命題2:勝率は均等か否か
あたし、渡辺絢子と、この男、シリウス・カルツァ宮廷公爵・元老院代表――――もっと分かりやすくいうなら現カー・シ国の宰相は、三年半前に一つの契約を交わしていた。
腐敗した王権廃止を掲げる革命軍に民を導く神の御使いとしてここではない世界から連れてこられ仕立て上げられ馬車馬のごとく働かされていたあたしと、王家を守るため貴族を率いて国の剣として反乱する国民に殺戮の限りを尽くしていた当時近衛騎士団第一隊師長シリウス・カルツァは分かりやすく対立する立場だった。そしてそれが全ての原因となった。
天涯孤独の身の上ながら高三にして勝ち取った公務員職をなんとしてでも保持しようと帰還を盾に迫られさっさと王権を廃止させるべく、こちらよりも遥に発達していた文明の恩恵をいいことに知力の限りを尽くして王族貴族達(時には商人)の足元を押し崩していたあたし。
国王・皇太子共早くに姿を隠し、王弟である父親はすでに瀕死寸前の高齢、兄は革命軍に殺された王位継承第五位という実に美味しい立場を手に入れた己の野望のために、武力と力と金に物を言わせて反乱軍という名の民を片端から押しつぶしていたシリウス・カルツァ。
互いが互いを一番の障害とみなすまでに半年もいらなかった。
そこで、あたし達は考えたのだ。
このままだと、いずれは首都での総力戦。あたしを帰す手立てを持つ人間を極力残しておきたいあたしと、駒が減っては自分が王位に着いたときに困るシリウス・カルツァ。お互いの妥協点はほぼ均等。では、今ここで指針を変えたとして最善の道とは何か――――。
決まってる。
このまま泥仕合を続けるなんてナンセンス。総力戦なんてもってのほか。
坂本竜馬然り、名誉革命然り。理性を持つ生物ならば頭を使え。
つまりは、早期の平和的協議による和解と被害拡大の阻止だ。
互いの利害と思惑が一致した結果、あたし達は密会し裏で手を結んだのだ。
あたしは革命軍のおおよその要望を満たす象徴王家と明治初期辺りの日本の議会制度の提案と骨子を詰め、そちらに突きつける。ようするに、こちらの政治形態を中流階級以上程度を参政させる貴族院制辺りまで持ってくわけだ。正義感? 誘拐されて戦争に巻き込まれて脅されてまで犯人達のために体を張るなんてあたしは勘弁。
そしてシリウス・カルツァは、強硬派を懐柔し穏健派主流に総意を持っていき王家に国政関与をさせないという言質を取って、あたしたちが持ってきた草案を待つ。決着後の貴族院制における貴族達の中の様々な駆け引きがあった中で、奴は悠々と元老院の母体となる組織を設立し自分が支配するところまでしてたんだっていうから恐れ入る。
その際にあたし達は契約を交わした。
あたしは、革命軍の意思を内部でコントロールし、この問題をシリウス・カルツァを中心とする貴族数名に有利な条件での早期解決に努める。
シリウス・カルツァは、王族貴族を懐柔し革命軍案を飲ませ、全ての終結後にはあたしを元の場所に帰す手段を講じ、迅速にあたしを解放する。
契約は選挙にてシリウス・カルツァが貴族院に参入されること、そしてその後にあたしを帰す万全の準備を整えることで履行とみなす。
で、シリウス・カルツァがめでたく当選し元老院代表にも納まったこの日。
あたしはめでたくこいつに裏切られて馬鹿を見たってことだ。
非常に残念ながら、未だに腕を放さないこいつは契約のパートナーとしてはあたしのほぼ理想に近い完璧な存在だった。(マイナス点は鬱陶しいあたしに対する執着と気持ち悪い言動だ)こいつの代わりを見つけるのには苦労する。いや、この時点で候補者が上がらないのだから苦労しているのだろう。
何しろ、こいつはあちらの世界の生まれだといっても信じられるほどビジネスライクで合理的で行動が迅速だ。こちらの世界の人々の大半が身分の高低に関わらず情に厚く形式や礼儀を重んじ優雅な中でこいつの行動は正直ありがたかった。実際は五年を見積もっていたこの大騒動が三年で終わったのはひとえに、こいつの能力だろう。
