めた静謐が、秋の終わりを告げるように空に広がっていくのが、やけにわかるような気がした。
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