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3、いつもの君

 目を少し見開き、見つめる先。あるはずのない姿がそこにあるから。

 事態を理解しきれずに、ただただ呆然と立ち尽くす。口は半開きだ。あるはずのない姿がそこにあるから。

 緋菜と篝。偶然か必然か、お互い思わぬ遭遇に驚きを隠せない様子だ。黒服に身を包んだ、いつもと纏う雰囲気が少し違う緋菜。たった今、狭苦しい空間からはい出たばかりの篝。緋菜は何も言わず、少しずつ、歩み寄り始めた。


「あー……っと、ろくじょー、さん? なんでまたこんなところで――」


 行動に出た緋菜に対し、先に沈黙を破ったのは篝だった。しどろもどろに紡ぐ言葉。だが、それを最後まで言い切る前に、篝の体は反射的にのけ反った――――緋菜のアッパーを避けるために。


「だあああああっぶねえ!? 何だよ何で!? しかも何でアッパー!?」

「騒ぐんじゃないわよこの馬鹿! こんなとこで何してるのよ! 今何時だと思ってるわけ!?」

「はあ!? お母さんかお前は! だいたい何時かなんてこっちが聞きてーよ!」


 小言の多いお母さんと不良息子――ではなく。緊張感のかけらもなく騒ぐ。見つめ合う。牽制するかのように。

 そういえば、時間を確認していなかったのだ。何せ今しがた太陽の下へ意識が戻って来たばかりなのだ。太陽は見つからなかったが。何気なく携帯を取り出し、ディスプレイの右端にある時間を一瞥した。数秒置いて、また一瞥した。


「……ご、午前……一時……?」

「正確には午前一時二十四分。これがどういうことか、わかるわよね?」


 想像を絶する結果に、またも口が半開きになる。確かこの路地裏に来たのは放課後。九時間近く意識を失っていたということになる。

 ため息混じりに述べた緋菜の言葉。彼女が何を言いたいのかは篝にもわかった。


 この辺りには妙な暗黙のルールが存在する。『日付が変わったら、外を出歩いてはいけない』というものだ。しかしそれだけである。何故なのか、それはいろいろと憶測が飛び交っているが大人も子供も忠実にその掟を守っている。今まで、そのルールを破った人間はいない。少なくとも、破ったと自称する人間は。


「あたしの言いたいことはわかったみたいね。ならさっさと帰んなさい」

「俺だってそうしたいっての! だいたい何処だよここ! つかお前何してたの? お前も帰れよ」

「……何だって良いでしょ。今から帰るとこだし」


 そう、意識を失う前から篝は現在地を把握していなかった。なのに気が付いたら今度はどこぞの狭い空間へと詰められていたのだ。風景があまり変わっていないことからまだ路地裏にいるのであろうことは判るが、それだけ。

 ふと素朴な疑問をぶつけてみれば、緋菜は少し目を伏せただけ。答える義務がないと言うのか、答えたくないのか。いや、答えられないのかもしれない――――その隙間を突かないわけにはいかなくて。


「ほーう……優等生の六条さんがこんな時間まで夜遊びか」

「馬鹿に何が解るのよ。掠ってもないわ」

「けっ、その態度が嘘臭いっての! お母さんそんな子に育てた覚えはありません!」

「育てられた覚えもないわよ!」


 間髪入れずに噛み付き返す緋菜。そんな短いやり取りに、篝は自然と笑いが零れた。訝しげに緋菜は篝を見つめる。彼女にとっては気味が悪いだけの笑いを零す彼を。


「わり、なんつーか……ほっとした。やっぱ六条は六条だな」

「……あんた大丈夫? あたしは逆に心配なんだけど」


 先程の笑いは安堵感から来たものだったようだ。だが二人の温度差はなかなかのもので、緋菜の目には余計気味が悪く映るだけだった。


「……俺、帰り道に野良猫に鍵取られてさ、この辺で追いかけてたら……なんか、後ろから殴られてさ」


 ぽつり、おのずから話し出す篝。何故このタイミングで、何故緋菜の前でこんな話をしているのか。それは篝自身よくわかっていなかったが、黙って聴き入る緋菜に言葉を続ける。

 追いかけっこの途中で、黒猫は見失ってしまったこと。後ろから殴られ意識を失い、狭い空間に押し込められていたこと。そして、意識を手放す前に見た、男の死体。全て話した。包み隠さず。


「……異臭がしたなら間違いなさそうね。あんたもつくづく運悪いわね……なるべく早く忘れなさい」

「……それだけ?」

「他に何を求めてんのよ。あたしに出来るのは話聞くぐらいよ」


 諭した緋菜の口ぶりは、その裏に優しさを隠したものだった。早く忘れろ――その通りだろう。自分が何かしたわけではないのに、死体を見ただけなのに、ここまで気負う意味はない。本当についてない、篝は改めてそう思った。


「……さ、帰るわよ。迷子なんでしょ、着いてきなさい」


 そう言って緋菜は向き合っていた体を翻す。篝を迷子呼ばわり出来るのは、この路地裏の出口を知っている証。それだけ告げて、くるりと篝に背を向ける――――そう、後ろを無防備な状態にする。


 カチャリ。軽くて重い、金属が立てたような音。背後にそびえ立つ、小さくて大きな圧迫感。


「――――なん、で」


 動けない。蛇に睨まれた蛙の如く。冷静が完全に欠落し、残るのは絡まり合った思考回路のみ。やっとのことで搾り出した声は、うまく言葉に成ってはくれない。


「……動くなよ? 弾、入ってるから」


 いつもと変わらない、いつもと何一つ変わっちゃくれない口調。圧迫感を後頭部に突き付けられたまま、緋菜は言葉を失った。理解しろと言うほうが無理だ。さっきまでのクラスメイトは今日アンラッキーマンになり、今凶器を自分に向けている。嗚呼、出来るものなら解説してみるがいい。

 夜の冷たい風が頬を掠めて吹き抜けた。五月の夜はまだ冷える。しかし寒いと感じた原因は果たして、風か彼か。


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