修学旅行:後編 7
今朝のことだ。
四角いテーブルの対角線上に座るゾフィーとヒビキの会話は、どこかぎこちなくて、むず痒くて。私を見るヒビキの視線に、ほんの少しだけ、怯えたような視線が混じっていて。
ついでに。昨日の夜からこの椅子に座るまでの記憶が無くて。今も収まらない、うっすらとした、曖昧な微熱みたいな鈍痛に頭がひたひたになっていて。
ホールを包む賑やかな談笑の、一歩外側に座ってるみたいな。
ヒビキ以外のものがあんまり視界に入ってないゾフィーと、平静を取り繕うヒビキとの線分との、捻れた位置に。
まるで、夏の写真に白く写った幽霊みたいだ。なんて。
(ヴァンガードに乗りたい……)
エレンがそんな事を思った。その時だった。
「失礼、今、やっていますかね」
なぜ声がするまで気づかなかったのだろうか。背後にただよう猛烈な死の気配に、エレンは思わず呼吸が止まる。同じ気配を察したのだろう、女店主も微かに目を見開く。
暖簾をくぐって来たその初老の大男は、長い黒髪に無精髭を生やし、そして、右眼に黒い眼帯をしていた。この炎天下の中、黒いロングコートを着ているのに、汗ひとつかいていない妙な男であった。
「はい、お好きな席にどうぞ」
淡々と接客をする女店主の前で、エレンは飛び退こうとする身体を必死に抑えた。
(なに……この男……なんで……)
それは数倍近い体格差も原因の一つだが、エレンはこんなにも自分より強い人間を見たことがなかった。サクラを初めて見た時の『勝てない』どころの騒ぎでは無い。『戦えば、確実に殺される』という揺るぎない直感。
だが、それ以上に。
ゆっくりとエレンの方へ振り向いた男の、暗い孔のような眼がエレンを捉える。男はエレンに微笑んでみせた。
「あなた、目がいいんですね。怯えなくても大丈夫ですよ、危害を加えたりしませんから」
(なんで……)
沸き上がる違和感が疑問に変わる。
(なんで私は、この男にヒビキの面影を感じているの?)
いつぞやに写真で見たヒビキの父とは明らかに別人だ。だがその男には、何故かヒビキの面影があった。
「……」
「困りましたね……私の身分が分かれば、少しは怖くないでしょうか」
男はゆっくりとした動作で鞄を開くと、名刺を取り出して、エレンに差し出した。
「一枚だけ残っていました。ここに所属していたのは昔のことですが、ご参考にはなるでしょう」
エレンは名刺の掠れた英語を読む。古い名刺だ、紙の端の方が解れていて、繊維が毛羽立っている。
(神経共鳴技術研究所 副所長の……なんて読むんだ? イゴール・ニコラエヴィチ・ヴォルコフ?……ロシアの名前みたいだけど……)
「学者さんなの?」
「はい、今はどこにも所属せずに一人で研究をしています。個人研究者、在野の研究者と呼ばれる者です」
「ふーん……学者さんにしては殺気を撒き散らしすぎだと思うんだけど」
「はは、すみませんね。生まれつき目つきが悪いもので」
男……イゴールはエレンの又隣の椅子に座ると、おでんをいくつか注文した。エレンもラムネをもう一本注文する。
「……神経共鳴技術って、具体的にどんな研究してたの」
「なるほど、経歴を疑っているわけですね」
「悪いね。そんな、凶器みたいな殺気を垂れ流しにされたら、私みたいな、か弱い女の子は色々警戒しなきゃいけないんだ」
そう言ってエレンは女店主に一瞥を投げた。
「ふむ……では、私の研究テーマについて少しお話しましょうか。みたところあなたは意欲ある若者のようですしね、学者として、若者の好奇心には応えるべきですから」
イゴールは箸を器用に扱いながらそんな事を言った。
「私が研究していたのは、第2世代型ヴァンガードのパイロット負荷低減技術について、今で言う、神経共鳴ノイズゲート技術についてですね」
それを聞いてエレンは眉をひそめた。イゴールの言いぶりが、まるで、ノイズゲートの開発に携わっていたかのようだったからだ。
「第2世代型ヴァンガードの発明は画期的でした。仮想神経モデルを搭載したヴァンガードは、意のままに操れるだけでなく、人の身体よりも人の身体として高性能だったからです」
「……どういう意味」
「人間の身体の神経伝達速度には限界があります。秒速にして50~60m、どんなに身体を鍛えても、この限界だけは破ることができません。ですが、一度ヴァンガードというフィルターを通せば、秒速約30万kmで脳の命令を身体に伝えることが出来る……目のいいあなたならこの差がどれ程大きいか分かるでしょう」
「そうだね」
第3世代型ヴァンガードと第4世代型ヴァンガードに天と地ほどの性能差があるのと同じ理屈だ。第3世代型は、第4世代型に対して平均およそ0.1秒程の操作タイムラグがあると言われているが、これは達人同士の戦いでは十分致命的な差になる。同様のことが、生身の身体と第2世代型ヴァンガードとの間で起こるのだ。
