第九章 伏兵
迷森暗路は文字通り、道案内がいないと迷っちゃうぐらい木々が生い茂るちょっと暗い森。
だけど残念なことにこの森は一度人間国に突破されていて、ところどころ森林伐採され視界が広がっていた。
今、私はユエン隊長が指揮する隊と一緒にその森を進軍している。
この森を抜けると清朗街道、清朗明森と続いていく。
地図的に見ればどんどん人間国に近づいているから、劣勢からはちょっと挽回したって考えていい。
「伏兵には伏兵……考えましたね!」
「…………」
「伏兵の位置までは見通せなかったので、みんながバラバラになって探索するっていうのは良い方法だと思います!」
「……その間フーは少数で街道を目指す。そこを狙われるって可能性もあったんだがな」
ギロリとした目つきは敵を威嚇するような冷たさを持っていた。でも相手がユエン隊長だからか、怖いというよりご褒美だった。
軟化したかと思われたユエン隊長の態度は本当に若干だったらしく、うるさくする私の会話の一割ぐらいにしか返答はされなかった。
でもそんな些細なことが嬉しい! だって推しと会話できたんだもん、この奇跡に感謝!
「だからフー将軍もしっかり逃げられるよう、配備された獣人はみんな逃げ足速いじゃないですか。大丈夫ですって!」
「……どうだか」
そっぽを向いてユエン隊長は前を歩く。私もその歩幅に追いつこうと、速歩きでその隣についた。
今回もフード付きローブで全身を覆っている。トレーナーがあまりにも目立つっていうのもあるけど、私が人間だとバレたら多分真っ先に狙われるから。
獣人に協力している人間なんて、人間側から見れば裏切り者。ユエン隊長がそばにいる限り大丈夫だと思うけど、的になる確率は下げたかった。
「……っ!」
「えっ?」
ユエン隊長が急に走り出す。私が慌てていると、周囲を索敵していた獣人たちも走り出した。
全速力で走ってるところ、初めて見た気がする。速いっていうレベルじゃない、人間離れした俊敏性。
「せ、せめて近づかないと」
完全に置いていかれている! もうみんな見えなくなっちゃってるよ!?
ユエン隊長がどこに向かったか分からなかったけど、私は周囲を見渡しながら音と気配のする方角へと迷いながら走っていった。
*
私は、全てを甘く見ていたのかもしれない。
ここはゲームの世界で、私が感知できることは多くなくて、ただ導くだけの存在だって。
軽んじてたんだ。
戦いを。
「っ、うえっ!」
酷い生臭さと、見るに堪えない残骸。
やっと獣人らしい姿を見かけたと思ったら、そこに転がっている光景も同時に目に入って私は胃の中のものを吐いていた。
ゲームみたいに……倒した相手が消えるわけじゃない。
殺した相手は、その場に残る。
「大丈夫?」
そう、優しく声をかけてくれたのはそばにいた獣人だった。
鼠型の頭をした、私の身長より頭一つ分小さな……その手には槍を持ち、全身が血だらけで……
「ころしたの?」
当たり前すぎることを問いかけていた。
「うん、君の見通しがなかったら全然気づかなかったよ。ありがとう」
嬉しそうにニッコリと笑い、持っていた槍を投げる。
ドスッと刺さった肉はまだ動いていたのだろう、呻き声のようなものを上げて静かになった。
「ユエン隊長を呼んでくるね」
その獣人は駆け足で行く。私は……追いかけることができなかった。
動けなかった。
戦いはこういうものだって、理解していなかった。
考えれば、当たり前だったはずなのに……こんな、人間が死ぬところ……
「うえっ、ううぅ~っ!」
容赦なく口から出てくる吐瀉物。生理的に出る涙。鼻にこびりつく死臭。
……目眩がする。
「まさか死体を見るのが初めて、なんて言うのか?」
いつ……来てくれたんだろう。蹲っていたらユエン隊長が声をかけてくれた。
ふと見ると、いつもの白と黒の美しいコントラストが赤に染まっている。
こびりつく、赤。どす黒い赤。肉の、破片。
言葉を返そうにも、空っぽになった胃がうねり、暴れて声が出なかった。ただ苦く、顔を歪めるだけ。
「人間国にてめぇみたいな甘っちょろいのがいるとはな」
鼻で笑い、嘲るような声色。見下す目に、私は顔を伏せた。
だって……仕方ないじゃん。私が知っている死体はみんな棺桶に入ったキレイな状態だったんだ。
交通事故でさえ間近で見たことはない。ましてや殺人なんて……どこか、遠い話だった。
私は、この世界をまだ夢だと思っていたんだ。でもこれは現実。これが、現実。
「ごめん、なさい……」
誰に対して謝っているのか分からなかった。
ユエン隊長になのか、殺された人間になのか……
ただ漠然と、自分の浅はかさを呪いたくなった。
「……おいてめぇら、警戒しながらフーと合流しろ。俺もあとから行く」
ユエン隊長の声に、ガサガサと森が返事をするように音を立てる。
伏兵は……フー将軍を追い詰める原因は、取り除かれたのだろう。
私も、立たなきゃ……歩かなきゃ……
「うるせぇやつがこう静かだと過ごしやすいもんだな」
普段私に対して無口なユエン隊長が、辛辣な言葉を並べても心が動かなかった。
会話して、好感度を上げて、ユエン隊長ともっと親密になりたいのに。
現実を直視することができない私は、思考を硬直させる。
「……そんな顔でフーの前に出られちゃ、俺が何言われるか分かんねぇ」
「っ」
急に体がふわりと浮き上がったかと思うと、お腹に全体重がのしかかってくる。
私……ユエン隊長に担がれてる……?
