赤薔薇の乙女
その日、彼女は何よりも美しかった。
普段の彼女は地味で、曖昧に微笑むばかりの人。なのに今日は、すべての視線を奪う魔性の人。
真っ赤な口紅とドレスは見事に彼女を咲かせた。朝露に濡れたような瞳やすらりと伸びた四肢はなまめかしく、薫り立つような色気を醸し出している。男たちは彼女に見惚れ、女は嫉妬と羨望の眼差しを贈る。
だがそのどれも、彼女にとっては意味が無い。ため息をつく彼女の左手に光るのは、明らかにサイズの大きな指輪。その意味を理解できる奴がこの夜会にどれほどいるだろう。ただひとりに微笑みかけられたい一心で彼女はここに咲いている。
しかしそんな彼女の気持ちとは裏腹に男たちは牽制し合い、彼女に話しかける機会をうかがっていた。
「いい夜ですね、お嬢さん」
意を決した1人が彼女に話しかける。彼女は少し悲しげに微笑んで答える。
「ええ、本当に」
「しかしあなたはずいぶんと悲しそうだ」
「そう見えまして?少し緊張しているのかもしれませんわ」
話しかけた青年は彼女の気を引きたくて躍起だ。何か上手い返しを考えるも、彼女が喜ぶ気配はない。仕方なく彼は離れていった。そうして次々に様々な男が彼女に話しかける。
「あなたほど美しい人はいない」
「おかしいと思わないでくださいね、あなたに恋をしてしまった」
「わが国にお越しください、皆があなたを歓迎します」
百戦錬磨の遊び人も、堅実な跡取りも、隣国の王子も。誰も彼女を喜ばせられない。ただ彼女は曖昧に微笑むだけ。
「無礼をお許しくださいませ。私にとっては隣国の日差しは眩しすぎますわ」
「では日傘を用意しましょう。我が国特産の果物も用意しましょう」
「申し訳ありません」
頑なな彼女にそろそろ苛ついてきたらしく、王子は彼女の手を無理やり掴む。
「ほら、踊りましょう?」
「離してくださいませっ」
初めて彼女の表情が変わった。それに気を良くした王子は、さらに笑って彼女の指から指輪を抜き取った。彼女の表情が怒りに変わる。
「いくら王子様といえど、貴婦人の装飾品を奪うなど!」
「これはあなたにふさわしくない。もっと良い物を贈ります」
「返して!」
騒ぎに会場中が注目していた。彼女の頭上に指輪を掲げ、楽しげに笑う王子に顔を真っ赤にする彼女。そのじゃれ合いは微笑ましく映るかもしれないが、楽しいのは王子だけだ。彼女は本気で怒っていた。流石に見逃せない。王子を諫めようと一歩踏み出そうとしたその時、誰かが音もなく王子の背後に立つ。
「失礼」
その長身の紳士は王子の手から指輪を取り、当然のように自分の指にはめた。
「なんだお前は!」
突然のことに呆然としていた王子が紳士に何かまくし立てようとする。が、紳士が誰かわかるとすぐに青ざめた。紳士は微笑みもせず王子を見る。
「お久しぶりですね、王子。相変わらずのようで」
「あ、あぁ、久しいな。まさかお前が来るとは思ってもみなかったよ」
ひきつった笑いを浮かべた王子がようやく彼女の手を離すと、握られていた所が赤くなっているのが見えた。それを見た紳士は表情を凍らせる。それに気付かずに王子はぺらぺらとしゃべり出す。そして今気づいたと言わんばかりの白々しさでとんでもないことを言い出した。
「あ、その指輪。返してあげてくれないか。彼女のなんだ」
あまりに無責任な台詞に彼女の青筋が浮く。指輪を奪ったのは王子で、彼女はそれを明確に拒絶した。それに謝罪もしないなんて、あまりに虫が良すぎる。
「だからさ、早く…」
「その必要はありません」
