七話
いい加減、家の中で空気が重いのはめんどくせーなと思っていたのだがお父さんが食事のあとで「美咲、ちょっと待ちなさい」私を呼び留めた。「何?」一応、要件だけ聞いてやる。お父さんがテーブルにインターネットとか本とかから印刷したらしき、紙の資料をたくさん並べる。
「ヴァンパイアについて少し調べた。座りなさい」
「……」
私はドアの近くに仁王立ちしたままでテーブルの上を見る。おまえはまだ私の信頼を損ねたままだぞ? 「わかった。そのままでいいから聞きなさい」お父さんが溜め息を吐いていう。お母さんがやれやれ、この子は。みたいな目で私を見る。
「美咲の言う通り、ヴァンパイアとなった前と後では性格的な変化はないことは調べてわかった。吸血の衝動も制度が整った現在では問題視するほどのものではなく、ごくふつうに人間に混じって生活を送っているヴァンパイアが多くいること。それから万が一噛まれた場合でも、すぐに傷口を洗うなどの処置を適切に施せば危険はないことがわかった」
「だからなに」
「この点については私が間違っていた。偏見があった。謝るよ、すまない」
「……」
「お父さん?」
黙っている私の代わりにお母さんが驚く。
「その子はどんな子だ」
「ビビりなんだ。急に一人になって不安がってる。イヤなことがあってもはっきりイヤだってなかなか言えないタイプ。悪いやつじゃない」
お父さんが頷いた。
「その、ほどほどにな」
急に悲しくなった。私はお父さんの胸の中に飛びついて、顔を押し付けて泣いた。
わかってほしかったんだ。勇樹が悪いやつじゃないって。私はおかしいことしてないって。みんなの方がおかしくて間違っていて私は正しいんだって。勇樹を孤独にさせてるのは無知と無理解なんだってわかってほしかったんだ。
「ちがうでしょ。お父さん、あの子のとこへ行くのはやめるように説得してくれるって言ったじゃないの」
お母さんが言う。
「ご近所にヴァンパイア扱いされちゃって私はどうすればいいのよ? そりゃあなたはお昼はずっと仕事だし、美咲は学校だからあんまり関係ないんでしょうけれど。顔合わせる度にひそひそされて遠ざけられて、私はどうすればいいの?」
興味本位な視線。匿名の人々による、実体のない遠回しな悪意。
大人だってそういうもので傷つくんだな。
「わたしだって母親である前に人間なのよ? 他の人のことは諦めるわよ。でもせめてあなたは私を守ってよ」
お父さんはしばらくの間、透明な視線でお母さんを見ていた。
「悪かったよ。きみの言う通りだ。私は君を守らなくちゃいけない。けれど一つだけはっきりさせておこう」
「なによ」
「それは美咲の責任じゃない。この子の友達と仲良くしたい、困っている友達を助けたいと思っている心は大事にしていかないといけないものだ。この子のこれからをきっと助けてくれるものだ。我々の都合で否定してしまってはいけない」
「そりゃそうかもしれないわよ。その男の子ってのは噛まれた側なんでしょ? 私だってかわいそうだと思うし、被害者だって思うわ。でもだからなんの責任もないってのは理想論でしょ。あなたの言ってる事は現実じゃないのよ。現実はひそひそ噂されて“あんたのところ大丈夫なの?”だとか“娘さんもうヴァンパイアになっちゃったの?ご主人は大丈夫?” だとか言われて玄関に生卵投げつけられて庭にゴミを放り捨てられる世界に私達は生きてるのよ。責任のないところに責任を発生させる社会にいるのよ。そうでしょ。違う?」
堰を切ったみたいにお母さんが一気に言った。お父さんが胸の中の私の背中をとんとんと叩いて「部屋に戻ってなさい」と囁いた。言われた通りにする。私はベッドに寝転がってしばらく目を閉じてたけど、お父さんとお母さんがリビングで話してるのがずっと聞こえてきて、落ち着かなくて眠れなかった。
お父さんとお母さんは夜通しで話をしていた。
翌朝、疲れた顔でお母さんがテーブルでぼーっとしていた。「おはよう」一応、声をかけてみる。「ああ、美咲。おはよう」機械的に動いたお母さんが食パンを二枚焼く。ジェムの大びんを冷蔵庫から取り出す。私は時計を見る。七時十二分、学校にいくまでにまだすこし、口喧嘩するくらいの余裕はある。おそるおそる、私は訊く。
「勇樹くんとこ、これからも行っていい?」
お母さんは目を伏せて、今度は見上げて、それから私を見て言った。
「あんたの好きになさい」
溜め息と一緒にお母さんが言う。全部納得づくってわけじゃないみたいだけれど、わかってくれた。思ってたより嬉しかった。
「どっちに似たのかしらね。あんた」
「お母さんじゃないの?」
「そうかしら。私、もっとおしとやかだったわよ」
「昔、お父さんが教えてくれたけど、お母さん気に入らない男の子の股間をキックして――」
「わーわー。なんてこと言ってるのよ、裕二さん」
パンが焼けたのでジャムを塗って二人で食べた。
「ご近所づきあい考えないとね」
お母さんが溢す。
……ん? 私はちょっと昨日のことを思い出す。“玄関に生卵投げつけられて庭にゴミを放り捨てられる世界に私達は生きてるのよ”、妙に具体的だな。まるで見てきたみたいだ。これもしかしてダウトじゃない?
「お母さん、昨日話してた“生卵ぶつけて庭にゴミー”って誰が言ってたの」
「丑田さんだけど。二つ隣の」
それが何? みたいにお母さんが言う。
ふむ。頭の中でぴこーんとランプが灯った。早回しで顔を洗って歯を磨いて制服に着替えてランドセルを背負って私は家を飛び出して勇樹くんのうちに寄る。ゴミ袋が放り込まれている。いいタイミングだ。「おばさん、監視カメラの映像見せて」、「え」、「誰か映ってるんでしょ。私、それ誰かわかるかも」半信半疑で私をリビングに通したおばさんが早送りにしたカメラの映像を見せてくれる。
深夜。真っ暗な中で道路を車がやってきて、止まる。暗いからナンバープレートまではわかんない。運転席のドアが開いて後部座席から45Lのぱんぱんに詰まったゴミ袋を三つ取り出す。影が蠢いて庭にゴミ袋を投げ込む。若干わかりづらいけど老け気味の中年女の顔がきちんと映っている。ビンゴ。やにで黄ばんだ歯までは見えないけど、間違いない。丑田さんだ。
「おばさん、私、この人知ってる。警察に証言できるよ」
おばさんが驚いて口元をおさえる。
「わかったわ。でも学校が終わってからにしましょう。遅刻しちゃう」
別にそんなのいいよ。と、私は思ったがここまで来たなら行きかけ駄賃だ。
「勇樹、連れてっていい?」
「行きたがらないと思うけど……」
リビングから勇樹の部屋の前に移動して、こんこんこんと部屋を叩く。
「勇樹ー。学校いこ」
数瞬、躊躇った感触があった。
それから勇樹くんがおずおずと扉を開けた。勇樹くんは制服に着替えていた。ランドセルも準備してあった。こいつ、学校いく準備はしてたんだ? でも一人で部屋から出る勇気が出なくて誰かが呼びにくるのを待ってたんだ。ははっ。根性なしめ。
「っしゃ。いくぜ」
勇樹くんを装備して私は無敵になった。