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5、迎撃、反撃

 細い路地、一本道。左右に逃げ道はない。後ろなら背を向けて逃げることになり、前には化け物が立ち塞がっている。

 徐々に距離を詰めてくる、異形。つんと異臭が鼻を掠めた。その匂いに、篝は思い当たる節があった。数時間前、意識を失う前だ。あの死体の周辺と同じ。


「……な、んだよ、あれ」

「探す手間、省けたわね。まあ、一つだけ言えるのは……人間だけど人間じゃない、ってことかしら」


 淡々と述べる緋菜。妙に落ち着き払った様子。彼女はあの化け物の正体も、そしておそらくは対処法も心得ているのだろう。どことなく篝はそう感じた。

 人間だけど、人間じゃない。その言葉の意味はよくわからなかったが、今はそんなことを詮索している場合ではない。それくらいはわかっていた。


「なあ、どうすんだよ……」

「……さーて、どうしましょうかねえ」


 緋菜は少し肩を竦めて、不敵な笑みを後ろにいる篝に向けた。おどけた調子の声と、その余裕な笑み。先程とは打って変わって顔面蒼白な篝とはまさに対照的。一体彼女が何を考えて今そんな顔をしているのか。ただただ、生きることを諦めた笑みでないことを祈った。


 一定のペースで距離を詰めていた化け物が、突然足を止めた。まだ緋菜達とは少し距離がある。数秒間を置いてから、ぎらぎらと光る目を見開き、口角を目一杯吊り上げた。

 化け物が両手を振り上げる。その手にはいつの間にか、銀の細い刃が握られていた。それを見た瞬間、緋菜も動いた。


「――走って!」


 ただ一言そう告げると、篝の腕を強く引っ張り駆け出す。方向は後ろ。唐突な指令にも、なんとか遅れずに篝も走る。すぐ後ろから、風を切るような音。振り返れば、地面に突き刺さる銀色。走れば走るほど、銀色の数は増えた。


 右折、左折、左折、右折、直進、右折、直進。左折。

 再び路地裏での紆余曲折を経て、まだまだ走る。酸素を求めて、呼吸が荒くなる。そんな篝の苦しみを知ってか知らずか、緋菜は篝の手を引いたまままだまだ走る。


 銀色の数がだんだんと減っていった。緋菜が減速し始め、止まった頃にはもう見えなくなった。少し広い空間に出た。反射的に咳が出た。口の中があのマラソン後のような状態だ。


「……ま、撒いた……か……?」

「……残念ながら、無理そうね」


 さらっと放たれる、絶望感たっぷりの言葉。しかし同時に焦りも何もなかったりするからわからない。いまだ呼吸の荒い篝は、緋菜がまるで先程と変わらず涼しい顔をしていることに気づいた。息もほとんど乱れていない。化け物はどっちだ――なんて思っていたら、再び風を切る音がした。


「……マジで来やがった……」

「しつこいわねー、鬱陶しい」


 暗がりの向こう側から、やはりあの化け物が姿を現す。あちらもまた、息を乱していない。またあんなスピードで逃げなければいけないのか。そう考えて篝は顔を引き攣らせた。そんな篝を察してか、緋菜は告げる。


「……安心しなさい、鬼ごっこはここまでよ。あたしだって、何も考えずに走ってたわけじゃないの」


 そう告げると、緋菜は篝の肩を軽く押した。下がっていろ、と言いたいのであろう。そして彼女は歩み寄る化け物に向き直った。この暗闇と一体化したかのような、彼女の背中を見つめる。


「詳しい話はあとでするけど、とりあえずあれ倒すから。血とか苦手なら目つぶってなさい」


 篝のほうは見向きもせず、ただそう述べた。反論の余地も与えない、そんな静かな勢いがあった。緋菜は腰の辺りに手を添えた――何かの構えだろうか。彼女が武道を心得ているという話は聞いたことがないが。

 よくよく見れば、その構えはまるで、刀を抜くような形だった。しかし、彼女は空を掴んでいるのみ。息を呑んで、彼女の背中を見守っていた。


 ざあ、と風が騒ぐ。彼女を中心にして弧を描き流れる。綺麗な黒髪が横になびく。食い入るようにその姿を見ていた。

 きらり、月の光でも反射したのか――彼女の右手から引き抜かれてゆく、光る刀身が視線を奪った。添えられた左手には鞘が。そして、黒い柄の先からすらりと美しい銀色の刀が姿を現した。


「……『日付が変わったら、外を出歩くな』。この辺りじゃ暗黙のルール。それはね、こういう化け物からあんた達“表側”の人間を守るためなのよ」


 首だけ少しこちらに向けた彼女が、左手に収められていた鞘を篝へ投げ渡した。真っ黒い鞘。まるで彼女そのものを現しているかのような。リアルな質感。夢幻ではないらしい。

 緋菜の言葉に対し、篝はもう何も言わない。詳しい話はまたあとで、そういう約束だ。だから今、篝は緋菜の零す言葉たちを拾い集め、可能な限りで理解するだけ。


「深夜0時、この世界は姿を変える。血も涙も無い、弱肉強食の“裏側”の世界にね――――」


 彼女が言い終わる、彼女が地面を蹴る、化け物が銀色の刃を放つ。体勢を低く保ち、目で追うのがやっとなほど常人離れしたスピードで駆ける緋菜。金切り声をあげて、無数の刃を飛ばす化け物。下手な鉄砲数打ちゃ当たるとは言うが――いとも簡単に、緋菜はそのすべてをかわす。

 すぐに距離を詰めた。しかし化け物は怯むどころか、まるで興奮しているかのように騒ぐ。金属がぶつかる高い音が数回した。次の瞬間には、緋菜の体はふわりと宙に浮いていた。口には刀をくわえ、その両手には銃が握られていた。

 数発の銃声。数回の金属の衝突音。化け物の悲鳴。篝と化け物を挟んで向こう側で、緋菜は化け物を見据えていた。両手にあったはずの銃はない。悶える化け物。もつれる足で走り出す――こちらへ。


「……え、ちょ……ッマジか! ちょちょちょい待ち! 俺は関係――」

「ないとも言えないわね」


 鞘を握ったまま腕をぶんぶんと振り回す篝、そんな姿が見えているのかいないのか、突進する化け物。そしてその手が迫る前に、頭上から緋菜と刀。よく見えないがおそらく首の後ろ辺りから、刀が深々と突き刺さっている。断末魔の悲鳴をあげて、砂のように脆く崩れた化け物の体は、風の中の塵と化した。


「……終わっ、たな……終わったよな……?」

「ま、見ての通りよ。マラソンと絶叫お疲れ様」


 化け物だった何かは、すでに風に呑まれて跡形もなくなった。ようやく安心していいのかと、篝は大きく息を吐いた。緋菜は鞘をふんだくると、その銀色を中に収め、彼女の手の中からふっと姿を消した。


「……なあ、それどうなってんの……? あと関係ないとは言えないって何すっげえ怖いんだけど」

「あんま急かさないでくれる? 多分、あんたの想像通り――かしらね」


 不敵な笑みをこちらに向ける。要はどや顔だ。その台詞には聞き覚えがあった。脳裏に浮かぶのは、つい先刻の自分。


「あたしももう疲れたし、移動先で話すわ。長くなるけど死にたくなきゃ真面目に聞くことね」

「……へいへい」


 嗚呼、とんでもないことになった――――スリルなんて可愛いもんじゃない、本当の命の危機。何時間も前の自分の行動を振り返り過去の自分を責めてみる。意味がないことは篝自身わかっていたが。彼は無事この不思議の国を出られるのか。出口はまだまだ見えない。

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