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保管庫

いつかどこかの薬恋歌

作者: 守野伊音





 はぁ、と、白い息を吐き出す。白い息が出ると結果は分かっていて、尚且つその行為には何の意味もないと分かっているのに、ついつい大きく息を吐き出して遊んでしまう。手袋、帽子、コート。私がしているのは典型的な冬の格好だ。冬はいい。手袋をしても目立たないから。


 いつも通り出勤をした。いや、いつも通りと言うには少し語弊がある。残業もなく、夜勤もなく、かつ早出もなく、そもそも職場に泊まらず自室のある寮に帰れた上に、呼び出されることなく朝まで眠れた。慢性的な人手不足に悩まされる職種に就いた人間にとって奇跡とも呼べる素晴らしい夜を過ごした私は、ぐっすり眠れてすっきりした頭で気分よく出勤したのである。



「おはようございまーす」


 更衣室で出会う同僚達に挨拶をすれば、同じ言葉が返ってきた。だがいま出勤してきた人間と夜勤明け及び勤務中仮眠用意の人間は天と地の差がある。休息は人の当然の義務だから後ろめたく感じる必要はないのに、疲労しきっている同僚達を見ると罪悪感が湧く。

 しかし、今日は少し違った。疲れ果てているはずの彼らが私へ向ける瞳こそに同情が溢れていたからだ。


 首を傾げながら手袋を外し、帽子と私服も脱いでいく。帽子を取った額から覗くのは、薬術師の紋様だ。両の掌、胸元、腰の付け根にも存在する。入れ墨ではなく、何かを貼り付けたり書いたりしているわけでもない。これは薬術師の資質を持つ者の身体に浮かび上がってくる紋様だ。


 薬術師とは、医療に特化した術者である。診察は勿論、薬の調合も医療行為も何でも行う。行える者だけが、薬術師と名乗る。薬草がなくとも、薬がなくとも、医療器具がなくとも、その身一つあれば治療が可能な術者を、そう呼ぶ。世界中でここキオス国にだけ生まれる術者で、医者がさじを投げた病気でも、最早手の施しようがない瀕死の重傷者でも、最後に担ぎ込まれるのは薬術師の元へだ。

 髪を落とさない為と紋様を隠す為、両方の理由がある髪飾りを額を通してかぶる。額以外の部分は帽子よりも軽く、薄いレース状になっている。中指に指輪を通し、長い裾を固定していく。これはいざという時は指輪を二の腕の取っ手に引っかけることで、腕まくりが落ちないようになっている。

 全身白の制服に身を包み、不備がないか鏡で確認していく。白なのは、清潔感を出すためではない。汚れが目立つと分かっていても白を使うのは、清潔の為だ。決して清潔感を印象づける為ではない。諸々をきっちり消毒して洗うと、どうせ大抵の色は落ちてしまうのだ。だったら最初から白でいい。そんな割り切りが、私達の白だ。

 着替え終わり、行きも帰りも片時も離さない大きなトランクを持って更衣室を出る。その背を、疲れ切った同僚達が酷く不憫な者へ向ける目で見ていたことを、私は気づかなかった。





「他国への派遣内容を流行病に限定して以降、薬術師の過労死は格段に数を減らしました」


 一通りの引き継ぎが行われた後、珍しく朝議に顔を出した特薬二師は、そう話し始めた。

 癒術は、世界中の何よりも死に抗う力を持つ。当然世界中の国がその力を欲した。昔は他国であろうと、内容を精査した上でだが、要請があれば薬術師達が派遣された。だが、癒術の乱用は術者の命を凄まじい早さで削る。世界中の死を一国の、それも数少ない術者が担うなどどだい無理な話だった。どれだけ治療の数を厳選したところで、命とは生まれれば死ぬものだ。そして死に脅えるのは命の権利である。だからこそ、薬術師への要請は後を絶たず、無理がたたった薬術師達は若くして命を散らし続けた。

 薬術師は生まれた時より薬術師なのではない。素質を持つ者が薬術院で莫大な知識を詰め込み、確かな技術を身につけ、命の最後の砦として立てる覚悟を持った者だけが院を卒業する。毎年四十人ほどいる入学者は、片手で事足りる同期と共に卒業していく。命の重さに堪えきれず院を去る仲間達を見送り続けながらも、命を守る職に就いた人間だけを、薬術師と呼ぶのだ。



 そんな数しかいない薬術師達が、世界中の命を背負えるはずもなく、やがてキオスは決断した。薬術師の派遣を、緊急性の高い流行病以外禁止する、と。

 当然世界中から猛反発が起こった。戦争という単語も飽きるほど見続け、世界中を敵に回したと非難された。それでもキオスは門戸を開かなかった。キオスの正面で他国の為に開かれていた病院も閉じ、完全に薬術師を囲ったのだ。

 キオスは元々、世界中に狩られた薬術師を守る為に作られた国だ。だからこそ、キオスは世界中の非難を受ける立場を選んだ。キオスは何があっても薬術師を見捨てない。かつてキオスを建国した人々が薬術師に誓った言葉を違えず、守り抜いたのだ。


 キオスは、自国を襲った恐ろしい数の戦争に堪えきった。キオスには、人間より格段に強い身体と力を持つ妖人と呼ばれる種族がいたからだ。少し尖った耳、白髪、恐ろしい身体能力に不思議な術を扱える妖人は、魂石という不思議な石をその胸に持つ種族だ。魂石を剥ぎ取られれた妖人はその痛みだけで死ぬことがある。更に、魂石が人の手に渡ればその妖人は支配される。魂石を使って命じられれば逆らうことが出来なくなるのだ。

 魂石を弱点として使われる上に数で人間に負けていたが故に奴隷として扱われていた過去を持つ彼らは、キオスが国を閉ざす直前現れ、縁ある薬術師の為に戦った。一時は種の存続を危うくするほど数を減らしてまで戦い抜いた彼らは、今でもキオスを離れず戦い続けている。



 特薬二師は淡々と続ける。下薬三師で十五歳の私とは違い、何十年も現場に立ち続けた女性だ。世界中の命を背負っていた昔に比べれば格段に減ったとはいえ、ずっと戦争が続いている現状、薬術師の仕事が減ることはない。


「しかし、当然ながら兵士の死亡者数は上がるばかり。重い後遺症が残る場合も多い。全ての事象を薬術師が対応できれば違うのでしょうが、薬術師には限りがあります。けれど薬術師がいれば切り落とさず済んだ手足も救えた命も多々あったことは事実です」


 薬術師達は少し俯きながら頷く。しかし、何故だろう。引き継ぎを行ってくれた薬術師達が、ちらちら私を見ている。しかも、非常に不憫がった目で。


「それもあり、戦闘中の砦には薬術師が優先的に派遣されていましたが、先日奇襲を受けた砦で死傷者を多く出した件で、任に当たっている医師達では対処しきれない、率直に言えば間に合わないとの要望が出ました。これは以前から言われていたことです。深部に潜り病を駆逐することもそうですが、薬術師の真価はその治療の早さにあります。早さが必要とされる怪我に、薬術師は非常に強い。そしてそれは、現場にいなければ成し得ないことです」


 尤もだ。私は深く頷いた。薬術師の派遣配分は常に頭を悩ませる問題だ。人手は足りない。癒術を使いすぎれば薬術師はばたばた死んでいく。けれど薬術師が欲しいのはどこも同じだ。戦時中とはいえキオス内だけでこれである。過去に世界中を飛び回っていた薬術師達は吹けば飛ぶように死んでいったと聞くのも納得だ。

 難しい問題だと真面目な顔で頷いていた私の肩に、ぽんっと柔らかな温もりが落ちた。顔を上げれば、患者の前以外ではいつも難しい顔をしている特薬二師がにこりと微笑んでいた。


