【09】 声
「失礼します」
恐縮したように、遠慮がちに病室に入って来た青年は、両手で不似合いなピンクの花束を抱えていた。
背の高い、痩せぎすの若い男。
ブルーのジーパンと、グレーのセーター。
助けてくれた人だと聞いても、真菜にその顔に見覚えは無かった。
少し鋭さを感じさせる、切れ長の目。
その目が、困ったような色を浮かべて自分を見ていた。
不思議と怖くは無かった。
医者でさえ、男に近くに寄られると怖かったのに。
最初に意識が戻って診察を受けた時、大丈夫だといくら自分に言い聞かせても、身体が震えた。
足がすくんで動けなくなった。
吐き気がこみ上げてきて、何度も吐いた。
この人も、同じ男――。
なのに、なんで怖くないの?
「明日は、クリスマス・イブですね」
沈黙に耐えかねたように青年がが口を開いたとき、その理由が分かった気がした。
ああ。声だ。
この声。
少し低くて、温かみのある声。
あの時、恐怖と寒さで壊れそうな私に「大丈夫だ。もう大丈夫だ。心配ない」そう何度も何度も呟いてくれた、優しい声。
「そう、ですね……」
そう彼に答えた後急に、真菜を罪悪感が襲った。
『お父さんも、お母さんも死んじゃったのに、妹の留美は行方不明なのに、私はこんな所で何をやっているの?』
一気に、アノ時の記憶が、フラッシュ・バックする。
――ウラムンナラ、オヤジヲ、ウラムンダナ
――ヘェ、バージンカ、コリャァイイヤ
「うっ……」
こみ上げる吐き気を何とか堪えながら、真菜は思わず呟いた。
「この世に、神様なんていない。私は信じない」
『八つ当たりだ』と思った。
この人が、悪いんじゃない。この人は親切で私を助けてくれて、その上お見舞いに来てくれているだけ。
そんなことは、分かってる。でも、どうしようもない。誰かにこの感情をぶつけなければ、壊れてしまいそうだった。
『もう、壊れてるのかもしれない』と真菜は思った。自分で自分の感情のコントロールがきかない。安定剤を処方されていたが、それも効いているのかどうか分からなかった。
「また来ます……」
それだけを言って青年は、名前も名乗らず帰って行った。
「具合はどう、真菜ちゃん?」
病室を尋ねてきた叔母の斉藤晶子の声に、ベットに座ったまま、自分を助けてくれたのだと言う青年が持ってきたピンクの花束をじぃっと見詰めていた真菜は、はっと我に返った。
緩慢に顔を上げると、心配そうに覗き込む見慣れた優しい叔母の顔が目に入る。
「はい……」
真菜は、自分の父の妹でもある、父とよく似た面差しの叔母の丸い顔を、あまり見ないようにしながら、コクンと頷いた。
斉藤晶子は、事件の舞台となった真菜の家から徒歩で二十分の近所に家族で住んでいる。真菜は、明日退院したらそのままこの叔母の家で暮らすことになっていた。
「あら。綺麗なお花ね。誰かお見舞いに来てくれたの?」
「はい」
それ以上言葉を続けようとしない真菜に、少し寂しげな笑顔を向けて晶子が持ってきた荷物を整理し始める。
「これ、着替えね。それと……」
言い辛そうに口ごもると晶子は意を決したように口を開いた。
「チョコがね、居なくなっちゃったの……。急に、知らない家に連れて来られて怖かったのかしらね。ここに来るとき、玄関を開けた隙に飛び出して行っちゃって、探したんだけど、見つからなくて……」
チョコ……。
外に出ては決して生きて行けない、無力な小犬。
唯一残った、私の家族……。
真菜の脳裏に、寒さと恐怖に震えているチョコの姿が浮かび、今の自分と重なった。
「ごめんね、真菜ちゃん」
そう言って、晶子は堪えかねたように目頭を押さえた。