ほのぼの暮らしてたら、襲われました。
連投7日目。
これで連投はラストです。
しばらくは隔日更新になると思います。時刻は夜8時。
バステト邸の養女となって二週間。
お嬢様としての教養を身につけるための授業を緩い日程で組まれているほか、私には特にすることもない。
一応、娘になったとわかった日から、バステト家(魔界では超名門の貴族らしい)の恥にならないように、頑張ろうとはしたのだ。けれど、クロに私の虚弱体質っぷりを暴露されてたので、アルベルトさんからストップがかかったのだ。
はじめこそ、お義母様(と呼ばないと最近は返事をしてくれない)が、何くれと私に構ってくれていたけれど、彼女もヒマではない。貴婦人たちの社交のために、お茶会だの夜会だの観劇だのにお出かけしている。
本当は私も連れていきたいらしいけど、ほら、そこはまだマナーとか教養がね。一応、日本の上のほうの大学の大学院いけるくらいの頭はあるので、覚えることはほとんど覚えたけど、付け焼刃感は否めないし。まだまだ、人前に出れるほどではない。
そんな暇そうな私を見て、クロが旅行を提案してくれた。
クロも幼いながら良家の子息として、日々マナーや教養を身につけているらしい。まぁ、女である私とはその内容が異なっているみたいだけど。
それでも、やはりまだ幼いということもあって、クロも家で遊んでいることが多い。その遊びの時間の大半を、私を過ごしているということなんだけれども。
「森を一つ抜けたところに、湖があるんだ。さすがに泳ぐにはまだ早いけど、水が冷たくてきもちいんだぞ」
萌黄の瞳を興奮にきらきらさせて、しっぽの先をぱたぱたさせる。
日本に飛ばされる前に行ったことがあるらしいけど、その時の思い出が、とても印象に残っているらしい。本当は、もう一度訪れる予定があったのに、異世界に飛ばされてしまったらしいのだ。
そういえば、クロっていくつだ?
ふとそんな疑問が起きる。
10年前に異世界に飛ばされているが、10年前の時点で飛ばされる前の記憶がきちんと残っているくらいに成長していたことになる。見た目、小学校進学前後なのに。
そんなことを考えていたけれど、お義母様とお義父様(こっちも返事をしてくれなくなってきた)にさくっと許可を取って、いつの間にか出発準備が整えていた。
旅行といっても、一応日帰り。お二人は予定が合わずにいけないから、私とクロの二人で行くことになったらしい。
もちろん、本当に二人ではなくて、お付きの人だとかがついてきてくれるみたいだけど。
そして翌朝、絶好のお出かけ日和と言える天気の中、私たちは湖へと旅立った。
玄関に留まっていたのは、折り畳みの屋根のついた一頭立ての馬車。執事さんが同行してくれるらしく、私とクロをのせた後、御者台で手綱を握っていた。
執事のダンテさんは若いころ、お義父様の執事兼護衛をしていたらしいから、相当お強いのだそうだ。
湖のあたりは観光地らしく、治安がいいから、気軽に三人でのおでかけになった。
馬車でとことこ3時間くらい、ちょうどお昼ご飯を食べるころに湖に到着。
湖畔で地面に布を引いて、ピクニック気分で昼食を食べてから水遊び。
クロは猫のクセに水を怖がらないコだとは思っていたけれど、ここが好きだったからか。
湖畔で水を掛け合ったり(さすがに、ずぶ濡れになるのは防いだ。結構必死の攻防だった)、ボートに乗って湖の真ん中近くまで行ったり(もちろん漕いだのは私。虚弱でも力がないわけではない)、それなりに楽しんだ。
泳ぐにはまだ早い時期だからか、他に観光客もおらず、私たちだけで広大な湖を貸切にできたのも、贅沢な使い方だ。
楽しい時間というものはあっという間に過ぎるもので、一通り遊んでみると、もう帰り自宅の必要な時間になっていた。
観光地とはいえ、街灯の整備なんてされていない森を通ってきているのだから、明るい時間に帰らなければならない。そして、片道3時間を考えると、これ以上遅くなることはできそうにない。
少々名残惜しかったが湖を後にする。
クロはもう少し居たいと駄々をこねて、執事さんに諌められるという一幕に少し手間取ったけど。草食動物になだめられる肉食動物。なんとシュールな。
帰り道、森の半ばに差し掛かるころには、すでに太陽は傾いて、薄赤い光を放っていた。
一般的にいう、逢魔が刻。
まさしく、魔に出会ってしまった。
クロとの楽しいおしゃべりに夢中だった私がそれに気づいたのは、馬車が完全に止まってからだった。
びっくりして馬車の幌から見える範囲をのぞくと、複数の狼のようなもの。幌を避けて見回せば、無数の狼のようなものに囲まれていた。
狼のようなもの。けれど、狼ではないもの。
だって狼は、あんなに口からはみ出すような大きな牙は持っていないし。
だって狼は、あんな毒々しい色の眼はしてないし。
「なんだ、ガルリムか。これなら、大したことはないな」
私の横から、馬車の外をのぞいたクロが、こともなげにそんなことを言う。
大したことないって、あれが?