「よって、試験的にではありますが、現在戦闘中ではない砦も含め、全砦に薬術師を派遣することになりました」


 成程。


「手が回りませんので、ひとまず一砦につき一人で開始します。状況を見つつ追加派遣はされる予定です。ここからはリュカ・サウクン下薬三師の派遣が決定しました」


 成らないで程。


「ちなみに最北の砦であり、がっちがちの雪山です…………頑張れっ!」


 とても、つらい。







 過去には消耗を少しでも減らせるようにと三人一組が定石となっていた時代もあったそうだ。二人一組では追いつかなかったのだと聞く。今でも、基本的に薬術師が一人で派遣されることはまずない。

 だというのに、今の私は大きなトランクを抱え、一人雪山にいる。正確には連れてきてくれた護衛の兵士達がいるけれど、彼らは当然薬術師ではない。


 兵士達は巨大なトランクを背負い、必死に歩く私を不憫そうに見ている。それでも誰一人トランクを持つと言う者はいない。言ってくる人間がいれば、それはキオスの人間ではない。

 薬術師のトランクは、仕事道具であり癒術と並ぶほど命を救う要になり、そして毒にもなり得るものだ。薬術師が渡さない限り、人々が触れることはなく、また触れてはならない。逆に、トランクを任せていれば、それは薬術師にとって最大の信頼なのだ。



 厚着しているため動きづらい身体で必死にトランクを背負い直す。着ぶくれて動きづらい上に、トランクの重みで歩く度足が雪に沈み込む。馬車が通れない以上、荷は全て人力で運ばなければならない。兵士の荷に到着予定の砦への支援物資、それらは兵士達が担いで運んでいた。好奇心により、出発前にちょっと背負わせてもらったが私のトランクより断然重かった。だが、現在一番疲弊しているのは私である。前を歩いている兵士達がある程度道を作ってくれているとはいえ、流石に冬の山は厳しいものがあった。誰だ、冬はいいとか言ったの。


「もう少しです! 頑張ってください、リュカ・サウクン下薬三師!」


 そう励ましてくれたのは、他の人より三倍の荷を持った少年だ。妖人特有の白髪と少し尖った耳をしている。流石、身体能力に長けた妖人だ。そしてきっと、兵士達は私を見て思っていることだろう。流石、貧弱の名を思うがままにしている薬術師だ、と。へろへろと歩いている私に彼らが向ける視線は、歩き初めの子どもを見守るそれだ。


「あの峠が最後の難関で、あちらを越えれば後はあっという間です!」

「は、い……お任せ、くだ、さ………………」


 虚ろな目で歩き続けていた私が、トランクの重みに堪えきれずゆっくりと前のめりになり、顔から雪に倒れ込む。その振動で、枝にたっぷりため込まれた雪が全部落ちてきた。


「下薬三師――!?」


 絶叫した兵士達に掘り出された私は、虚ろな目をした雪だるまと化した。





 通常、薬術師には専属騎士がつく。キオス内から出ることはほとんどなくなったが、命が死から逃れられない以上、人は薬術師に縋る。世界中の誰よりも薬術師の人としての権利を守り続けてきたキオスの人間でさえ、死が迫れば強引な手段に出ることがあった。だからこそ、たとえ日常生活であっても薬術師には護衛がつくのだ。

 薬術院を卒業して一年経っていない私は、まだ専属騎士を持っていない。昔はほぼ卒業と同時に専属騎士がついていたそうだが、今の時代はそこまで急がれなかった。

 危険は危険だから職場以外では紋様を隠すことが義務づけられているし、職場と寮の往復以外で出かける場合は決して一人で行かない。それだけの制限で大体事足りるのだ。だから特に焦っていなかったのが、ここに来て裏目に出た。他の職場にいる同期達に聞いてみると、どうやら砦に派遣されている薬術師は専属騎士を持っていない者ばかりなのだそうだ。つまり、ついでに専属騎士見つけて来いよということなのだろう。


 トランクを任せていいほど信頼する相手なんてどうやって見つけるのだ。何故かするすると専属騎士を見つけた同期達に泣きつけば、ただ一言「勘」と返ってきた。卒業生代表として薬術院を卒業した私には、どうやら薬術師の勘は備わっていなかったようだ。とても悲しい。

 雪の中を駆け回った犬のようになった私から、雪玉を剥ぎ取ってくれた兵士達の哀れみと励ましの視線を感じつつ、再び砦を目指す。妖人のリロ・ホプス上等兵がずっと隣にいる。どうやら彼は、私のお守り役になってしまったらしい。他の人の三倍の荷を持ちながら、ひょいひょいと歩いている姿は羨ましくもある。


「しかし、サウクン下薬三師も大変ですね。まだお若いのに雪山配属とは……」

「ホプス上等兵もお若いようにお見受けしますが……立派ですねぇ」


 私より一つ年上だというホプス上等兵は、少し尖った耳を動かし、照れくさそうに笑った。


「俺は十三の時から兵士をしていますからね」

「それはっ、凄いですね!」

「いやぁ、やっぱり妖人ですから身体を動かすのが得意でして。それを生かせる職業がいいなと思ったら兵士が一番でしょう? なら早いほうがいいかと思ったんです。どうせ家族も全員軍属ですし」

「成程」


 確かに妖人は軍属となる人が多い。元々キオスを守る為に駆けつけてくれた妖人は軍属として残っていき、そのまま代々続く軍人の家系となっていった。


「まあ、妖人は身体を動かすことが得意な上に、身体を動かすことが好きだから。天職ですね」


 妖人の総数は世界的に見ても決して多くはない。けれど軍部に見ればその限りではなかった。キオスにいる妖人のほとんどが軍人と言っても過言ではないのではないだろうか。現に、三十人ほどいる護衛の兵士の中にはホプス上等兵以外にもちらほら妖人の姿が見られた。普通に町ですれ違うより断然多い数だ。中には妖人特有の白髪ではなく色ある髪を持つ者もいた。妖人は生涯を約束した相手が人間ならば、その相手の色へと染まるのだ。

 その事実は、昔、キオスと妖人を繋げた薬術師に添った妖人の髪が染まったことで知られたという。その際に魂石が使用されると聞く。本来は誰かと繋がる為の物が支配に使われ、そして妖人自身もその事実を知らない時代があったのだと思うとぞっとする。


 ホプス上等兵との簡単なお喋りは、適度に疲労から気を逸らすことが出来た。息が切れたり気を取られて足下がお留守になるような会話ではなく、疲れに集中しそうな意識をふっと逸らすようなそんなお喋りだった。ホプス上等兵は中々お喋りが巧みだ。諜報員もやれそうである。

 さっき私を埋めた木々が生えた森との境界から少し逸れ、道なりに峠を登る。私にはどこが道なのかさっぱりなのだけれど、道なりらしい。やっと峠を越えようかという頃、それまでにこにこ話していたホプス上等兵は、さっと目元を険しくした。頭を上げ、鼻を動かす。


「前後に伝達要請。ホプス上等兵より、一旦進行停止を進言する。何かおかしい」


 険しい顔で周囲を見回しているホプス上等兵を、他の人達は黙って見つめている。喋っているのは伝言を伝えている人だけだ。妖人達は顔を上げ、鼻を鳴らしている。


「何だ、この匂い」

「分からん。風向きが変わった途端匂ってきた」

「花か?」

「この季節にこんな派手な匂いを出す花なんて……いや、待て――獣の臭いだっ!」


 ホプス上等兵が持っていた荷をかなぐり捨て剣を抜くのと、多数の咆哮が轟いたのは同時だった。妖人のように耳や鼻が利かない人間には、それらを事前に察することは出来ない。けれど、咆哮が轟けば話は別だ。生命の危機に、身体は勝手に音の出所を探し、視線を向けた。