(シヴァレーンとミハイルとフィード、三人を相手に立ち回っても二年で収められるか)
内心で舌打ちして思考する。誰にしても、面倒なことには変わりない。奴らの誰一人として、あたしを手放したいとは思っていないのだ。
そう、あたしにはこの一年余りで出来た信奉者がいる。
あたしはその筆頭に冷ややかに声をかけた。
「とっとと腕を放せ」
信奉者のいる理由? あたしが神秘的なとびきりの美人で、賢くて、この国を救ったからだ。
後者の二つは兎も角、最初の言葉が大げさなんていわないで欲しい。あたしは自分でむやみに卑下なんてしない。だって事実だもの。
美容技術が大幅に遅れているこの世界で、生まれてからこつこつとスキンケアやヘアケアをして、更に今でも栄養バランスまで考えて睡眠の重要性を理解している人ならばよっぽどの美人じゃない限りそれなりに見られる風貌だろう。もとよりそれなり以上の美貌を持つあたしが、食いたいものだけ食って気ままに怠惰な生活を送っている肥満気味のお姫様に劣るなんて冗談でも言ってほしくない。美とは死ぬ気で努力して保つものでしょう。武器よ武器。
「アーヤ」
「あたしは二度も同じことを言う気はないのよ、シリウス・カルツァ宮廷公爵。速やかにその薄汚い手を離しなさい」
あたしは低い声を出す。これは警告だ。
「あたしに力がないと、侮った屑がどうなったか知らないなんていわせないわよ」
「……存じ上げております、私のアーヤ」
数秒の表情の空白をまるで何事もないかのように受け流し、にんまりと笑って見せた男は愉悦に満ちた顔であたしの手の甲を力尽くで取ったままそのまま真っ赤な舌先で舐めあげた。不愉快絶頂。あたしは喉の奥で唸る。警告のまま動きかけた、その腰を折るように男はうっとりとあたしを見上げたまま微笑む。
「アーヤ、ああ、美しく気高き私の女神。勿論、覚えております。あの時のみすぼらしく醜く、愚劣で驕った家畜を一瞬で貫いたあのときの貴方ほど麗しく気高きものは存在しない。あの時、薄汚れた豚の血を浴びてそれでも、貴方は高尚だった。一閃で豚を刺し殺して、微笑んだ貴方の笑顔に私が如何に快楽を覚えたか。嗚呼、あの幸福にも絶望的なあの瞬間を忘れるなどとそんなこと。豚共に向けるには貴方のあの清らかな笑みは余りにも不釣合いだった! 出来ることならば私があの豚になりたかったのです。あれから幾夜、私があの豚を嫉み憎み恨み呪い悶えて眠れなったか、貴方はご存じないのです!」
「気持ち悪いっつってんのよ、腐れド変態が」
人が仮にも初めて殺人をしてショックを受けてたときに、何をしてたっつったこの男は。
あたしはひくり、唇を引きつらせて唸る。……残念極まりないことに、男の与太話に思い当たってしまったことがあったのだ。
「……納得はしたわ。妙だと思ってたのよ、あんたあの時までは口では似たようなこといいながら実際は冷静だったわよね。少なくともあん時までは、あんたあたしが死んでもよかったのね?」
男は笑みのまま首を振り、聞き分けのない子を宥めるように甘えた声を出した。
「アーヤ、アーヤ。どうか、お許しを。あの時の私は何も見えていなかった愚劣な輩と同じだったのです。けれども私は、目を覚ましました。他でもない、貴方のあの姿を見てから」
またふざけたことを言っているが、否定はしていない。
つまりは、そういうことだったらしい。
「あの時、助けようと思えば助けられたくせに今更遅いわこの*****野郎!」
口汚く吐き捨てた言葉に男はますます喜んだ顔をした。
畜生、喜ばせるつもりなんて欠片もなかったのに、と思いかけてふとそんなことにかかずらっている場合ではないと気付いた。急速に頭が理性を取り戻し、動き出す。すべきことは何だ。使えそうな奴らを集める? それとも自分で手段を講じる? 否、それよりも先にすべきことがある。
(障害の、排除)
思った瞬間に、あたしは念のためにと携帯していた太ももに隠していた短剣を取り上げて男の胸に勢いよく突き立て――――。
「アーヤ、」