第38-9話 この時を待っていたんだが?
朦朧とする意識は、しかし途絶えようとはしなかった。
どころか、外気の状況は目で見るよりも明らかに鮮明に想像できる気がした。
瞼が視界を閉ざしているせいで、聴覚が研ぎ澄まされているのだろう。
――あの吐き気は一体なんだったんだ?
暗がりの中で漂う意識に俺は問いかけた。
ディオスまで残り三〇メートルほどになって途端に襲ってきた体調不良。巨大モンスターを遠巻きから眺めていた時にはそんなことはなかったから、もしかすると接近し過ぎたことが原因なのかもしれない。
「…………レイ、さ――――イツ……すん――」
何か痺れそうな音が炸裂しているが、正体はわからない。
――とはいえ。原因の目星がついたところで俺にはどうすることもできない。
体は鉛のように重く、全身全霊で筋肉に命令を出しても指先をイモムシのように動かすことがやっとだろう。
情けない。実に情けない。
ディオスの魔物化を解除し、彼自身の命も救う――よくもまぁこんな大それたことを考えたものだ、数十分前の俺は。
「ク…………こそ――――てない……中……」
今度はずばん‼ と爽快な音が響く。
が、こちらも正体は不明。意識を思考に戻す。
――仕方ないだろう?
俺にしかできないことだと思ってたんだ。
ついでに言うなら俺がやるべきことでもあり、やりたいことでもあった。
ディオスへの温情だ、甘すぎる決断だ。そう非難する冒険者も決して少なくはない。
しかし俺にとってこの戦いとは。
ディオスに再起の機会を与えるという小さな理由のために動くのではなく、
大事な人たちを守り抜くという大きな理由のために立ち上がっただけなのだ。
このまま倒れたままで、誰もディオスを止められなかったら。
きっとアモネは反逆罪で拘束され、拷問の末にその命をゴミ箱へ投げ捨てられる。
シャーロットは問答無用で剣を突き立てられ、モンスターとして死を迎えることになる。
そんなアモネを助けたウィズレットさんは。
他の冒険者の前で俺の味方をしたクレブは。エレルーナは。
俺にこの戦いを一任する判断を下したゲンゴクは。
想像するだけで嫌な汗。
くそ……くそ、動け! 動け俺の体……!
このまま寝そべっている訳にはいかねぇんだ。
早く立ち上がって。ディオスをぶっ飛ばして。最大の目的――つまりローヴェニカの人々のモンスターに対する偏見を拭い去ること――を達成しなければならないんだ。
大事な人を守るための力。大事な人を守りたいと思う気持ち。
その用意はとっくの昔からできている。
だから後は!
この体さえが思い通りに動いてくれれば!
――静かなる怒号を内心で飛ばしたその瞬間、俺の耳に飛び込んできたのは。
「起きろ! 目を覚ますんだデリータ‼ ここでキミにくたばられちゃワタシが困るんだ‼」
懐かしい女の声。耳馴染みのある声だった。
「僕も同意見だね! まだ君の力を見せてもらったのは一度しかないんだ‼ クレブさんが信じる君の本気を、どうか一目見せてもらいたいものだよッ‼」
別方向からは男の声。息が荒れているのに爽やかで澄んだ声音だ。
クレブが……戦ってくれているのか?
地に横たわったまま俺は薄っすらと目を開ける。
と。
「グゴガァ‼」
安定しない視界で、モンスターがこちらに迫ってくるのが見えた。
が、瞬きをした直後、その体は縦半分に真っ二つに引き裂かれる。
なんだ今のは……? と驚愕に目を見開くと。
「お……! 目が覚めたようだね、クレブさんもきっと喜ぶだろう」
豪勢な剣を疲労を隠すような微笑みと共に振り下ろす金髪の爽やかな青年がいた。
覚えている。ブルームレイだ。
彼は靴底を削って身を翻し、次々と襲来する魔物を斬り飛ばしていく。
まだ一度しか話したことがない、言ってしまえば他人同然の俺のためにブルームレイまでもが動いてくれている。
「な……なんであなたが……」
彼の背中は語る。
「初めから不思議で仕方がなかったんだ。Gランクの冒険者がなぜベテランたちを圧倒していたのかってね」
剣は魔物を引き裂く。あたりに人のものではない血が飛び散る。
「けどここで倒れている君の背中を見て。そんな君を見たクレブさんが取り乱している姿を目の当たりにして。理由はこんなにも簡単だった、とわかったよ――」
左から右へ一閃。
ブルームレイの剣が空間ごと切断するように魔物の腹を通った。
彼はそのまま身を半回転させ、眩しさと爽やかさを兼ね備えた表情を俺に向けて、
「――君はここに立つべき理由がある。強く、大きな、理由が。だから君は強いんだろう?」
