8、パラレル・ワンルーム
とあるマンションの一室。南側の部屋、窓とカーテンに遮られながらも良い具合に日が差し込む位置。それを目覚まし代わりに、重たい体を起こす。しかし時計はすでに昼過ぎを指していた。
散らかった部屋の数少ない足の踏み場を慣れた動作で通ってみせる。デスクの上のパソコンを起こし、すぐ隣の壁にかけてある日めくりカレンダーを一枚更新。小さな紙に『五月十八日』の文字がでかでかと掲げられてある。
寝起きにはお決まりのコーヒー牛乳を用意し、いざパソコンの前に鎮座したところで、カラン、と軽い何かの落下音が響く。この部屋のどこか、それも聞こえたのは奥のほうから。部屋の異常を探す足は、最終的に新聞受けの前で止まった。おもむろにその口を開いた。
「あ……? なんだ、コレ」
不機嫌そうにつぶやく。思わず。新聞受けから転がり出てきたのは、宝石とおぼしき透き通った石。周りに控えめではあるが装飾されている上、銀のチェーンの流さからしてこれはネックレスだ。何故こんなものが入っているのか――通販なぞで注文した覚えはないし、そもそも商品素っ裸で突っ込むバカがどこにいる。
考えてもわからないようだ、そう思って思考を止めた。なにせゆっくりしていられないのだ。早々にパソコンの前に戻り、それを起動させた。日常の大半を占めることになる、それを。
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とある教室の一角。倉科篝は机に突っ伏していた。ちょうど今日最後の授業が終わったところだ。ちなみに化学。そんな篝を横目に、緋菜はいそいそと帰る支度に取り掛かる。
「……ろくじょーさん、化学わかんない」
「なんであたしに聞くのよ……出来る友達持ってんでしょ」
「あれ? 六条は俺の友達じゃないのかな?」
「そうね、勘違いよ」
緋菜の返答はいつもそうだ。単調、淡泊、その上毒を忍ばせている。男子に分類される篝としては、そんな会話が出来るだけ特別ではあるのだが。どうやら緋菜の視点からは篝が友達だろ、と都合の良い言葉を利用したテスト前に慌てる愚か者に見えたようだ。
そう、テスト前。明日からは中間テストが待っている。高校生活初めてのテストなのだが、生憎篝は勉強を好むタイプではなかった。わずか二ヶ月足らずで躓いた化学ももちろんテストが課される。
緋菜が勉強の出来る人物だということは、少し親しい間柄では有名なことだ。彼女の裏事情を知る自分からしても勉強に使える時間はそう多くなさそうだが、彼女が何かで躓いているところを見たことがない。
そういえば、あれから裏側のことに巻き込まれたことは一度もない。堂々と話題に上げられることではないので特にその手の話もしていない。不思議なほど、篝はいつもと変わらない毎日を送っている。
「ま、せいぜい頑張りなさい。同志ならたくさんいるでしょ」
帰る支度を終え、立ち上がった緋菜。……ホームルームもいつの間にか終わっているではないか。それにしても、あんなにそそくさと支度を済ませるのには今日は何か用事があるのだろうか。それじゃ、とお愛想の一言を残し去ろうとした緋菜、の肩にぽんと手が置かれる。
「どーこ行こうってんだい、緋菜さんよう」
「……笑顔全開でどうしたのよ、かもめ」
弾けんばかりの笑顔をたたえ、緋菜の両肩をがっしりと掴んで放さない女子生徒。輝かしいその顔とは対照的に、緋菜は胡散臭いものを見る目だ。
「忘れたとは言わせないぞ! 今日はあたしとマック行く予定だろー!?」
「……あ、うん」
「いや、どう見ても忘れてたよなお前」
嗚呼、なんと白々しいことかこの女。肩を強く揺すられながら何食わぬ顔で嘘をつく。隠そうと思ったのかそうでないかは定かではないが、とりあえず下手だ。
焦げ茶色のセミロングの髪に、小さな花飾りのついたオレンジ色のカチューシャが特徴の女子生徒、水橋かもめ。ひどく賑やかで顔の広そうな、緋菜の友人。特徴的な名前と持ち前のテンションの高さで篝も顔と名前はすぐ覚えていた。おまけに緋菜と話すようになってから、向こうから話し掛けてきたりもして。なんだかんだで篝も結構仲は良い。よく二人が一緒にいるところは見かけるが、何故緋菜と仲が良いのかはわからない。
「悪いけど、用事出来たからまた今度ね」
「あ、あっさり断ってくれるな君……! あたしより大事な用ってなんだちくしょう! 泣くぞこら!」
「仕方ないでしょ……ちょっと面倒な用事が入っちゃったの」
喚くかもめを宥めるでもなく淡々と事実を吐く、言うなればそんなところ。女子はもう少し誠意というか申し訳なさそうに事情を話してみせるものだと思っていたがしかし。
そして気づけば、言い終えた緋菜の目線はじっとこちらを見ていた。そして、離れない。何かを訴えているような、そうでないような――――と、考えを巡らせているうちに緋菜は再びそれじゃ、と一言置いて教室を去った。
「……まったく、しょうがない子だよ! けど仕方ない、この際二人で語ろうじゃ――」
「悪い、俺も用事あるからまた!」
「へ? あ、ちょ……ッ、置き去りー!?」