 森の中から多数の獣が駆けだしてくる。この時期冬眠しているはずの熊が二頭、本来群れでいるはずの狼、この山には生息していないはずの虎。どれも猛獣だが、そのどれもが異様な在り方でこちらに突進してくる。しかも、獣達が走り抜けた後に遠目でも分かる色が点々と落ちていた。どの獣も怪我をしているのだ。もしかして、さっきの咆哮は遠吠えではなく悲鳴だったのだろうか。


「ってぇ!」


 号令と同時に破裂音が六発聞こえた。狼煙の一本は本来の用途通り空へ、残りは全て獣達へ向けて放たれた。獣たちに届かせるほどの飛距離は出なかったが、音と煙を出しながら飛んでくる物に、狼は怯んだ。だが、虎と熊が止まらない。激しく興奮している。恐らく正気を失っている。ただでさえ手負いの猛獣は一度勢いがついてしまうと自分達でも止まれなくなるのだ。


「下薬三師、何をしているんですか! 砦に向かって走ってください!」


 ホプス上等兵が雪の上でトランクを広げた私の腕を掴む。もう片方は剣を構えたまま、獣から視線を外すことはない。私も掴まれていないほうの腕でトランクを漁り、視線を忙しなく動かす。取り出したそれを見て、ホプス上等兵はびくりと身体を震わせた。


「ハマオウの糞を練りこんだ土偶です、砕いてもいいので使ってください! それでも駄目ならこの気付け薬の原液を獣の鼻っ面に叩きつけてください!」 


 ハマオウは、キオス周辺に生息する凶暴で美しい獣だ。神獣とも呼ばれ、色鮮やかな尾を持つ。ハマオウの尾の先には鳥のような羽があり、その羽を百匹分集めれば、どんな願いでも叶うという言い伝えがある。そんな言い伝えが出来るほど、獣の頂点に立つハマオウは凶暴で強い。

 だからこそ、ハマオウの縄張りに獣は踏み込まない。尋常ではない様子の猛獣相手にハマオウの臭いが効くかは分からないが、やらないよりはマシだろう。


 妖人であるホプス上等兵は人間より鼻が利く為、土偶に触れることに若干躊躇いが見えた。だが、助かりますと素早い動作で土偶と瓶を受け取る。ハマオウの生息地に踏み込むのは危険なので、土偶を持てる存在は限られているのだ。


「ご武運を!」

「勿論であります! 生きてさえいれば癒して頂けますので死にません!」


 にかっと笑ったホプス上等兵に、他の兵士達もどっと笑った。私も笑う。死は神の領分だ。だが生きてさえいるのなら、命はまだ薬術師の領分だ。

 渡し終えると、手早くトランクを閉じ背負い直す。後は、振り向かず一目散に駆け出す。さっきまでとは違い、道が作られていない分歩みは遅々として進まないが、私に出せる最速でその場を離脱する。私の護衛には一人の兵士がつき、後は全員猛獣を迎え打つ。護衛対象がいる限り、彼らも撤退できないのだ。私は私の役目を、彼らは彼らの役目を果たす為にいる。だからこそ、互いに最善を尽くすのだ。

 背後で獣と兵士が衝突した音を聞きながら、歯を食いしばって砦を目指す。さっきの狼煙に砦の兵士達はすぐに気がつくはずだ。増援が来れば何とかなる。そう自分に言い聞かせ、無心に歩を進めていた私の耳に風の唸り声が聞こえた。

 矢を放たれたと気がついたのは、私を抱き込んだ兵士が唸り声を上げたからだ。次いで三度の衝撃。計四本の矢をその背に受けた兵士は、それでも私を離さなかった。

 下りとなった峠から、私を抱えたまま転がり落ちる。回る視界の中、森から十数人の男達が駆けだしてくるのが見えた。兵士は歯を食いしばりながらも懐から狼煙を取り出し、膝に叩きつける。衝撃で空へと放たれた狼煙を見届け、兵士は気を失った。最後に砦の方向を指さしたまま。

 増援はまだ来ず、指さされた方向にまだ砦は見えない。ホプス上等兵達も獣の相手で手一杯だ。彼らの元へ、この十六名の敵を引きつれて戻るべきか否か。私の足より断然早く雪の中を走る男達を見つめ、噛みしめていた唇を解き、白い息を勢いよく吐き出した。

 やるべきことは、定まった。ならば後はやるのみだ。


 雪の上にトランクを滑り落とす。兵士の背に片足を乗せ、力任せに矢を引き抜いていく。兵士が気絶していてよかった。鍛えられた兵士の背は、肉で矢を受け止め臓器まで届かせていない。その分、締まっているのだ。返しがついている矢をこんな手荒さで引き抜けば、当然肉ごと刮げ取る。本来なら刃物で傷口を裂き、少しでも引き抜く際の引っかかりを減らさなければならない。だが、そんなことをしている時間は無かった。

 全ての矢を引き抜いた時、男達はもうすぐそこまで迫っていた。手袋を脱ぎ捨て手早く開いたトランクから四つの薬草を選び、トランクを閉める。選んだ薬草を一つずつ宙に浮かせ、それらを両手で包み込むと、意識を集中させた。


 体内から光と風が湧き上がり、髪が不自然に波打つ。治療は奥から順繰りに。奥深い傷を残して表面から癒やすなど、新入生にだって許されぬ愚行だ。

 薬術師の癒術を、神の御業や奇跡と讃える他国の人間は多くいる。キオスが門戸を閉じてからはその傾向が更に強まった。確かに癒術を使用するには才が必要だ。しかし、その癒術を構成する物は才能ではなく、知識と技術と経験である。血管の繋ぎ方、臓器の修復方法、命を繋ぐ術。血反吐を吐き、泣き叫びながら学んだ結果が薬術師だ。

 薬草から効能を抽出し、直接流し込みながら傷口を治していく。男達が私を囲み、何事かを怒鳴りながら私の肩を掴もうとした。


「私に触れないでください。癒術を使用中の薬術師に触れれば、貴方も私も治療中の彼も、全員が壊れます。後二十秒待ってください。ならば、抵抗せず貴方方についていきます」


 視線は兵士から外さない。最短で命を繋ぎ、きっちり二十秒で終わらせる。その後は、余計な思考を相手に与えさせない為にもさっさと立ち上がり、トランクを背負う。


「では、参りましょう」


 男達の視線は忙しなく周囲へと向いていたが、そのうちの数人が小さく口笛を吹く。


「薬術師って言うのは随分物わかりがいいもんだな」


 それには答えず、大人しく男に担がれる。荷物のように担がれても抵抗しなかった為か、トランクには触れられなくてほっとした。

 別に、物わかりがいいわけではない。薬術師はいつだって『奪われる』危険があるから、その心得を叩き込まれているだけだ。無駄な抵抗はしない。命が一番残る方法を選択する。それだけだ。私も庇ってくれた兵士もホプス上等兵達も、誰もが生き残る可能性を。命が残るなら、そこに薬術師の心など必要ない。



 雪山を歩き慣れているのか、男達は滑るように森の中へと逃げ込んでいく。


「矢を打ち込んだ時はどうなるもんかと思ったが、お前の言うとおりだったな」

「だから言ったろ。俺はキオスとの戦場長いんだ。キオスの兵は、死んでも薬術師を守るんだよ。馬鹿みてぇにな!」


 げらげらと下品な笑い声を上げる男達からは、濃い花の匂いと強い麻酔薬の臭いがする。使用対象に後遺症を残す場合が多く、多くの国では使用禁止されている薬物だったはずだ。眠らせた獣達を花の匂いで覆って妖人から隠し、痛みで叩き起こしたのだろう。薬術師があちこちに移動している現状で、この砦にも派遣されると読むことはそれほど難しくなかったのかもしれない。それにしても手段を選ばない人達だ。薬術師を奪おうと長い間戦争を仕掛けてきている時点で手段は選ばれていないと分かっているけれど。


