むらさきの娘〜紫キノコ〜
「かき氷一つください」
凛とした奥ゆかしい雰囲気を醸し出す透き通った声。
そんな声の持ち主に声をかけられたのは、忘れもしない、八月初旬の焼き尽くさんばかりの太陽が照りつける暑い暑い夏の日のことだった。
「味はいかがなさいますか?」
何の変哲もない、何処の砂浜にでもありそうな海の家の中で俺は自分より歳上に感じるぐらいの落ち着きを払う女性に声をかける。
なるべく顔をあげないように、目を合わせないようにして彼女に話しかけているのは俺が臆病だから、とかではなくて、俺がこの海の家の店員でお客様に失礼のないように心がけているからだ。
涼しそうな紫のワンピースに身を包んでいるきりりとした立ち姿を視界に収めながら、育ちのよさを体現したかのような仕草で肩にかけた白いポシェットから同じく白い財布を取り出すのをなんとなしに見つめていると、彼女はその状態から俺の予想を少し反する応えを返してきた。
「ブルーマウンテンとイチゴシロップの二つを混ぜていただけますか?」
「か、かしこまいりました」
えっ?と思わず問い返してしまいそうな衝動に駆られながらそそくさと作業に取り掛かる。
普通二種類のシロップは混ぜないだろ、と心の中で小さくツッコミを入れながら出来る限り均等にシロップをかけると俺はスプーンを紫色の氷の山に差し込みながらカウンターの上にそっと置いた。
同時にこの少し奇妙な注文をしてきた女性の顔を拝んでやろうと僅かに視線をあげる。
「150円になりま、す」
その瞬間、俺の視界に潜り込んできたのは一輪の黄色いバラを刺した麦わら帽子を頭に被った見たことのない綺麗な人だった。
雪も欺くくらいの真っ白な肌に整った目鼻立ち。何よりも印象的なのは、宝石のアメジストを彷彿とさせるどこか大人びた煌びやかな瞳だ。
俺はその神秘的で現実離れした双眼に何度か瞬きをすると、その瞬間に女性はこれまた紫がかった長髪をさらりと流しながらかき氷とともにどこかへ消えていってしまった。
あのスタスタという足音は彼女が履いているハイヒールからだろうか。
俺は暫し彼女のいた空間を見つめながら、差し出された150円と共に金縛りにあったかのように立ちすくんでいた。
「いらっしゃいませ…」
「ありがとうございました…」
彼女が去ってからの仕事にはあまり身が入らなかった。
声にもなぜか力が入らず、思った他集中出来ない。
なぜなら彼女の姿が目にチラついて頭から離れようとしないからだ。
どうして彼女のことが忘れられないのだろうか。
あの人はどこから来たんだろうか。
もう一度だけでも会えないだろうか。
そんな疑問を胸に抱きながら機械的に仕事をこなす。
そのままボーッと午後を過ごしていると、閉店間際、そろそろ夕日も暮れる時間帯にまた一人お客さんが来店した。
「すみません、海の幸とキノコのパスタください」
もう二度と会えないだろうなと悔やみ、どうして声をかけなかったと自責の念に駆られていた俺はその声の持ち主に気がつかなかったらしい。
「大丈夫ですか?」
どうやら心配をかけさせるほど呆然としていた俺はゆっくりと顔をあげてその人物を確認する。
「あ⁈」
そこにはどこか恋い焦がれていた例の美人が無表情に近い顔で俺の様子を伺っていた。
俺はカウンターごしなのになぜか近くに感じる距離感に思わずドキッと目を見開くと、そのまま自分を取り繕う為にわざと声を張り上げながら注文を受けた。
「だ、大丈夫です‼︎う、海の幸とキノコのパスタですね、かしこまいりました‼︎」
至急準備して作業に専念する。
同時に俺は彼女にどう声をかけようか考えながら頭の中で様々なセリフを用意すると、俺はパスタと共に意を決して彼女のもとに向かった。
「お待たせしました……ってあれ?」
しかし、カウンターにも店内にも彼女の姿が見当たらない。
残されたのはまたもやお金だけ。
「お客さーん…ぅわ〜」
俺は不思議に思うと同時に妙な責任感に駆られて店外に出てみると、そこには綺麗な夕焼け空が広がっていた。
オレンジ色の空にピンク色の雲が浮かんでいてなんだかどこかのお菓子みたいだ。
俺はどことなしに視線を泳がすと、ある一箇所で目を止めた。
静かに打ち寄せる波の近くの砂浜で裸足になって歩く一人の女性。潮風に飛ばされないように麦わら帽子に手を乗せながら橙色に染まっていく砂浜に足跡をつけていく。
俺はそれがあの注文をした女性だということに気づくと、パスタを落とさないように慎重に運びながら彼女に近寄った。
ふんわりとした紫色のワンピースと髪が潮風になびく。
やがて彼女は海を見つめながら腰を落とすと、そのまま沈みゆく太陽を眺めはじめた。
絶対に声をかけようと意気込んでいたが、彼女のどこか切なげに見える横顔に俺は臆病風に吹かれ、その場で躊躇する。
邪魔をしたらいけないな、となぜか雰囲気でそう感じ取った俺は彼女の隣にプラスチックのケースに入ったパスタを置いていくとそのままその場を離れるために足を踏み出した。
「ここに置いていきますね」
失礼のないようにそう声をかけて歩く。
結局ダメだったな、と落胆しながら足を動かしていると突然背後から声がかけられた。
「すみません」
波の音にも負けないしっかりした声。しかしその声色はどこか繊細で落ち着きがなくて。
俺はその声に従って振り向くとそこにはパスタとハイヒールとともにゆっくりと立ち上がる女性の姿があった。
逆光のせいか彼女の表情は窺えない。けれども彼女の纏う雰囲気とその綺麗な瞳からは大人ならではの芯の強さとその意思が漂ってくる。
そのまま近寄ってくる彼女に僅かばかりに萎縮して身構えていると彼女は俺の隣を歩き抜けながらゆっくりと振り返った。
「ありがとうございました」
そこには先ほどまで大人っぽい雰囲気を振りまいていた女性が子供のようなあどけなさを残した表情で俺に微笑みかけていた。
俺は何も言い返せずにただ見惚れる。
今までにここまで純粋無垢な笑顔を見たことがあっただろうか。
天使や女神とは違う神々しい、でもどこか懐かしくて身近に感じる優しくて暖かい笑顔。
いつまでも眺めていられる。
そう思った瞬間だった。
「あなたとはまたどこかで会う気がします」
続いて語られる意味深な言葉。
けど今だけは何もかも彼女を飾り付けるデコレーションでしかない。
「また会いましょう……森で」
そんなセリフとともに去ってゆく女性。無表情で告げられたこのセリフにどんな意味があるのだろうか?
俺たちはまた会えるのだろうか?
「はい」
ようやく紡ぎ出した返答は暗く染まっていく虚空に吸い込まれてゆく。
また会えるかどうかなんてわからないしどうでもいい。
その時の俺は、ただもう一度だけ彼女の笑顔が見れればそれでいいと思っていた。
太陽が沈み、月が辺りを照らし出す。
俺と山鳥さんの出会いは森でも山でも林でもなく、彼女の本当の家からはほど遠い陸と海の境目。
何の変哲もない海の家で俺たちは出会った。
そして俺たちはまた出会うことになる。
山奥にある森林の奥深く。
人間の立ち入らない洞窟の奥の小さなドアの先にある奇妙で不思議な世界の中で。