あんなに近くて、あんないっぱいいて、あんな敵意むき出しなのに?
「大丈夫だ、リサ。ダンテは強い。それに、・・・何があってもお前はオレが守ってやる」
いつの間にか恐怖で震えていた私の手を、小さな手で握って励ましてくれる。
クロにかばわれたことで、少しだけ恐怖を忘れることが出来る。かばわれている場合じゃない、私がクロを守らないと。
そんな決意を胸に、ぎこちないながらもクロに微笑みかける。
「大丈夫でございます、お嬢様。すぐに追い払って差し上げますから」
クロとの会話で、私が怖がっていることを察してくれたのか、ダンテさんがいかめしい顔に精いっぱいの優しい笑顔をのせてくれた。
正直、なだめるのには全然適してない笑顔だった(むしろ、子供が泣き出しそうだった)けど、その心遣いが嬉しくて、できる限りの微笑みを返した。
「それでは失礼して。少しお見苦しいものをお見せすることとなりますが、ご容赦ください」
ダンテさんはそう言うと、御者台から後ろを向いていた体を戻し、立ち上がる。
すると、彼の輪郭がどんどんぼやけてきて、きちんと姿が認識できなくなる。
あれ、なんか大きくなってない?
はじめは気づかなかったけど、ダンテさんの体は、一回り大きくなっていた。そして、頭に生えている角も。
きちんと見えるようになったときには、ダンテさんの姿はすっかり変わっていた。
さっきまでは存在しなかったはずの黒い翼が生えていて。
申し訳程度に生えていた角は、弧を描いて長く伸びて。
ちらりと見えた横顔は、どこかで見た、キリスト教の悪魔そのもので。
『ヴォォ・・・・』
変身を終えて息をついたときに聞こえた声は、地獄の底から聞こえてくる、不気味なものだった。
いかめしい顔ではあったけど、慣れない生活の中で優しい心遣いをくれるダンテさんの変貌に、わが目を疑う。
目を瞠っている私の目の前で、彼は漆黒の翼をはためかせて、ふさりと浮き上がる。
黄昏色の中に浮かび上がる彼は、まさしく、地獄から招かれた悪魔そのもの。
軽く握っていた両手を少し開くと、そこには光の固まり。そこからは尋常じゃない圧迫感を感じる。
不意に、悪魔はその両手を振るった。
無造作に、という表現が一番似合う動かし方なのに、その後に起こったことはまさしく。
「リサ、見るな」
この世のものとは思えない光景に、呆然と光の帯の行き先を見てしまった私に、クロが後ろから抱き着いてきた。ちょうど目隠しをするように。
けれど、私は見てしまったのだ。
地獄絵図とよく似た、その光景を。
動物の肉と毛皮の焼けた、嫌な臭い。
一面に広がる、血の海。
ただの物体と化した、生き物であったものの、虚ろな眼。
たった一瞬ではあったが、平穏で、死と隔絶されたといっても過言ではない現代日本にくらいしていた私の瞼に簡単に焼き付くくらい、その光景は壮絶だった。
私の眼を覆っているクロの温かい手が、あぁ、これは現実なのだと、教えてくれた。