 私を担いで走る男達の速度は緩まない。背後で何発もの狼煙が上がっているからだ。雪山に慣れている兵士達でも、この男達に追いつけるかは分からない。

 そもそもあの手負いの獣達に襲われたホプス上等兵達は無事なのだろうか。私を庇ってくれた兵士は、一応化膿止めと炎症を抑える薬草を使ったが、傷を完全に塞ぐことは出来なかったからきっと痛む。主立った血管は繋いで出血は抑えてきたから、後はすぐに回収されることを願うしかない。痕は、残る。もしも帰れたらお礼を言いたいし、痕も消したいとは思っている。

 けれど、帰れるかなぁと、小さく笑ってみる。己の口元に触れ、今度こそしっかりと口元を緩めた。笑えてると、ほっとした。


 薬術師は世界から人から狩られる定めにある。だからキオスが閉ざされるまで、こんなことは珍しくもなんともないことだったのだ。この時代に、まさか院を卒業して一年にも満たない己がその役割を担うとは思っていなかったが、一応首席で卒業した自負がある。

 どんな時でも薬術師たれ。どんな形であれ、他国へ出た薬術師は、薬術師が如何なるものか世界に認識させる責を負う。それが前期代表として卒業した私であるのなら、光栄だ。次席に担わせるには主席として据わりが悪く、既に前線で働き続ける熟練者を欠いては支障が出る。私でよかった。この不運は、私でよかったのだ。



「……おい、お前何か術を使ってないだろうな? 何かしやがったらぶん殴るぞ」


 私を担いでいた男が気味悪そうな顔ですごむ。にこりと微笑み、無言を返す。術など使っていない。薬術師が扱う術は癒術のみ。命に優劣をつけない薬術師であろうと、流石に自らを連れ去ろうとしている敵の疲労を回復させる理由はない。

 小さく呟いていたのは、薬術師の訓辞だ。院に入学した誰もが真っ先に覚え、末期まで持っていく心得。無意識であろうと諳んじられる身と心に染みついた訓辞があれば、薬術師はどこでだって薬術師で在り続けられる。


 癒術者よ、術者の意味を違えるなかれ

 先達が見つけし業を、継ぎて増やすが我らの定め

 癒す方を身に宿し、生かす法を惑うなかれ

 先達が我等に遺せし救術は、己が身にて刻み込み

 その背で学びし信念は、心の臓より更なる奥へ

 我等は薬草そのものなりて

 散るを定めと咲こうとも、新たな種を期待せん



 

 男達は、森を駆け抜ける間にもいくつかの檻を開けていく。中には檻から動かない獣もいた。雪が積もっている様子を見るに、生きていない可能性もあった。あまりに非常識で、非道で、悪辣な所業だ。よりにもよって薬術師の前で命を利用するという悪行を、よくも。

 そう歯を食いしばると同時に、思いっきり身体を反らせる。今まで大人しくしていた私が今更抵抗するとは思っていなかったのだろう。トランクの重さも相成り、男は私を支えきれず雪へと落とした。しかし、周りの男達の反応は呑気なもので、私の動きに翻弄された男を笑っている。私が逃げられるわけが無いと思っているのだろう。私も逃げられるとは思っていない。だから、それほど焦らず懐に手を入れることが出来た。

 取り出した狼煙に男達が気色ばみ、私へと手を伸ばす。だが、妖人ではない彼らの速度では間に合わない。私は狼煙を自分の膝に叩きつけた。音を立てて飛んでいく狼煙の色は、青だ。

 位置を示す為に上げたのではない。危険だから近寄るなの合図だ。正気を失った手負いの猛獣がうろつく森へ立ち入るべきではないが故の合図だ。どうせ目的が薬術師ならば、すぐに殺されることはない。国境が近づいても兵が追いつけていないとなると、態勢を整える為にも今は引くべきだ。

 だから、今は深追いするなと青の狼煙を使ったのだ。だがそんなことを他国の男達が知る由もない。狼煙の余韻が残る青い煙の中、どす黒く顔色を変えた男達が拳を振り下ろした所までは覚えている。






 舌打ちと何かを乱暴に蹴りつける音を聞き、目を覚ました。何かを考えるより早く、反射で口を開く。


「あまり乱暴に扱わないでください。手順に従わず開いた場合の責任は負いかねます」


 トランクを囲んでいた男達は、ざっと顔色を悪くし、トランクから一歩離れた。ずきずき痛む頭を抑えながら起き上がる。殴られた場所より後頭部が痛いのは打ち付けたからだろう。すぐに意識が飛んだから一発で済んだようだが、それが良かったのか悪かったのか判断がつかない。いつの間にか変わっている自分の服に溜息を吐く。あれ以外に仕込んでいた狼煙はもう一本。滅多なことでは使う予定がない狼煙だが、滅多なことにならないという保証がない今こそ必要な物だった。無いならないで仕方がないと、明らかに急拵えで用意された大きさの合わない袖を捲って整えながら周囲に視線を巡らせる。


「ち、やめやめ。開けたきゃ別口を雇え」


 地べたに乱雑に撒かれた藁。詰まれて大分経っているであろう底が抜けて傾いた木箱。その一部をばらして作ったのであろう焚き火。壁は内側から適当に修復されているが屋根からはちらほら雪が落ちてくる。使われなくなって久しい倉庫のようだ。


「ほう? 勝手に開ければ毒薬でも噴き出しますか?」


 背後から聞こえてきた声に、振り向く。もう一カ所用意されていた焚き火の傍に、頭から足下までを覆う外套をかぶった男が立っていた。外套を深くかぶっている上に、仮面まで着用していて顔は見えない。男だと分かったのは声が低かったからだ。外套は厚く、素肌が見えている箇所が全くないので、それ以外での判断は難しかった。


「そう取って頂いて結構です。そもそも知識がなければどんなものでも毒となり得る。当たり前のことです」


 この後に及んで手足が縛られていないのはどういう理由か考えようとして、やめた。少し捲りすぎてしまって剥き出しになった手首の細さに自分で笑える。癒術は体力と気力を酷使するのだ。食べても食べても痩せるので、薬術師は大半痩せすぎのきらいがあった。抵抗する術無しと思われているのだろうし、それは事実だ。藁の上で足を畳み、背を伸ばす。手の甲にあるしまうことが常である薬術師の紋様が剥き出しになっていることが落ち着かない。手を重ねることで片方だけでもそっと隠す。

 焚き火を囲んでいるのは私を運んできた男達だ。その態度を見るに、彼らはどうやら正規の軍人ではなく傭兵なのかもしれない。上官というより雇い主なのだろう。


「どちらの国の方かは存じませんが、本人の意思を伴わずキオスを出された薬術師は、その相手に対する癒術の使用を禁止されております。尋問でも拷問でもお好きに。ですが、薬術師の癒術は薬術師自身を癒やすことは出来ぬと承知の上でなさってください。私は死んでも貴方方を癒やすことはありませんし、自身を癒やすことも出来ません」


 白い息が吐き出され、すぐに散る。キオスを出た薬術師の命と同じくらい、あっという間に。

 過去に妖人とキオスを繋いだきっかけである薬術師は、強引に連れ出された先で死にかけていた多数の妖人の治療を決意した。その際、キオスとの縁を絶とうとした。キオスからの庇護を持ち続けながら、規則を破ってはならないからだ。規則を破るのならば、キオスからの庇護を絶つ。それが礼儀であり、法であり、道理である。

 そこに命の危機があれば、治療を躊躇わないのが薬術師だ。だが、否、だからこそ、道理を守らぬ相手への制限はキオスが担ってくれたのだ。浚っても奪っても薬術師を連れ出してしまえばこっちのものだと、道理を守らぬものが報われることは許さないと、キオスは定めた。薬術師自身もそれを守った。それが、これからの薬術師を救うのだと信じたのだ。殺されても、目の前で命が潰えても、癒術を使わない。そうでなければ、薬術師を奪ったものだけが救われることになるからだ。その業を、国の命だと、責だけ背負って。

