命題1:裏切りか否か
書き手は犬が好きです。豚も好きです。
猫も猿も鼠も猪も象も熊も好きです。
また、このお話には
# 主人公が間違っても善人ではない
# 侮辱・罵詈雑言・不愉快を誘う言葉
が含まれています。閲覧にはご注意ください。
帰りたい、帰りたい、帰らなきゃならない。
あたしがあたしになれる場所に。
あたしの世界に、あたしは帰るんだ。
「上手く利用してくれたわね、この駄犬」
誰もいない、拝謁の間につれてこられたあたしは一瞬で白けて、冷めた声を出した。心の奥底にひっかかっていた何かの予感がめでたく現実になってしまったわけだ。
全ての悪夢の始まりであるこの場所――――あたしをあちらの世界に送り返す儀式の支度が整えられていたはずの広間には、顔見知りの王族どころか神官一人いやしない。がらんどうの広間は装飾過多な空々しさだけが妙に目に付く。
つまりこれがどういうことかなんて、言われなくっても分かる。
あたしは最後の情けに許していたエスコートの手を振り払い、一段高い玉座に向かい、腰掛ける。趣味悪い金と宝玉でごてごて飾られた椅子はマシな座り心地。
一瞥すればいつの間にやら控えていた美貌の男が足元に跪き陶然とこちらを見上げ、あたしの組んだ脚に頬を寄せ7センチヒールの革靴を舌で舐めあげる。先ほど振り払った手のことなど意にもとめていないらしいその態度にあたしの怒りは一気に沸点を超えた。
「ああ、私の女神。どうぞご慈悲を!」
「キモい」
悲鳴上げてあげたのは最初の二回まで。あたしに対する被虐嗜好のある真性の加虐嗜好者はあたしが悲鳴を上げた二回で世にもおぞましいことをしくさったので、三回目以降はその整った顔立ちにヒールをめり込ませることにしている。それにも喜ばれるが、まぁそこは個人がどちらに重きを置くかの問題だ。
「ふざけるんじゃないわよ、馬鹿狗。このあたしを利用するなんてやってくれるじゃない」
久々に袖を通した制服は、この変態が毎日直々に手入れをしたと豪語(ひたすらキモい)するのに納得する、柔らかなリューシカの花の香りがして埃一つ見当たらない。濃いグレーのブレザーとか、同じグレーにピンク入ったチェック膝上15センチのミニスカートとか、黒いハイソックスとか、左胸に入った金色のエンブレムとか、白いシャツとか。久々に身に纏ったそれにテンションあげてたあたしが阿呆だった。
流石に隠せなかった苛立ちが声に出た。膝を突いたままにじり寄るように近づいてくる奴は、幾多もの美貌の愛人達を蕩けさせる青い婀娜めいたお決まりの目つきでこちらを舐めるように見回して、卑しく媚びたさまで笑ってみせる。
「お許しくださいませ、私のアーヤ、気高きひと」
懲りもせず、あたしの足元に収まり気持ち悪いアングルであたしを見上げてくる変態は頬を紅潮させてあたしのふくらはぎを撫で摩る。あたしは舌打ち一つして、脚を組むことによってそれを払った。パンツ見える? 今更この男に対しては知ったことじゃないわ!
あたしは堪えた様子も見せず、更に視線に艶を孕んでいる男を眺めながら考える。――――こうなると、当初の危惧は大当たりってわけね。
「よくもやってくれたじゃない。犬畜生を過大評価しすぎた昔のあたしをひねり殺してやりたいわ」
ぎちりと唇を噛み締める。こいつはもう使えない。何か別の手を考えるべきだと理解はしていても、そして考えている最中にも己の危機意識の甘さに憤怒が沸き起こる。――――しめて、三年と半年の大幅なタイムロスだ。
「アーヤ、私の女神」
甘ったるい声に頬に伸びてくる手を振り払い、立ち上がる。生憎ながら使えない道具を可愛がってやるような余裕は、今のあたしに存在しない。ましてやその道具が使えないどころか足を引っ張るならなおさらだ。
そのまま扉に向けて歩き出しかけたあたしを止めたのは、手首を掴む強い力だった。
「何処においでですか、私のアーヤ」
「その不愉快な所有格を止めなさい、シリウス・カルツァ宮廷公爵。ついでに言えばあんたには一っ欠片も関わりないことよ。小賢しい口を突っ込まないで」
「どうぞ、そのようなことを仰らず」
甘い声に変わらぬ甘ったるい笑顔を貼り付けて容赦なく腕を掴みにかかってくる男にあたしは眉を顰めてみせる。そのおもねる様な口調とは裏腹に遠慮のない力のせいですでに手首の骨が軋み手は血の気を引かせつつある。――――成る程、元近衛騎士団長殿は職種が変わっても女一人をいいように扱うことなど容易いらしい。
相も変わらず弱者だろうが狩るときには無駄に全力を尽くす気性は変わっていないらしい。
あたしは手首を一瞥して、わずかに眉を顰めたまま白けた目で男を見上げる。
「あんた何処まで頭が足りていないの? 契約を反故にされた以上、あたしとあんたは無関係でしょうが」
「――――」
笑顔のまま黙り込んだ男の内心なんて、今はどうでもいい。
あたしの頭の中はもうすでに、この男に代わる役に立ちそうなあたしの信奉者の選別で一杯だったのだから。