4、交錯工作
静寂と暗闇。ただそれだけの中に、二人しか存在していないような空間。時折風が吹き抜けても、塵が舞うだけ。まばらな薄明かりと、晴天だった空から月が彼らを照らし見下ろす。
緋菜も篝も、何も言わない。ただ言わないのか、言えないのか。
「――――ねえ、どういうことなの」
今度は、緋菜が先に口を開く。形勢逆転。完全に篝に圧倒されている。
確かに、問い掛けた。しかし彼は何も言わない。再び沈黙が続く。背後を取られた形である今、篝がどんな表情で銃口をこちらへ向けているのかなんて、緋菜には知る由もない。
「……何で、答えないの? それとも答えられないの? あたし達と“同じ”だから」
篝の答えを待たずに、またしても口を開いた緋菜。やや苛立ちを隠しきれていない声色。あくまで強気な姿勢を崩す気はないのだろうか。
再び投げかけられた問いに、少しの間を置いてようやく篝も口を開いた。
「……あんま急かすなっての。多分、お前が思ってる通りだからさー」
落ち着き払った、それでいて普遍的な声色。やはりいつもと変わらない彼の声からは、彼の心境を察することは出来なかった。不思議なことに、緋菜はすでに心理戦では負けているような気がしていた。篝だって、こちらの心境を察するための材料はほとんどこの声だけのはずなのに。ただ一つ、背後を取ったあちらにアドバンテージがあるだけで。
「思ってる通り……ね。なら今までの行動は全部演技だったってことになるわよね? 初めからわかってたんでしょ、何もかも」
「……そういうことになるな」
あくまで直球な質問はせず、唆すように問い掛ける。しかし、返ってくるのはすべて曖昧な答え。はっきり肯定しているとは取れないような。
そんな問答が、緋菜をさらに苛立たせる。否、これは焦りや恐怖心から来ているのかもしれない。
「はっきり言いなさいよ――――あんたはこの世界のことも、あたしのことも知ってるって。あの男の死体……あれもあんたがやったんじゃないの?」
我慢ならなくなったのか、ついには核心部分に触れた。無知への恐怖、とでも言うのだろうか。衝動的な何かが緋菜を焦らせ、行動させる。
篝は一瞬目を伏せ、彼女の言葉に反応を示したのだが、それを緋菜が知る術はない。唯一頼れる聴力で、彼が一つため息をついたのを認識した。
「言いたいことはそれだけか? 気が済んだなら――――もう、いいだろ」
篝が一歩前へ出る。緋菜の後頭部に、銃口とおぼしき金属部が触れた。
――嗚呼、終わりか。
必然的にそう思った。緋菜自身、人に恨まれることは山ほどしてきた自覚はあった。けれどわからない。何故彼の手で殺されるのかが。逆恨みの類か。未練がましい、もうやめよう。
震える呼吸。そっと目を伏せた。そんな緋菜をよそに、篝は一切の躊躇いもなく――引き金を引いた。
カン、と甲高い音が響く。すぐ横の、金属製のごみ箱らしきものから。
当たっていない。結果だけ言えば、そういうことだ。まだ、生きている。恐る恐る緋菜は目を開けたが、ついさっき変わらない景色。そして気づけば、突き付けられていたものもない。
そして、後ろから唐突に笑い声が聞こえた。
「――ふっ、あははははは! じょーだんだって! 俺なんかが人殺しなわけねーって!」
その声に振り向けば、腹を抱えて笑っている篝がいた。笑いが笑いを呼んでいるのだろうか、止まらなくなっているようだ。
何が起こったのか。理解するのには少し時間が必要らしい。
「……あんた、銃は」
「あ、これ? エアソフトガンってやつ。弾ってのはこれ」
そう言って銃――否、エアソフトガンから小さなオレンジ色の弾を取り出す。見たところ、おそらくBB弾だろう。確かに、弾は入っていたらしい。さっきの音は、この弾を隣のごみ箱らしきものに向けて打った音か。
「それって銃刀法違反なんじゃ……」
「弾の大きさとか、定められた基準はクリアしてる。たまたま持ってただけなんだけどな」
軽い調子で言ってのける篝。普通はそんなもの持ち歩かないと思うんだが、これ如何に。あえて緋菜はそれ以上追及しなかった。
本当に、なんでもないようだ。あの問答は何だったのか。とりあえず、緋菜は篝に遊ばれたようなものだと認識した。そう考えると怒りが密かに沸いて来そうだ。
「……で? もちろん、洗いざらい説明してくれるよな?」
「……は? 何を――」
「世界がどうとか、お前がどうとか言ってたじゃん。あ、あの死体はお前も犯人知らないんだよなあ」
――ああ、そういうことか。
緋菜は理解した。演技だ。あれは演技だったのだ。まるですべてを知っているかのように振る舞い、見事に騙されたわけだ。実際、当の本人は何も知らなかったのだ。
「……あ、殴んなよ? あんなことしたのは悪かったけどさ、俺だって必死だったんだよ」
顔色をうかがわれているような気がする。殴りそうな顔をしていたのだろうか、と緋菜はやや顔をしかめた。
おそらく、きっかけはあの男の死体だろう。殺した犯人を自分と疑ったか、もしくは自分の知り合いだと推測したのだろう。この辺りの『ルール』を破っているのを目撃されたのだから、些か仕方ないだろうが。
「……わかったわよ。話せることは話してあげる。どのみち、何も知らないままじゃあんた死ぬし」
「……マジか」
さらっと緋菜は言い放ったが、篝の顔色は急に悪くなった。冗談だと言ってほしそうな顔だ。半信半疑ともとれるが。
ぐい、と篝の腕を掴むと、そのまま引っ張り歩く。何も言わない緋菜に、黙って篝もついていく。
しかし、少し歩いたところで緋菜の足は止まった。足だけではない。全身が硬直してしまったかのように、完全に静止している。どうした、と篝が尋ねる前に、緋菜が口を開いた。
「……わかったわ、誰があの男を殺したのか」
そう言うと、ゆっくり後ろを振り返った。同時に、篝は彼女の後ろへと追いやられた。
暗闇に覆われてよく見えないが、まっすぐこの道の奥。裸足で歩くような音がする。ゆっくりこちらへと歩み寄ってくる。明かりの下へとその姿をあらわにした瞬間、篝は思わず息を呑んだ。
異形。人間ではない、いわば化け物。見開かれた目は爛々と赤く光り、広く裂けたその口からは牙が覗き、涎か何かが滴り落ちている。人型と言えば、耳が尖っていることを覗けばぎりぎり人の原形を留めてはいる。皮膚の色も手足の数も一緒だ。
化け物は、口角を吊り上げて笑っていた。全身に、鮮やかな赤を撒き散らしながら。