 薬術師の規則も有り様も、時代と共に変化してきた。これは、その中でも尤も大きな変容といえよう。いつの時代も死が目前に迫れば、救われたいという願いがあれば何をしても許されるという風潮が、どんなことがあっても命に優劣をつけない薬術師に、たった一つの区別を選ばせたのだ。

 しかし、男はくすりと笑った。


「ええ、結構ですよ。癒術があればそれに越したことはありませんが、薬術師がいればそれでいいのですから」


 言っている意味が分からず、思わず眉を寄せる。癒術が必要ないのであれば医師でいい。薬術師と医師の違いは、大まかに言えばそれだけなのだから。医師はどこに国にでもいる。確かに医療大国と呼ばれる医師を多数輩出している国もあるが、そこの門戸は開かれているし、他国から学びに来る人々も多い。それなのに、何故薬術師にこだわるのだろう。


「しかし、貴女が薬術師という証明は欲しいですね。入れ」


 外套が動いたので、その中で腕を動かしたのだろう。男は外へ向け何か指示を出した。ぎっと、乾いた木が擦れる音と同時に、冷たい風が外から流れ込んでくる。焚き火が激しく揺れ、火の粉が散った。


「おい、早く閉めろ」


 火に当たっていた男達が不満の声を上げる。だが、扉を開けて入ってきた人物の動きは鈍い。一動作が遅く、扉が閉められるまでに倉庫の中は随分冷え切ってしまった。男達は舌打ちし、焚き火に新たな枝を差し込んだ。

 入ってきた人物を見て、私は凍り付くような寒さを感じた。外からの風などどうでもいい。沸き立つのは悍ましさと恐怖と怒りと、途方もない悲しさだ。

 薬術師が見慣れた赤黒い物で酷く汚れてはいるが、雪と同じ色をした髪。少し尖った耳。これほどの寒さだというのに外套も羽織らず擦り切れた服一枚だけの男は、素足を引き摺りながら歩いてくる。夏の服装としても軽装である服の胸元は破れ、酷い傷跡が残る肌が剥き出しになっていた。魂石が、ない。それだけで、彼の状況は知れた。彼の命でもある魂石を現在所持している相手が誰なのかも。


「おや、酷い顔ですね。貴女がキオスの者ならば、妖人を見るのは初めてではないでしょう? 世界中の妖人をほぼ独り占めにしていると言っても過言ではない。全く、キオスとは本当に罪深い国だ」


 妖人達はキオスに集まり、他国では薬術師と同じ程珍しい存在だ。元々一国にしか存在しなかったのだ。だからこそ、少数民族である彼らは奴隷という憂き目にあった過去を持つ。


「これ、高かったのですよ。薬術師であれば彼らは喜んで集まるのでしょうね。教えてほしいものですよ。魂石がなくとも妖人を奴隷に出来る術を。薬術師は、癒術の他に房中術も得意なのでしょうかね」


 どっと下卑た笑いが広がる。骨が軋まんばかりに手を握りしめてもまだ足りない。『いつか、キオスが国を閉ざした選択を翻す日が来ればいいね』そんな話を、忙しい合間を縫って作った休憩時間、温かいお茶を飲みながら同僚と笑って話した日を思い出す。国を閉ざす前、数え切れない悲劇に散った薬術師達の歴史を、思い出す。


「今や妖人は稀少ですからね。これもどういう筋から売りに出されていたのかは知りませんが、まあ見つけられたのは僥倖と言えたでしょうね。薬術師には妖人かと一応買ったはいいものの、既に死にかけの役立たず。いくら稀少とはいえゴミに大金を叩かされて腹立たしかったものですよ」


 妖人は、私よりいくつか年上の青年に見えた。けれど目元は髪が覆い、窶れ果て、酷い怪我を負っている状態では年齢なんて判じようがない。青年は壁に凭れるように歩く。手で壁を辿っている。目が、見えていないのだ。怪我をしていない箇所などない。剥き出しの足は腫れ上がり、引きずっている足は骨が剥き出しになっている。

 高かったというのなら、命を金で買う愚行を犯したのなら、せめて幸せにする責を負え。せめて絶対の幸福を約束しろ。せめて痛みを与えるな。せめて、せめてせめてせめて。命を、侵すな。こんなこと、薬術師じゃなくても誰もが願う当たり前のことじゃないか。

 頭を胸を、血が出るほど掻き毟りたいほどの不快感と怒りと憎悪と絶望と、今すぐ駆けだして彼を癒やしたい衝動に焼かれる。叫び出したい。わめき散らしたい。――――――。


「やれ」


 ようよう近くに辿り着いた青年を前に、仮面の男が言った。青年へではなく、いつの間にか剣を抜いていた男達へ向け、そう、言ったのだ。

 制止の声を上げる為に吸った息は、そのまま悲鳴となった。


「――――――――!」


 やめてとも嫌だとも言葉にならなかった。引き攣って掠れた音が喉を切り裂きながら抜け出ていく。三本の剣を乱暴に抜き取られた青年の身体が藁へと倒れ込む。赤が、鈍い音を立てて飛び散る。命が、飛び散っていく。私の目の前で、命が散ろうとしている。命が、生きられたはずの命が、命によって害されるこの悪夢を、薬術師は一生見続けると分かっていた。分かっているけれど、受け入れられるかどうかは全く違う話なのに。

 頭を抱える。両手で顔を覆う。泣き叫ぶ。そのどれかをしていると思っていた私の手は、気がつけば青年の身体をかき抱いていた。冷え切った指を、惨いと分かっていながら彼の首筋へ這わせ脈を確認し、もう片方の手で服の下をまさぐる。医師も薬術師も、手が温かいほうがいい。そのほうが、患者を温められるから。なのに私の手は、赤と命と温度を失っていく彼から、更に奪うことしか出来ない。


「お前のせいだなぁ、嬢ちゃん」


 笑いを含んだ言葉も、どっと上がった笑い声も、私を試す仮面の男の視線も、全てがどこか遠い。

 分かっている。こうなることは分かっている。連れ去った薬術師に癒術を使わせようと、病人を並べたり、こうして怪我人を作り出した大罪人の話も習った。それでも薬術師は癒術を使わず、本来ならば防衛に徹するキオスから溢れた兵によって奪還された後、薬術師の地位を返上し、自害した。この規則が出来る前でさえ、妖人を救った薬術師はキオスを出ようとしていたのだ。

 ここで千切れぬ未来を繋ぐとはそういうことだ。これからの薬術師の無事を願うなら、無事な薬術師が救える命の数を思うなら、私はこの手を離すべきなのだ。

 分かっている。

 呼吸をする度にざわりと髪が不自然に波打つ。身体が、意思が、勝手に癒術を発動しようとしている。まだ、助けられる。生きているのだ。薬術師ならば救える。命を、掬い止められる。その為の術を、学んできた。

 五つで院に入り、去っていく同期達を見送り、死んでいく卒業生達の背を見つめ、十期生となるまで学び、院を出た。命を繋ぐ職を選んだ。たとえどれだけつらくても、悲しくても、傷ついても、報われなくても構わないと、生まれ持った紋様を消さずに院を出たのだ。あの時私は、懸けた。こんなちっぽけな手でも、薬術師の数が増えることで一つでも救える命が増える希望に懸けた。


「……ごめんなさい」


 自分の耳にも届かぬ、呼吸よりも小さな謝罪を受け取った人は、きっと誰もいない。

 この人に、謝罪する。家族に、卒業生に、在校生に、先生に、これから救えたかもしれない全ての命に、今なお戦っている軍人達に、キオスに、謝罪する。貴方達が整えてくれた世界を、貴方達がこれから行くであろう未来を揺るがせてまで、懸ける私を、どうか許さないでください。