「ユ、エンたい、ちょ……」
「黙ってろ」
抵抗らしい抵抗をする気力も湧き上がらず、雑な扱いに抗議の声も上げられない。
でもユエン隊長が私を運ぼうとしていることだけは分かる。
小さな優しさに温かみを感じつつ、私は視界に映るものを遮断するように目を閉じた。
*
どれぐらい運んでもらったのだろう。
目的の場所に到着したのか、ユエン隊長は立ち止まると私をゆっくり下ろした。
ずっと目を閉じていたから分からなかったけど、ここは……どこ?
「顔洗え。そんなみっともねぇツラ見せんなよ」
「えっ、と……」
さっきまでいた場所よりも少し高所なのか、周囲を見渡すと崖のようなものが見えた。
水の音は……目の前の湧き水が流れる音もあるけど、どこか近くに大きな川があるのかもしれない。そんな風に聞こえた。
「フー、将軍は……」
「合流が少し遅れるぐらい問題ねぇよ。さっさとしろ」
お、推しが優しい……優しすぎて別の涙が出てきた……
こんな状況じゃなければ抱きついて尻尾のモフモフを堪能しているところだけど、心がすり減った私は言われた通りのことをのろのろとした動きですることしかできなかった。
ふいっとそっぽを向いて腕組みをするユエン隊長に感謝しつつ、私は水をすくって顔を洗う。
冷たくて気持ちいい……透き通っているけど、口に入れても大丈夫かな? この気持ち悪さを少しでも解消させたいし。
「……ただの水……」
「当たり前だろ」
「こういうときって、『お水美味しい』って感じると思ったんですよ」
「……調子、戻ったか?」
口を濯ぎつつ、若干味見しながら私は小さく頷いた。
まだ心の整理はついていない。
百聞は一見にしかずなんてことわざがあるけど、本当にその通りだった。
戦いの凄惨さはストーリーで読んでいたはずなのに、いざその現場を見ると私が考えていたものとは全然違っていた。
これが現実。これは真実。
世界的に見ればこういう戦場はあると思うけど、私が住んでいた国では見ることのない光景。
「ありがとうございます、ユエン隊長」
この世界において、無知は罪だった。
本当の戦場を少しでも知っていれば、心のダメージは少なくて済んだのかもしれない。
「気にすんな」
うっ……ううっ! 推しが優しすぎる!! なんでこんな急に優しくしてくれるんですか!?
弱ってる女の子だからですか!? いつもうるさすぎますか!?
ユエン隊長の絶妙な心遣いに唇をぎゅって噛むことしかできない。
「おら、そろそろ行くぞ」
「はい」
出した声にはまだ元気が足りてなかった。でも、もうちょっと時間をおけば……きっと、大丈夫。頑張れる。
私は未来を変えるって決めたんだから……っ!
気合を入れて立ち上がり、ユエン隊長の後についていく。
舗装された足場じゃないから不安定でふらついたけど、その後姿を見失ったりしない。
「近道を通る。てめぇにゃ厳しいかもしれねぇが……」
「なるほど、これが不確定要素か」
凍えるような冷たい声が放たれ、私たちは背後を振り返った。
赤と黒を基調にした鎧は全身を包み、どこか威圧を感じさせる。
顔を守るためか表情を隠すためか、口元は防具で覆われている。面具や両頬と呼ばれるそれは、私がよく知るその国独特の装備品。
ただ目元から頭上にかけてはむき出しになっている。ゲーム故のデザインなんだろうなってSNSで誰かが言ってた。
だってとても美しいから。その黒髪が、整えられた眉が、長いまつ毛が。
感情のこもらない、漆黒の瞳が。
いるわけのない人物に、私は思わず大声を出す。
「狂皇子、ヨシツグ……!?」