紳士はぴしゃりと言い切った。そして柔らかく微笑み、彼女に手を差し伸べる。
「おいで。遅くなって悪かったね」
彼女は安心したように息を吐き、彼の手を取る。呆気に取られる王子に見せつけるように彼女は彼に抱き着く。
「これは私が彼女の元に忘れていったものです。昨夜は忙しかったから」
「わざと忘れていったくせして」
「何のことだい?」
むくれる彼女の頬に口づけを贈る紳士の目は甘い。王子はようやく自分のしでかした事の大きさに気付いた。
「すまない、本当に、無礼を働いた。どうか許してほしい」
「許す?」
紳士は大仰に驚いた声を上げ、喉を鳴らして笑う。
「外遊で訪れた隣国の夜会で気が大きくなるなど、誰にでもあることでしょう。ましてやこんな美人がいては」
「そうだ!だから」
「そうだ?」
紳士の顔から微笑みは消えていた。威圧感や怒りを隠そうともしない。
「彼女のせいにする訳か?見下げた」
紳士は嘲笑い王子を見下す。その瞳は冷たい怒りに燃えていた。
「このことはお父上に報告させてもらう。……まあ、俺が報告するまでもなく耳に入るだろうがな」
この世の終わりのような顔をしてしゃがみこんでしまった王子を、すかさずやってきた侍従が回収して会場の外に連れていく。すっかり冷えてしまった会場の空気を仕切りなおすように、紳士は声を張り上げる。
「騒ぎを起こして申し訳ない。失礼ながら、我々はここを去った方がよさそうだ。主催者さえ認めてくれれば、だが」
紳士は壇上にいる主催者を見た。惚けて一部始終を見ていた主催者は慌ててうなづいた。それを認めると今度は僕の方に視線を送ってきた。肩をすくめて了承の意を示す。後始末は任せたまえ、恋人たち。
「それでは失礼する。良い夜を」
紳士は彼女の手を引いて会場から去ってゆく。去ってゆく2人は幸せそうで、こちらまで嬉しくなる。
お幸せにね、と心で呟き、後からやってくるであろう質問攻めには目を瞑ることにした。
___________________後日談
「ねぇ聞いて叔父様!あの人ったらひどいのよ!」
あの夜会から1日。僕と彼女は家でゆっくりとお茶を楽しみながら会話をしていた。可愛い姪の話は聞いていて飽きない。小説のネタにもなるし。一昨日の夜会とは打って変わって、シンプルな普段着に身を包んだ彼女は年相応の乙女らしい。怒っている風だがその口元はにやけていた。
「来るのが遅いって怒ったら、だから指輪を預けただろう、なんて!何も言わずに置いて行っただけなのに」
「そうだね~」
微笑ましいな、とニヤニヤしながら聞いていたら鋭い目を向けられる。
「叔父様、私は本気で怒ってるのよ?」
しまった。慌てて真面目な顔を取り繕うが思わず呟いてしまう。
「怒ってる相手と1日一緒にいるのは無理じゃないか?」
小さな呟きだったが正面に座る彼女には聞こえたらしく、真っ赤になって固まってしまう。
「あぁごめんごめん。からかうつもりはなかったんだ。ただ君は素晴らしい好物件に惚れたな、と思って」
彼女は1つ咳払いをして済ました顔を取り繕う。
「私の目に狂いはないでしょう?」
「あぁ本当に」
早くに両親を亡くしたこの子の親代わりとして、良い結婚相手を探さねばと焦っていたが杞憂に終わった。まったくすごい子だ。
「君の慧眼は姉さん譲りだね。本当に、よく似てきた」
「お母様に?」
「そうだとも」
嬉しそうに笑う彼女はまだ幼い。しかし俺の命も長くないのだから、覚悟を決めて送り出さねばならない。
「本当は、君を嫁にやりたくないんだけどね。幸せでいてくれるのが1番さ」