 両手を合わせ、目を開く。手の甲の紋様が光を纏う。額の紋様も身体中の紋様も全て光を放っている。掌を青年に当て、癒術を流し込む。トランクを開け、薬草を用意する暇はない。そもそも薬草は時間の短縮と薬術師の体力温存の為の手段なのだ。薬草がなくとも、知識さえあれば癒術は扱える。そして、その為に必要な知識を修めたからこそ、私は薬術師なのだ。


「おお……」


 仮面の男が上げた感嘆の声が、まるで人間が上げた声に聞こえてぐっと唇を噛む。まるでも何も彼だって人で、命で。薬術師が命を削って癒やし続ける命を命が削り、蔑ろにし、そうして薬術師の力を欲し、時に尊い物として崇める。その矛盾を、酷い矛盾を、人の営みだと賢しらかな顔で語るのだ。それでも、否、それが、人なのだと、嫌でも知っていた。

 どこへ癒術を巡らせても傷がある。全てを包みたい気持ちを堪え、まずは命を繋ぐことを優先する。出血を止め、鼓動を守り、呼吸を滑らかに。ほんの少し呼吸が安定し始めると、それまで息を詰めていた仮面の男が動いた。


「貴女はまこと薬術師でした。疑って申し訳ありません。しかし、安心しました。これで胸を張って貴女を主へ献上できます。それにそれも高かったので助かります」

「――触らないでください」


 肩に触れようと伸ばされた手を言葉で遮る。


「癒術を使用している薬術師に触れれば、貴方も私も彼も、全員が壊れます。心身のどちらが砕けるかは状況によって違いますが、心中を望むのでなければ触れないでください」


 仮面の男はぴくりと手を震わせ、静かに身を引いた。顔に出さぬよう安堵し、小さく息を吐く。かちりと歯が鳴った。寒い。ただでさえ癒術は気力体力を削り、酷使すれば術者の命を削るものだ。繊細な技術と急を要する状況は、一瞬の気の緩みも許さない。癒術以外へ回す余力のない熱は、全て彼へ注がれている。彼に触れている手がこれ以上冷たくなれば、彼が苦痛を感じてしまう。それだけが心配で、せめて手だけでも温かさを保ってほしいと願った。

 どれだけの時間が経ったのかは分からない。傷を癒やすことよりもただただ命を繋ぐことを重視した癒術を、呼吸の切れ目で一旦解く。彼と繋がっていた光がぷつりと途切れ、同時にどっと疲労がのし掛かる。身体は、驚くほど冷え切っていた。自分の手が持ち上がらない。薄く浅い息を繰り返している私を、仮面の男が覗き込んできた。いつの間にか他の男達の姿は見えなくなっている。火も消えていて、成程寒いわけだと妙に深く納得した。そして火が消えている意味を悟りうんざりする。


「一応確認を取りますが、触れても?」

「触れられたくはないので自分で歩きます」


 重い身体を叱咤し、緩慢な動作で立ち上がった。それだけで息が上がり、目眩がする。冷え切った身体は少し動かすだけで痺れにも似た痛みを齎す。


「これはもう直ったのですか?」


 男は足先で青年をつつく。睨めば、肩を竦めて足を下ろした。


「ひとまず峠を越えただけで、まだ予断は許さない状態です。一気に治すだけの体力も彼にはありませんから。治療には時間がかかるでしょう」

「時間稼ぎではなく?」

「どうせ、すぐに移動するのでしょう。移動中でも治療は出来る。時間稼ぎをするのならこの場を動けない理由を使います」


 半ば引き摺るように歩を進め、トランクを掴む。背負ってはもう立てなくなると判断し、あまりしたくないが引き摺るしかないと諦める。


「そのトランクはこちらで預からせて頂きます。また狼煙を上げられては堪ったものではありませんから」

「狼煙は緊急時に使用する物ですから、すぐに取り出せないトランクには入れていません。これがないとこの先の治療が出来ませんのでお渡しすることは出来ません。これを奪いたければ、私を殺した方が手っ取り早いですが、お好きにどうぞ」

「……薬術師がこんなに扱いづらいとは思っていませんでしたよ」


 何を馬鹿なことを言っているのだと呆れる。


「薬術師でなくとも、自分以外の誰かを扱えるなどと思うのは貴方が阿呆だからです」


 この男は、そんなことも知らずに大人になったのか。


「旦那、そろそろ出発しねぇと凍えちまいますぜ」

「分かっている。お前達はこれを運べ」

「へい、どちらに?」

「まさか私の馬車にこれを乗せる気ではないだろうな」

「へいへい。雇い主様に従いますよ。傭兵ってのはそういうもんすからね」


 機嫌を損ねたらしい仮面の男に、傭兵は肩を竦めた。やはり傭兵だったか。青年に近づいた男の挙動を注意しながら見つめる。まだ怪我の治癒自体はほとんど進んでいないのが現状だ。手荒な扱いをしたら怒鳴りつけてやる。傭兵の男はひょいっと青年を覗き込み、口笛をふいた。


「こいつは驚いた。刺す前から死人みてぇな顔色してやがったのに、薬術師ってのはすげぇもんだな」

「まだ治療は済んでいません。丁重に運んでください」

「しかも口うるせぇときた。あまりきっちりした隙のねぇ女はモテねぇぜ、嬢ちゃん」

「非道を平然と行う貴方方から好かれないのであれば、これほど嬉しいことはありません。無駄口を叩く暇があるなら、早く患者を風の入らない場所へ運んでください」


 外へと出ればまだ吹雪いている雪が視界を覆う。空はどす黒い雲が覆い、しばらく雪は止みそうになかった。四頭引きの幌馬車が三台、二頭引きの箱馬車一台。随分と大所帯だが、傭兵の数を考えればこんなものかもしれない。それに、もしかするともっと多かったのかもしれないと、促されるまま上がった幌馬車に残る獣の臭いに眉を顰める。重たい何かを擦ったような後が大量についていることから、これに獣達を入れた檻を乗せていたのだろう。だとすればこの馬車数では到底足りない。どこかで乗り捨てたか、追っ手を撒く拡散用に使ったかだ。


 だだっ広い場所の中で、ぶるりと震える。


「私の着ていた服はどこです」


 誇りとしては薬術師の服が、緊急性としては外套が必要だ。手袋も帽子も、ないと体温を維持できない。


「あ? 捨てちまったよ、んなもん。どんな物騒な物仕込まれてるか分かったもんじゃねぇからな」

「…………貴方方は、つくづく他者を尊重するという当然の行いが出来ない方ですね。でしたら何か上着を。このままでは凍えてしまいます。薬術師の死体でも持ち帰りたいんですか」

「あー? お前ら癒術があるから死なねぇんだろ?」


 もう喋ることすら億劫だが、ここで投げ出すわけにはいかない。そんなことをすれば本当に凍死は免れないのだ。軽いかけ声で青年が私の足下に放り込まれる。しかもそれ以上動かす気はないらしい。


「薬術師は、自分に癒術を使うことは出来ません。これは禁止ではなく、ただ純粋に不可能なんです。癒術は他者へかける術であり、自身は他者に含まれない。薬術師が負傷すれば、他の薬術師に癒やしてもらわねば癒術は通りません」

「あ? 面倒だなぁ……ちょっと待ってろ」


 がりがりと頭を掻いた男は、面倒くさそうに背を向け、隣の箱馬車へと歩いていく。仮面の男に指示を仰ぎにいったのだろう。開きっぱなしの入り口から雪が中へと吹き込んでくる。薄着一枚の青年の身体に降った雪は溶けずに積もっていく。