「ところで、あなたは第2世代型ヴァンガードと第4世代型ヴァンガードの違いについて考えたことはありますか」
「ん? 全然別ものでしょ? だって第4世代型ヴァンガードには完全仮想神経モデルが──」
エレンは質問の真意を理解して言葉を飲み込んだ。
第2世代型ヴァンガードと第4世代型ヴァンガードはともに、ノイズゲートという操作ラグ発生原因を搭載していないという意味で本質的に同じものなのだ。パイロットに対する負荷はまるで違うが、引き出せるヴァンガードの性能は同じである。……そのはずである。
「あぁ、そっか」
「ええ、その通りです。第2世代型ヴァンガードと第4世代型ヴァンガードは、性能だけ見れば同じ……はずですよね? しかし実際には第2世代型ヴァンガードの方が高性能なんですよ」
それを聞いてエレンは怪訝な顔をした。
「どういうこと、どっちもノイズゲートを搭載してないんだから──」
(いや、違う……)
エレン専用のヴァンガード起動設定である『エースパイロットモード』では、ノイズゲートを必要としないエレンのために、第4世代型ヴァンガードと同様のノイズゲート解放設定が施される、つまり最大108番まで存在するノイズゲートを、第108番から第2番まで全開放することになる。
第1番ノイズゲートは解放されていない、搭載されたままなのだ。
「第1番ノイズゲートだけは、どんな第4世代型ヴァンガードにも搭載されている……?」
イゴールは頷く。
「しかし第2世代型ヴァンガードにはその第1番ノイズゲートすら搭載されていない。この意味が分かりますね?」
しかしエレンは第1番ノイズゲートを邪魔だと感じたことはおろか、知覚すらしたことすら無かった。エースパイロットモードで起動されたヴァンガードは、生身の身体のように、エレンの意志のままに動いたからだ。
エレンの指先が口元に触れる。
「そっか……第2世代型ヴァンガードの早すぎるレスポンス自体が、深刻な不適合ノイズになってしまうんだ」
「その通りです。そのため、人間の生身の身体と全く同じようにチューニングされた第4世代型ヴァンガードには、当然、人間の身体に本来存在するラグを再現するためのノイズゲート、第1番ノイズゲートが搭載してある……。第1番ノイズゲートが開放されたヴァンガードに搭乗することは、人間をやめることとほぼ同義です。その不適合ノイズは、パイロットに激しい苦痛だけでなく、その脳に深刻なダメージと後遺症を与えます。このため第1番ノイズゲートは、絶対に開けてはならない『禁忌の扉』と呼ばれているのですよ」
「『禁忌の扉』……」
「そのため、第4世代型ヴァンガードですらヴァンガード本来の、いえ、人間の脳本来のスペックを発揮できているとは言えないのです。私の今の研究は、ノイズゲートに変わるパイロット負荷低減技術を開発し、安全な第2世代型ヴァンガード、つまり第5世代型ヴァンガードを開発することを目的としています」
男はそう言って大根をずるりと丸呑みにした。
(嘘はついて無さそう……殺気がダダ漏れなのは、ホントにそういう体質ってだけなのかな……)
エレンはラムネに口をつけた。長話のせいで微かに温くなった炭酸が喉を伝う。
(何やってるんだ私……そもそも、たまたま同じ店に入っただけの他人に、何をそんなに怯えてるんだ。屋台を離れればそれで終わり、それだけのことなのに)
最近色々あったせいで気が張っていたのだろう、と、エレンは小さくため息をついた。
「ところで、最近日本でよく目撃されている異形のヴァンガードについてご存知でしょうか。アレは大変興味深い。あれほど人間とはかけ離れた形をしているヴァンガードの不適合ノイズは、ノイズゲートでは防ぎきれません。普通の人間が乗ればまず間違いなくショック死するでしょうね」
そんなエレンの油断に付け込むように。
「ノイズゲートとは別の、より性能の良いノイズ低減技術を搭載しているか、或いは、パイロットの方に何か手を加えているのか……あぁそういえば、学生が作った低性能機で異形のヴァンガードを撃破した天才パイロットは、何やら、あらゆるヴァンガードの仮想神経モデルと完璧に適合できる特異体質らしいですね。そのパイロットであれば、異形のヴァンガードを操縦することも……」
エレンは首を動かさぬまま、目線だけ静かにイゴールの方へ向けた。
「何が言いたいの」
「あぁいえ、すみません。つい考察が口から漏れてしまいました。お気になさらず」
エレンはカウンターを殴ると、勢いよく椅子から立ち上がった。丸椅子が倒れ、カウンターを跳ねたラムネ瓶がアスファルトに当たって砕ける。
「白々しい! 何が目的だ! 本性出しやがれクソジジイ!」
「いけない……っ!」
エレンを止めようとカウンター側へと回ってくる女店主。イゴールは肩を揺らしてガタガタと笑った。
「クク……本性を出すべきなのはお前の方だ。白兎」




