第39-2話 おかえり、そして、ただいま ☆
建物も人も消え、開けたその土地を、ずらりと並び歩く集団がいる。
ローヴェニカ支部に所属する冒険者の一行だ。
厳密にはギルド職員と冒険者、外部関係者の混成部隊だが、彼らの目的は同じ。
ある魔物を討伐するために、荒れ果てたこの地を踏みしめる。
混成部隊を導くように先頭を進むのは二人の少女。
うち一人であるアモネは――やがて足を止めた。
それに倣い、混成部隊の足も止まる。ざざざと土を踏む音が背後で連続した。
アモネは深呼吸をして、眼前にたたずむ『魔物』を凝視した。
『魔物』は俯いて立ち尽くしている。表情はまったく見えない。まるで何かがくるのを待ちわびているように、その場から一歩だって動こうとしない。
(……ッ‼ デリータ、さん……!)
彼女が『魔物』に向ける視線はいつになく穏やかで。
これから討伐するというのに、アモネの顔は心配と不安の入り混じった、それでいて今にも泣きだしてしまいそうに頼りない。
その『魔物』は、簡単に言えば使い古されたボロ雑巾のようなものだった。
姿は完全に人間。土塗れになった漆黒の衣服はあちこちがビリビリに破れており、道端に堕ちていたら迷いなくゴミ箱へ直行させるほど薄汚れている。
そんな印象を与える『魔物』をじっと眺めて。
「デリータ、さん……」
アモネは誰もが踏み出さなかった一歩をいとも簡単に出してしまう。
背後から彼女の奇行を危ぶむ声が聞こえてくるが耳にも入れない。
「……デリータ」
わずかに遅れてアモネに続くはもう一人の小柄な少女。長い銀髪がそよ風で大きく広がった。
少女たちと『魔物』の距離は、わずか一メートル。
身を乗り出して手を伸ばせば触れられるほど近く、ゲンゴクの忠告に従うならば決して触れられない永遠の距離。
アモネは目の前で棒のように立つ『魔物』へ声をかけた。
「……う、ウソですよねデリータさん! わたしたちを脅かすために演技してるだけですよね? もうデリータさんったら、そういうのはもう終わりでいいですから! ね? 帰りましょ? 脅威は去ったんです。危機は終わりました。他でもないデリータさんのおかげで!」
無理くりに作る笑顔というものは。声色というものは。
どうしてこんなにも虚しいのだろうとアモネは息を吸う。
「本当にデリータさんはスゴイです。だってローヴェニカを救っちゃうんですから。あんなおっきな魔物を倒したことがある人なんて、後にも先にもデリータさんくらいしかいないんじゃないですか? ねぇ、そうでしょうデリータさん?」
ない。返答はない。
ただ、そよ風が嘲るようにアモネの頬を切り裂くだけ。
「……デリータ、空がとてもきれいだよ。すごく澄んだ色。空気もおいしい」
静寂に耐えかねたアモネの代わりに、今度はシャーロットが言葉を紡ぎ出す。
「……改めて思った。デリータ、ほんとうにすごい。みんなが大切にしたいもの、みんなが大事にしてるもの、ぜんぶ守ってくれた。守り抜いてくれた。ボクを助けだしてくれた時みたいに」
口下手な少女にしては奮闘したほうだろう。
それでもなお、『魔物』の心には届かない。
深淵よりも遥かに奥底の、真っ暗で深い闇には。
「……ボク、いっぱい色んな人助けられた。たくさんの人に『ありがとう』って言ってもらえた。スライムのぼくに『こころ』があるかはわからないけど……すごく嬉しかった。だからデリータもボクを褒めて。ボク、デリータに褒められるためにがんばったんだもん」
シャーロットはわずかに間を置いて、
「……すごくがんばったんだよ、デリータ……」
途端、彼女の瞳からぼろぼろと流れ出す大粒の涙たち。
純白の頬を流れる涙の軌跡が太陽光に反射している。
どれだけ届けようとしても、決して届かない想いに報いるように。
感情が連鎖する。決壊したシャーロットの感情がアモネの張り詰めた精神を一瞬にして解いてしまい、
「……答えて、くださいよ……、デリータさん……」
ついにアモネもこらえきれず、涙をひたすら流す。
(こんなの……こんなのってないよ……!)