 奥までトランクを運び入れ、小さく気合いを入れる。青年の脇下を抱え、引き摺って動かす。傷が痛むだろうから心苦しいが、これ以外で運ぶ力がないのだ。入り口の傍に寝かせてはそれだけで弱る。妖人は寒さに強い。だからホプス上等兵や他の妖人も、帽子をかぶっていなかった。だが彼はまだ、自ら体温を発せられるほど回復していない。

 やがて戻ってきた男は、面倒くさそうに外套を投げつけてきた。そして、幌の入り口の布が閉められる。どうやらこの広い馬車には私と彼しか乗らないらしい、他の面子残りの馬車に乗り込み、前後につくのだろう。慌ただしい声に続き、馬車が揺れた。移動を始めたのだ。走行中ならばそうそう中に飛び込んでこられることもない。そう考えると同時に、すとんと身体の力が抜けた。青年の横に尻餅をつき、痛みと寒さに悶える。しかし、こんなことをしている暇はないと気合いを入れ、青年の身体へ外套をかける。自分の分はトランクから引っ張り出した着替えを重ねることでなんとかするしかない。どうせ一枚しか寄越さないだろうと思っていたが、やはりその通りだった。

 本当は下にも何か敷きたいが、流石にそこまで大きな布は持っていない。せめてもとタオルと青年の頭の下に敷き、少し考えて前髪を指先で寄せる。


「…………貴方の目は、何色なのかなぁ」


 焼けただれた皮膚をそっと撫でる。瞳が合った場所は固く閉ざされ、碌な手当もされていないと分かる傷跡はぼこぼこと波打って引き攣っていた。青年はぴくりとも動かない。眠りを求めているのは、身体か精神か。どちらにも必要な休息だ。せめて今だけは何も気にせず眠ってほしい。その間に、少しでも癒やすから。

 かじかんで真っ赤になっている自分の両手に息を吹きかけ、足を動かす。癒術を開始すればまたしばらく動けなくなるので、気休めと分かっていても少しでも熱を取っておきたい。

 小さく吐き出した白い息を吸い込み、気合いを入れる。


「もう大丈夫ですよ、まずはさっきの傷から癒やしましょう。次は目を、それが終われば足を治しましょうね。大丈夫、私は薬術師です。貴方を治します。必ず、治しますから」


 冷え切った私の最後の熱が、頬を伝って落ちていく。


「………………ごめんなさい、私、本当は、キオスの外で癒術を使ってはいけないんです。だから、元気になったら、私と一つ、賭に出ませんか? 一緒に、逃げませんか? 貴方の魂石を、あの男から奪い返しましょう。そうしたら、一緒に逃げて、キオスへ、行きませんか? キオスには、妖人の皆さん、沢山いるんですよ。魂石、剥ぐなんて、誰もしません。軍人の方が、多い、ですけど、嫌なら、ならなくて、いいんです。どんな生き方だって、好きに選んで、いいんです。キオスが、嫌なら、それ以外でもいいんです。ねえ、元気になりましょう。元気に、なって、好きに、生きて……ごめんなさい、キオスの外で癒術を使えるのは、その場から逃げ出す手立てになる場合のみなんです。私は、それを理由にしました。貴方を治す理由を、貴方の健やかな日々への希望以外に、置いたんです。ごめんなさい。ごめんなさいっ……私の事情なんてどうでもいいから、元気になって、お願い。目も、必ず治すし、足も、治すから」


 ぱたぱたと熱が落ちていく。本当は、ずっと泣き叫びたかった。怖くて、怖くて、怖くて、堪らなかった。こんなことが起こると知っていた。覚悟もしていたし、このまま死んだって後悔はない。だけどやっぱり怖くて。それだけはどうしようもなくて。でも、それより何よりも。


「癒術を使うのに理由がいることが、吐きそうなほど気持ち悪いなんて、知らなかった」


 つらいだけだと、悲しいだけだと、悔しいだけだと、思っていた。


「ごめんなさい。治すから、絶対、治すから。私のせいで、怪我をさせて、ごめんなさい」


 洟を啜れば、凍えそうな冷気も一緒に入ってきて、鼻の奥がもっと痛くなる。でももう泣いているから、泣く理由がどれだけ増えようが関係ない。薬術師が患者の前で泣くなんて言語道断だ。薬術師はいつだって笑って大丈夫だと、もう大丈夫ですよと、そう言う為に存在するのだ。それなのに、相手が寝ているからと、べらべらと話しながらぼろぼろ泣いて、情けない。でも、喋ってないと、壊れそうなの。こんなことまで私の事情で、ごめんなさい。


「あのね、あの人達には、一気に治せないって言っておいたから、平気だよ。嘘じゃない、けど、薬術師が貴方の負担分を負えば、急速な治療も貴方にあまり負担をかけずに出来ます。薬草も、一杯使って効能搾り取るから、だから、あいつらの隙を突いて、魂石取り戻すから、だから、後は、逃げて。お願い。逃げて。キオスを、目指して。キオスなら、妖人がこんな目に遭わずに、生きて、いけるから。お願い……元気になって。生きて。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 誰も聞いていないからこそ垂れ流せる情けない泣き言を、大きく吸った息に飲みこむ。後は一言も話さず、癒術に集中する。ただ、涙だけはどれだけ頑張っても止まらなかった。




 振動がぴたりと止んだことに気づき、ぼんやりと目を開ける。癒術を使いすぎて気絶していた。青年の胸に突っ伏していた事実に慌てて起き上がろうとしたが、身体が重くてぴくりとも動けない。ただ、青年が温かくて、おかげで凍死しなくて済んだことは有り難かった。湯たんぽにする為に癒やした訳じゃないのにと苦笑する。覚えている中では、命を繋ぐに支障ない範囲までは治療を終えていたはずだ。正直途中からほとんど記憶がないが、癒術に関しては絶対に失敗していないと言い切れる。それは自分への自信ではない。薬術師として卒業させていいと判断して送り出してくれた、厳しく厳しく厳しく厳しく厳しく厳しい先生方への信頼である。

 馬車が止まれば、一気に静寂が落ちる。けれどすぐに騒がしくなった。男達が馬車から降りたのだ。しばらく走り続けたから馬の休憩を挟むつもりなのだろう。どちらにしても、誰かは様子を見に来るだろう。突っ伏していては、奴らが上がり込んでくるかもしれないと必死に身体を起こそうともがく。青年の傷が癒え始めていると気づかれたら何をされるか分からない。


「何をしているのです、死にたいのですか」


 不機嫌な声と、薄暗い幌内に光が差し込んだことで、起き上がる前に奴らが来てしまったことを悟った。起き上がることは諦め、視線だけをそっちへと向ける。仮面の男と外套を投げた男がいた。


「貴女用に渡した物をそんな物に使うなどと、貴女には常識がないのでしょうか」

「――これは失礼を。こんな安物、使ったことが無かったもので。最低でも貴方が着ている程度の設えは寄越して頂かないと、とてもではありませんが着れたものではありませんね」


 仮面の男が纏っている外套は、上から下まで包める上に、一目見て分かるほど作りがいい。どうせならそれを青年にかけてあげたい。今ある外套を回収されなければ、どちらかを敷いて、寝床を整えるつもりだ。そして、出来るならその外套の下を確認しておきたい。魂石は、握りしめながら命じないと効果が無い。だから、すぐに握れるように何かしらの工夫をしているはずだ。その状態を目にすることが出来たら上出来である。小さく舌打ちした仮面の男への嫌がらせも若干あるけれど。

 これくらいの嫌がらせは許容されるはずだと、起き上がれもしない無様な状態でふんっと洟を鳴らす。ずびっと洟を啜りながら、仮面の男を睨む。


「……仕方がない。おい、お前。私の荷から上着を取ってこい」


 傭兵の男を顎で使う様は命令をし慣れているように見える。傭兵も依頼主の横暴な物言いには慣れているのだろう。特に嫌悪を示す様子も無く荷を取りに戻った。


「ああ、そちらは貴方が着てください。私には貴方がいま着ている外套を下さい。私、寒いんですよ。それが貴方の物だということが不快でなりませんが、暖を取れることを優先して我慢します。早く下さい。私を凍死させたいのですか? どちらにしても風邪は引くでしょうね。全く……薬術師は薬が効きにくいのですよ? 風邪をこじらせて死んでも知りませんからね」