悲痛なかもめの叫びも篝の耳には一切入っていなかった。どころかすでに脳内から抜け落ちていた。ただ何となく、緋菜を追おうと思った。急いで教室を出たが、すでに緋菜は遥か遠く。わずかに捉えた小さな姿を追っていった。
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「――……じ、じ、じ……」
「もう諦めたらどないですか? 瀕死の蝉みたいですえ」
組織“黒”、談話室にて。暇を持て余した翔梧と色葉がしりとりをしていた。と言っても、翔梧が一方的に持ち掛けた誘いに仕方なく色葉が構ってやっているに過ぎないのだが。
また、翔梧に学と呼べるものはほとんど無い。なのに何故、ボキャブラリーの豊富さが問われるこのゲームを選んだのか。それもまた、翔梧に学が無いことが由来するのだろう。
「じ……つか、俺は緋菜が来るの待ってんだよ。あいつが来れば終われんだよこれ」
「なんや緋菜はんに構って欲しかっただけどすか? せやけどあの子、今日から仕事入ってたはずやから帰ってけえへんよ」
「は、はあ!? そ……そんなこと一言も言ってねーだろ! つかマジかよ何だったんだよこの時間!」
喚き散らす翔梧には目もくれず、色葉は本棚に並べられていたファイルの一つに手を伸ばす。ぱらぱらとめくり、一枚の書類を取り出した。無言で差し出された書類に翔梧はざっと目を通し、思わず苦笑いした。
「……おいおい、これまためんどくさそーな」
「うちらにとっても異例やったからねえ、あの子は進んで引き受けてくれたけど……まさか、ニートのボディーガード勤めさせられるなんて」
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「……どうしたらニートが狙われる事態になるんだ」
駅から徒歩五分、とある高級マンションの十七階からの遠景を眺めつつ、篝は尋ねた。ホームルームが終わったのち、急いで緋菜を追い掛けたは良いが、同様に急ぐ彼女の足の早いこと。追いついた時にはもうこのマンションのすぐそばだった。
「正直わからないことだらけなのよ。守る相手はニートで、命が狙われる危険性が高いから守ってくれって。おまけに裏側の事情は一切バレないようにしろって話だし」
「よくそんなの引き受けたな……」
「こっちの事情話すなってことは表側の人間の可能性が高いし、それが命を狙われるって言うんだから不思議なんだけど」
どうやら入ってきた情報が少なすぎるらしいが、この日の夜から数日このマンションに住むニートを守ってほしいとのこと。裏側の人間ではなさそうだが相手は命を狙ってくるときた。なるほどこれは面倒な仕事だ。断ることは出来なかったのだろうか、と一瞬尋ねようとしたのだが、表側の人間の命が狙われるというのに黙っていられるとも思えない。何の言葉にもならず、沈黙が続いた。やがて、一つのドアの前で緋菜が足を止める。
「あんた、ついて来るのは勝手だけど自己防衛ぐらいしてよね」
「……やっぱ危ないか?」
「なんとも言えないわ。あたしも下手に銃や刀は使えないし」
言い終えるや否や、緋菜は鞄を漁り出し、一つの小さな鞄を取り出した。中を見れば、どうやら自己防衛道具らしい。緋菜の左手を見ると、いつの間にか金属バットが装備されてあった。銃やら剣やらが出せないとなると、ああなるのだろうか。……そもそも、金属バット持って「あなたを守りにきました」って信用しがたいにもほどがあるのではないか。
そんな篝の気も知らず、緋菜はインターホンを鳴らす。少しのやり取りを終えて、ドアが開いた。
「……お前らかよ、クソ親父の言ってたボディーガードって」
ぼさぼさの短い黒髪に、グレーのTシャツと黒いジャージ。けだるそうな目と、けだるそうなアルトボイス。姿を現したニートとおぼしき人は、ひどく無気力に溢れた女性だった。
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路地裏の片隅にある、小さな一室。まだ日は高く登っているにも関わらず、差し込む光は少なく外を賑わす子供の声も皆無。そんな部屋の磨りガラス越しに、ソファに座った青年は外を――実際に見えるものはないだろうが――ただじっと見ていた。
「……何を見てらっしゃるのかしら」
凛とした女性の声が部屋に響く。台所でコーヒーを二人分入れながら、何気ない口調で尋ねた。少し間を置いて、青年は体も顔も彼女へ向けることなく語り出した。
「……夜を、待ってるんだよ。今夜ね、今夜。とてもとても楽しいことが起こる。……は、はは。ふ……ッあはははははははは! 何でかなあ、わかるんだよ俺! 今日俺は、運命的な出会いをする! “彼”とは違う、俺に最ッ高の快楽を与えてくれる人に! 今夜、この街の路地裏で、必ず!」
狂ったように笑い出した彼を気にかけることはない。それが彼なのだと、彼女はひどく理解していたからだ。彼の前のテーブルにコーヒーを置くと、ようやく彼は振り向いて、とても優しい顔で「ありがとう」と告げる。彼の二つの赤い瞳は、なおも興奮を隠し切れずに爛々と輝いていた。