目元を服の袖でごしごしと拭きながら。
アモネはやりきれない想いに胸が押し潰されてしまいそうになった。
やっぱり行かせるべきじゃなかった、と彼女はちょっと前の自分を責め立てる。
だって、デリータは初めから知っていたから。
もしかすると魔物になってしまうかもしれないことを。それをわかったうえで暴走したディオスのもとへ飛び込んでいったのだから。
彼は特別任務が始まった直後、アモネとシャーロットにその可能性を伝えていた。
実はこの日のためにヒト型モンスターと取引をしていたこと。
その取引によって、キャリーやディオスの身に起きた現象を自分にも起こせるようになったこと。
魔物化する要因『モンスター因子』は《消去》で一時的に無効化していること。
時が来れば《消去》を解き、魔物となってアモネたちの前に立つこと。
そして、今日がその時だと彼が考えていること――。
もちろんアモネだって止めた。シャーロットだって止めた。
心配だったから。もし本当に運悪く、魔物になったまま人間に戻れないなんてことが起きてしまったら。
想像しただけでも気が気でなかったから。彼女たちは懸命に止めた。
けれど彼の答えは最初から最後まで変わらなかった。
『大丈夫だって。心配してくれてありがとな』
頭をかきながらそうはにかんで、
『でも、もし。万が一にも、俺がモンスターになったまま戻れなくなっちまったり、自我を失って暴走し始めたりしたら、そん時は――』
ズキズキと痛む胸を抑える、
白飛びしそうになる思考を必死にこらえる、
そんな彼女たちが聞いた彼の最後の言葉は、
『一思いに俺を倒してくれ。遠慮はいらないから、ずばーっ‼ ってな!』
なんで笑っているんですか、とアモネは聞けなかった。
シャーロットも同じように口を噤んでいた。
聞けば。そんな質問をしてしまえば。
(――きっとわたしたちは納得してしまっていただろうから)
アモネの知るデリータという人は、目の前の『魔物』である彼は、そういう人なのだ。
守ると決めたなら最後までそうするし、戦うと覚悟したならその意思は魂が消滅するまで消えはしない。
デリータはそういう芯を持った人だと思うから。
(……わたしたちじゃなきゃダメなんだ)
ひらけた区画で突っ立っている少年からは、一向に返事がこない。
意識があるのかないのかもわからない。
でも『魔物』になってしまったことは確かなのだろう。
そこから戻れなくなってしまったことは事実なのだろう。
――ならば。
「シャーロットちゃん」
アモネは意を決する。
その瞳にもう涙は浮いていない……などということはない。蛇口を開けっ放しにしているように、だらだらぼろぼろと流れっぱなしだ。
でも、覚悟の光は確かに宿っている。
強く、たくましく揺らいでいる。
――ならば、最後くらいデリータさんの頼みを叶えよう。
今までの感謝と恩返しを込めて、叶えてみせよう。
「デリータさんのお願い通り、わたしたちで倒そう」
「……! でも……!」
「だいじょうぶ。わたしに任せて。シャーロットちゃんはそこで見ててくれたらいいから」
一歩、アモネは前に出る。
初めて会った時から、今日にいたるまで。
彼と共に作り上げてきた思い出を、一つ一つ噛みしめるように。
記憶に刻みつけるように。決して忘れないように。
「うぅっ……‼」
もう一度、味わうように。
この涙の意味を、何度でも思い出せるように。
デリータを救えなかった自分を踏み潰すように。
「デリーダざんっ……ありがどう、ございばじだっ――――‼」
アモネは《反射》を宿したその手を、『魔物』へゆっくりと伸ばして、
「えっと……どう、いたしまして?」
その手が途中で止まった。
「……ぇ?」
アモネは伸ばしかけた腕を下げることも忘れて、目をぱちくりさせる。
目の前の『魔物』が喋ったからだ。
「え……え? えっと……えぇ?」
突然目を覚ました『魔物』を前に、アモネはどうしていいかわからず気が動転しそうになった。
「えっと、デリータさん、ですか? 違いますよ、ね?」
「あん? アモネ、お前何言ってんだ。俺が別の誰かに見えてんのか」
『魔物』は呆れたような目を彼女に向けながら、準備運動をするように肩を回している。
いや、というか別の誰かに見える。
アモネには『魔物』がデリータのようにはとても見えない。
「み――見えてますよ‼ だってデリータさんそんな服持ってなかったじゃないですか一体いつ買ったんですかそんな真っ黒な服‼ それに髪の毛もそうですよ‼ この短時間で脱色から染髪までしたんですか奇麗に色入ってますが白すぎますよ‼ そして最後にその目‼ なんなんですかその真っ赤な目はまるで獣じゃないですかーッ‼」
「んん? あぁ、なに、俺そんな風になってんの? じゃあ多分コイツが原因だと思う」
言葉を区切ったデリータは事もなげに消去、と呟いて、
ばぎん‼ とガラスが粉砕されるような破裂音が響く。
と、同時。
「どうだ? これで戻ったろ? ――魔物化デリータさん編、これにて終幕ってな!」
……アモネの前で冗談を言っている男は、もう『魔物』などではなく。
どの角度に首を倒してみても見間違えられない、彼女のよく知った少年だった。
ぴくぴく、と。アモネは自分の片眉が痙攣するのを感じる。
体の奥底でふつふつとした何かが湧き上がり、いまにも爆発しそうだ。
「いやー参った参った、魔物化って結構面倒くさいんだな。もうあんなの二度と……ってあれ? アモネ、さん? も、もしもーしアモネ嬢? なんで顔真っ赤にして《反射》積んだ両手を俺の首目がけて伸ばしてるのかなってちょっと待って今本当に逃げられないから――‼」
ついにうわーっ‼ とアモネはデリータに飛びかかった。
「……???」
しかし、デリータの身が爆散することはない。血肉のカケラに分解されることも、天空へ容赦なく突き飛ばされることも。
むしろ、どちらかというと。
「よかった……本当によかったです、デリータさん……!」
もう離しませんよ、とでも言うように。
アモネの両腕は強く優しくデリータを抱き締めていた。
「……ボクも」
わずかに遅れてシャーロットも彼を抱き締める。
さすがにここまでされて、何も感じないほどデリータもバカではない。
彼は一つ、
「……ったく、心配しすぎじゃないか、ふたりとも」
そう言って腕を彼女たちの背中へ回し、
「でもありがとうな。たくさん俺のために戦ってくれて」
ふたりの華奢な体を強く抱き寄せる。
彼の耳元では嗚咽を堪える音があった。あるいは嗚咽を隠さない、それこそ見た目に見合った爆音の大号泣も同じように。
アモネとシャーロットは、涙交じりの声でなんとか口にする。
「おかえりなさい、デリータさん……!」
「……おかえり、デリータぁ……ぅうわぁぁぁぁぁぁぁんんっ‼」
デリータは、ただただ噛みしめる。
大事にしたい人たちの。守りたかった人たちの。
温かい体温を肌で感じられる喜びを。
彼は小さく笑ってただ一言、
「ただいま」
そう返事する。