 仮面の男は、今度こそ隠しもせず忌々しげに舌打ちした。外で待つのも嫌だったのだろう。幌馬車に乗り込み、荒い動作で外套を脱ぎ捨てた。下から出てきた男の服装で国を特定することは難しそうだ。外套と同じく設えはいいが、どこにでもある型だ。特徴的な刺繍もない。だが、収穫はあった。男の首元からぶら下がっている袋だ。恐らくあの中に魂石がある。


「そんなに嫌なのに、外套はくれるのですか? おかしな方ですね。癒術はなくてもいいのに、薬術師は死体ではいけないのですか? どんな物好きな主に仕えているのですか、貴方は。可哀想ですね」


 くすくす笑って挑発する。馬鹿にされていると分かっているはずだ。ここには動けない人しかいない。怒りに任せて僅かにでも情報を零してくれないかと期待したのだ。

 だが、私は諜報員ではないし、同年代の子ども達が遊びや社会勉強に勤しんでいる間、医の勉強しかしてこなかった世間知らずの頭でっかちである。どきどきしながら様子を見ていたら、仮面の男は脱いだ外套を握ったままこっちにどすどすと歩いてきてしまった。しかも、まっすぐに私を見下ろし、黙って拳を振り上げた。成程そう来たか。勉強になった。

 心の中で、強がる私が偉そうにふんぞり返る。強がりも貫き通せば強さだ。この強がりをいつか本当にしたいなと抱えたまま、ぎゅっと目を瞑って衝撃に備えた。

 しかし、覚悟していた痛みはこなかった。かわりに、ごぽりと肉から空気が漏れる嫌な音と、血の臭いが幌内に溢れた。


「え……?」


 声を上げたのは私だったのか、かつんと落ちた仮面の下からきょとんとした丸い目を向けている男だったのか。仮面の下から現れたのは老人と呼んでも差し支えのない男の首元に、白髪の頭が喰らいついている。呼吸でしか身体を動かしていなかった青年が、バネのように身体を弾き起こし、老人の首元に噛みついたのだ。青年の手は、老人の首元に垂れ下がっていた袋を握りしめていた。

 袋の紐を引きちぎっても尚、青年は老人の首に喰らいついたままだ。肉を切り裂き、硬い物が折れる音がしても、青年はその身を真っ赤に染めながら口を閉ざす行為を止めることはない。老人は一言も発することなく、口から血泡を垂らし絶命した。


「おい、持ってきた、ひっ!?」


 引き攣った声は一瞬だけで、すぐに剣を抜く音が聞こえた。だが、私はその姿をしっかり捉えることが出来なかった。幌の中で風が唸った。そう思ったと同時に、男の首がなくなっていたからだ。

 老人をうち捨てた青年は、およそ人型とは思えない速度で男の首を素手で引き千切った。血を噴き出す男の身体が、己の死を理解できずよたよたと歩く。その手から剣を奪い取ることすらせず、青年は世に放たれた。

 全身を老人の血で濡らしながら、悲鳴を聞く。一つや二つではない。多数の断末魔と、肉が引き千切られ、骨がへし折られる音を、聞いた。無意識に、うち捨てられた老人に手を伸ばしていた。発動した癒術は、昨夜の酷使で点滅していたが、意識を集中させて保つ。だが、術は老人の中を素通りしていく。既に命がこぼれ落ちた身体では、癒術はどこにも引っかかることなく無意味な物として消えていく。

 名前も知らない大嫌いな人。不快な人。キオスの敵。薬術師の敵。妖人の敵。酷い人。罪深い人。青年にも、使われた動物達にも、この老人に復讐する権利があって、私はそれを止める権利を持たない者で。分かっている。この老人は自らの行いに結果が追いついてきただけだ。これは不運でも不幸でもなく、当然の帰結だ。

 だけど、私が癒した命が他の命を絶つ光景を目の当たりにするのは、覚悟していたよりとても空虚だった。どんな感情も追いつかず、全ての感情を追い出してそこに居座った虚無が、感覚すら奪っていったらしい。寒さも臭いも感じず、生き物の気配が潰えていく世界にぽつんと座り込んでいる。

 やがて、私の前に影が落ちた。真っ赤に染まった青年が、黙って私を見下ろしている。緩慢な動作で首を上げ、それを見上げる。


「――赤い、瞳だったんですね。綺麗な、命の色」


 全身を他者の命で濡らしているのは私も同じだ。私が癒やさなければ潰えていた命が、多数の命を潰えさせた。私もその一つに入るのだろうか。

 私は、この人を殺すべきなのだろうか。

 癒やすべきではなかったとは思わない。私が薬術師である以上、そう思うことはない。だけど、このまま世に放つことは許されるのだろうか。これは正当な復讐であるのかもしれない。でもこの怒りが人間という種族全てへ向かっていた場合、それは正当と呼べるのか。正当と、過ちと、判断することは、許されるのか。時代によって変化する罪の在処を裁定することなど、本当は誰にも出来やしないのに。

 薬術師は神でもなければ裁定者でもない。ただの、治癒者なのだ。薬術師は患者の背景に関与しない。してはならない。薬術師が関与するのは治療に関してのみだ。患者の事情及び国家の在り方に至るまで、一切関与することはない。それは世界に散っていた時分から決まっていたことだ。

 命を救うことが出来る。それは、言い方を変えれば命を握っていると同義だ。国を動かす地位にある者、時の権力者、力ある者の命を握ることが出来る。欲しい物は、人でも地位でも金でも名誉でも法でも、自国に止まらず世界中の国を手玉に取ることも、あるいは可能であっただろう。薬術師にその意図がなくとも、人は勝手にそこに悪意を見出す。救われた他者への羨望が、救われぬ己への同情が、救ってくれぬ薬術師への憎悪が絡まり、肥大し、途切れることなく続いていく。故に、様々な介入があったはずだ。

 薬術師はそこに線を引いた。命にではなく、己の立場に線引きしたのだ。

 相手が敵兵であろうと治療する。しかし懐柔はしない。罪人であろうと治療する。しかし罪を犯した背景に関わることはない。たとえ愛した人を殺した相手でも、命を懸けて治療する。罰は法に委ねる。薬術師は裁定者ではない。政治家でもなければ軍人でもなく、まして神などではなく。

 治癒者だ。ただの、治癒者なのだ。政も裁きも、それぞれを受け持つ人々がいる。その領域を侵してはならない。薬術師は治療者であり、その域を出ることはしない。

 だからこそ、薬術師は他と一線を画している。世界に散っていた頃でさえ、薬術師が治療が必要と判断した場合、誰もそれを妨げてはならないと定められていた。たとえそれが王であろうとも。薬術師は命の背景に関与しない。してはならない。薬術師は人の守護者ではない。命の守護者なのだ。命に魅入られ、生より命を優先する。薬術師は無責任で傲慢な、命の奴隷だ。

 だから、薬術師が目の前の人へかける言葉は決まっている。たとえ、私の感情は何一つ定まっていなくても。


「どこか、痛いところはありませんか?」


 自分がどんな顔をしているのか、私にはもう分からなかった。






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― 新着の感想 ―
薬術師のお話は大好きで、何度も何度も繰り返し拝読させて頂いています。このお話も大好きで、とてもとても続きが気になり拝読するたびにこの後のふたりを想像しています。素敵なお話をありがとうございます!!
[一言] ここに辿り着くのですね……
[一言] うわあああああ! 続きが読みたい!
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