17、放課後の待ち伏せ
夢を、見ていた。またあの夢だ。深い深い水の中。海や湖かもしれないが。そこにただ立っている自分。見上げても、やはり水面は遠い。いつものように、真正面には鏡がある。しかし今日もその中に、自分はいない。
これは夢だ。夢の中にいながら意識のようなものを持ち、篝はこれが夢の中であることを自覚していた。夢よ覚めろと言い聞かせてみるが、そう上手くはいかない。ただ茫然と、意味もなくそこに立ち尽くす。何となく、鏡に手を伸ばしてみた。
「――……せ――……り」
はっと息を呑む。掠れて何を言っているかはわからなかったが、確かに聞こえた。紛れも無い、何かの声を。そしてそれは、鏡の中から聞こえた。今までこんなことはなかった。突如訪れた変化。もう一度、今度こそしっかり聞き取ろうとさらに手を伸ばした――――、
「いってえ!」
ゴン、となかなかに派手な音を立てて額を打った。ベッドの縁、本来は寝相の悪さなどの原因で下へと転げ落ちる役割を持つ部分に、篝は思いっ切りぶつかった。そんなわけで、夢から覚めた。額をさすりながら、上体を起こした。
――久しぶりに見たと思ったら。
わかりにくい進化を遂げたらしい夢。最近、と言っても数週間だが、その間は見ていなかった。何故今になってまた見るようになったのか。いや、今日だけかもしれない。答えの出ない問答をしてしまう、梅雨半ばの朝。
六月も中旬に差し掛かり、天気予報はすっかり雨だらけになってしまった。学校までそれなりに歩く篝にとっては、雨は好ましくない存在だ。小雨ならまだしも、朝から本降りでは気分も落ちる。傘はお荷物になるくせに雨を完全に防いではくれない。なんて不満を言ってても仕方ないので、さっさと用意を済ませて学校に向かう。
「おーっはよ、倉科ぁ!」
「いってえ!」
一年生の教室、二階へと上がる階段の途中で背中を力一杯叩かれた。じんじんと伝わる痛みをプレゼントしてくれた張本人、かもめが笑顔で横に並ぶ。まだ起きて二時間ほどしか経っていない。計算上一時間に平均一回痛みに襲われることになっている。なんて恐ろしい日だ。
「何でわざわざ叩くんだよ。お前のせいで一時間に一回ペースだよ」
「何それ意味わかんない」
ああ、俺もわかんない。そう言う代わりに深いため息をついた。今日はついてないな、なんて思っていたがついていた日なんてこの頃あっただろうか。とにかくこの一日無事に乗り切れますように、と普段信じてもいない神様に都合良く祈ってみた。
「よお、篝。水橋も早いじゃん。つか一緒かよ」
「緋菜のメールで目覚めちゃって。今日休むんだってさー」
「マジで? 珍しいな」
教室に入れば出迎えるような形でそこにいたアキラ。雨だろうと晴れだろうと陽気なアキラが何となくうらやましく腹立たしい。頬っぺたを抓ってやろうかと思うくらいに。
かもめが制服のスカートから携帯を取り出し、メール画面を証拠に見せた。そこには淡々と「今日休むからよろしく。二度寝するんじゃないわよ」とだけ書かれていた。嗚呼、なるほど緋菜らしい。篝は一人で納得していたが、このメール、休む理由は書かれていない。言わないだけか、言いたくないのか。
止むことなく降り続く雨、どんよりとした暗い空。無駄に広く感じてしまう右隣に、意味もなく視線を落とす。そこには空気しかない。彼女は今頃、どこで何をしているのだろうか。
六時間の授業のすべてが終了したころ、ふと外に目をやる。あれだけ降っていた雨はすっかり止んで、いつの間にか嘘のように晴れている。無理矢理自転車で学校に来た生徒の歓喜の声が聞こえる。帰ろうぜ、と声をかけてきたアキラに頷く。かもめもその横にいた。
「ね、伊宮って無駄に頭良いよね。何なの?」
「いや何なのってなんだよ」
「絶対こいつ馬鹿だろって思ってたのになー。この裏切り者」
「褒めてんのか!? 馬鹿にしてんのか!?」
話の始まりは中間テストの結果だ。誰もがその出来栄えと点数に一喜一憂していたのだが、なんとアキラは知らない間にクラスで三位という秀才のポジションを獲得していた。ちなみに一位は緋菜だ。篝とかもめはというと――いや、名誉のために伏せておこう。
校門付近は人がまばらだった。この時間はたいていの生徒は部活中だからだ。しかし偶然にも三人とも部活はしていない。アキラは中学時代の友達とバンドをやっていて、かもめはバイトに力を入れている。篝は単にどれもパッとしないという理由だったのだが、不思議と退屈さなどは感じていない。
その人通りの少ない校門に、こちら側をじっと見つめて立っている人物がいた。
「よっ、かーがり君! 待ってたぜ」
「……は?」
黒のスウェットにグレーのパーカーを着た、同じ年頃くらいの少年。無造作な茶髪も合わさって少し軽そうに見える。その彼が、ニコニコと笑いながら篝の名前を呼んだ。が、しかし、篝には誰だかわからない。間違いなく、会ったことがない。アキラとかもめもきょとんとして顔を見合わせている。
「なんだよ、中学時代の親友だろ? 忘れたとは言わせねーぜ。ほら行くぞ。あ、悪いけどこいつ借りてきまーす」
「はっ!? ちょ、待っ……意味わかんねえ!」
篝の腕をぐいぐいと引っ張り歩いて行く。人違いじゃないのか――そう言おうとしたが、突然の出来事で篝は上手く話せない。アキラとかもめは茫然とそれを見送った。少年の“中学時代の親友”という言葉を信じて。
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「いやー、悪いな! なんか良い言い訳見つかんなくてさ」
「ふざけんなよ! 意味わかんねえし何なんだお前!」
悪びれた様子もなく軽快に笑ってみせる少年に対し、篝は風当たりを強める。少年に手を引かれたまま町を歩く。いったい何処へ連れて行かれるのだろうとは思ったが、篝は慎重だった。今はまだ、されるがままにしている。前を歩いていた彼が、突如くるりと後ろ、つまりこちらを向いた。
「俺、翔梧ってんだ。緋菜の仲間……って言ったら、わかるよな」
少し声を潜めて、周りの様子をひそかに伺いながらそう言った。彼の言葉の意味を理解した篝はもちろん驚愕した。何故、何の用で。緋菜以外の人間が、一人で自分に会いに来るなんて。真偽はひとまずさておき、正体がわかったところでより警戒を強めた。
「ああ、そんな怖い顔すんなって。ちょっと付き合ってもらいたかっただけだし。じゃ、ゲーセン行こうぜ」
「は、はあ……?」
篝には一向にわけのわからない状況が続いているのだが、お構いなしに翔梧はどんどん歩いていく。心なしか上機嫌だ。こうして篝は初対面の少年と共に遊びに出かけることになってしまった。彼の思惑など読めないままに。
表側の世界をほとんど書けていないことに気づく。←
普通の高校生らしい青春(笑)もそのうち。
ところで、お気に入り登録現在3件。
うち2件が誰かわからずもどかしい、いやはや何とお礼を申し上げれば良いものか……。
逆お気に入りユーザーはわかるのに逆お気に入り小説はわからないんですねー、残念すぎる。