青年に飛びかかる無数の敵影。
彼はそれらを剣一本で対処しながら、
「君の援護をしているのは成行きだ。でも僕は本気で見てみたいと思っている。君の本気とやらを――」
ブルームレイは言葉を区切って、告げる。
「――これだけ多くの人間を突き動かしてしまうほどの、君の力を――‼」
世界に静寂が訪れたような気がした。
彼の言葉を聞いた俺は、自然と全意識を聴覚にかき集める。
すると、聞こえる。
懐かしくて、暖かくて、強くて、支えられるような声が、
聞こえる。
「いけーッ‼ 何があってもデリータを守るんだーッ‼」
「助けられてばかりのわたしたちですけど……‼」
「……こんどはボクたちが助けるばん‼」
「守れ、守れーッ‼」
「デリータにモンスターを近づけさせるなーッ‼」
「これがワタシの神髄なのだよ―――ッ‼」
「先生暴走するのは結構ですがエネルギー切れには注意してくださいね‼」
全方位から聞こえてきた、そんな声たちに。
全方位で飛び交う魔法や武器の激突音に。
いつしか不調を忘れた俺の本能は鳴っていた。
応えたい、と。
――そう、だよな。
こんなところで、体が動かねぇなんて。
「弱音……吐いてる場合じゃあねぇよなぁ……‼」
力の入らない全身にそれでも力を込めて、辛うじて俺は立ちあがる。
ゆっくりと、たっぷりと時間をかけて。
歯を食いしばる。
覚醒した意識に抗うように、先ほどまでとはいかずとも再び強烈な吐き気が襲ってきた。
そんな俺を見てか、攻撃の手を緩めないクレブが横合いから声をかけてくる。
「デリータ、ここから一〇メートルも進んだ先からは魔力濃度が普段の五〇〇倍はある超危険区域だ‼ 並の人間では生きていけん、冒険者たちの援護もここまでになる‼ だがワタシとエレルーナ、それからブルームレイは特別だ‼ だからディオスはワタシたちに任せて、キミはそのまま休ん――」
「断……る‼」
こんなところで、引いてたまるか。
俺にはあるんだ。ここに立つ理由が。立たなければならな理由が‼
正直体はキツイ。おそらく処理上限を超えた魔力が体内で飽和してしまっているせいだろう。
我ながら人間の体は脆いものだと場違いな思考が脳内を埋め尽くし、
けれど諦めない。《消去》を継続して繰り返し、唇を噛みしめて、振り絞るように。
「はぁ……はぁ……、」
俺はついに、自分の足で立ち上がった。
そして首を振る。まるで世界を始めて認識した赤子のように。
「……!」
そこに映る景色に息を呑んだ。声を忘れそうになった。
見知った顔があちこちで踏ん張っている。
あちこちで魔法を放ち、自らを奮い立たせ恐怖に打ち克ち、負傷した自身など顧みずに全力をぶつけようと戦っている。
アモネがいた。シャーロットがいた。ゲンゴクもいる。ウィズレットさんも他のギルド職員さんたちも、顔見知りの冒険者たちだってここにいる。
この壊され続けたローヴェニカの地上に。
もはや何も残りはしないであろうこの街に。
胸の奥がなにかとてつもない大きなモノで満たされていく。
下手をすれば押し潰されてしまいそうなモノ。その重圧がないといえば嘘になるが、
それが気にならないほど温かく心強いモノ。
俺を強く、激しく突き動かすモノ。
ここに立つ理由が、立たなければならない理由が。
いっそう激しく燃え滾るのを胸の奥で思い知った。
ならば。
ならば、俺がやるべきことは。
ダン、と獰猛な一歩を前に踏み出し、
「うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおッッ‼」
俺は走り出す。
人の心臓を模したモンスターに向かって走り出す。
変わり果ててしまったディオス目掛けて、全力を振り絞る。
「あのバカッ……おいデリータ‼ それ以上進むな、本当に死んでしまうぞ‼」
背中に刺さるのはらしくないクレブの怒号。ひょっとするとアモネやシャーロットの悲鳴にも似た声も混ざっていたかもしれない。
――だが、問題はもうない。死ぬこともない。心配することはもう何もないのだ。
すべてはこのために。
今日この日のために取っておいたのだから。
大事なものを守るために。大切な人を守るために。
その目的を達成するために、俺は今ここに立っているのだから。
闇に覆われる天上。
文明を放棄したような傷跡を残す街を駆け抜ける俺は、
ディオスとの間合いを一息で詰めていく俺は、
静かに叫ぶ。
「 、 」
もう何度も口にした、そのスキルの名を。




