三話
翌朝に勇樹くんを学校に連行するために私はちょっと早く家を出た。
「ゆーうーきー、一緒にいこー」
おばさんに家にあげてもらった私は勇樹くんの部屋をノックする。制服に着替えた勇樹くんはおっかなびっくりに顔を出す。翼はうまく畳んであるけど背中がもこもこしてもりあがっている。一応おばさんはサイズの大きな服で誤魔化そうとしたみたい。その努力は成功しているとは言いづらい。
玄関を開けて表に出た勇樹くんは眩しそうに目を細める。そういえばヴァンパイアって日光ダメなんだっけ。「大丈夫?」一応聞いてやる。やさしいな、私。「うん。へいき。……じゃないかも」日のあたる場所を長時間歩くのは自信がないみたいで、おばさんに車で送ってもらうことになって私も乗せてもらう。わたしは歩かなくていいなんてらくちんだー、よっしゃーと思う。これから毎日おばさんの車に乗せてもらおう。勇樹、一人で通学できないままでいいぞ!
子供の多い通学路を十キロとかニ十キロとかとろとろしたペースで走る。
「そういえばあんたを噛んだやつって捕まったりしたの?」
勇樹は首を横に振った。
「顔とか覚えてないわけ」
「わからない。ヴァンパイアって噛んだ相手のことわからなくさせることができるみたい。たぶん男の人だったと思うんだけど」
「ふうん」
学校の前に着いて、おばさんが車を止めて勇樹くんと私を降ろす。「美咲ちゃん、勇樹のことお願いね」お願いされる意味はちょっとわかんないけど私はこう答えておく。「がってんでい!」おばさんは微笑んで車のドアを閉める。車はそのまま駐車場に向かう。
私と勇樹くんは下駄箱で靴を履き替えて教室へ入る。
「美咲ちゃん、勇樹くん、おはよう」
「扇ちゃん、おはよう」
勇樹くんは口を開きかけて、閉じる。扇ちゃんはちょっと首を傾げて見せる。背中のもこもこに気づいて「これなに?」。男子が何人か勇樹くんに「おはよう」と言って、“おまえもおはようって言えよ”という同調圧力に負けた勇樹くんがなるべく小さくクチを開けて「おはよう」と返す。クチの中の牙を見られないようにしよう、という勇樹くんの努力は身を結ばなかった。「おい、勇樹なんか歯、変じゃね?」阪田くんが言い、勇樹くんは思わずクチを手で抑える。でもお年頃の男子にとってその仕草は逆効果だ。勇樹くんは手を掴まれて「おいこら、勇樹。クチ開けよ」と詰め寄られる。いやいやと首を振るけど阪田くんと集まってきたその他数名の男子は許してくれない。勇樹くんが“助けて”って視線で私を見る。しょーがないやつめ。
「えい」
私は阪田くんを後ろからキックした。
「なにすんだよ。ブス」
「嫌がってんでしょうが。やめなさい。ってかおまえいまブスって言ったな? ブスって言ったな???」
私は阪田くんの左足に自分の左足を絡ませて肩越しに両手で輪を作るようにして首を抱き込んだ。阪田くんの腕を背中側に通すみたいにして、そのまま手で作ったわっかで阪田くんの片首を締め上げる。コブラツイスト。「いでででででで」、「謝罪」、「悪かった! 美咲さんまじ美人! 超かわいい!」ふん。仕方ない。許してやろう。
そのうちチャイムが鳴って先生がやってきて勇樹くんを取り囲んでいた男子が自分たちの席へと散っていく。クラス委員の扇ちゃんが「起立、礼」と言い私たちは形だけ吉武先生に頭を下げる。「着席」座る。
吉武先生はくいっと眼鏡を動かして適切な位置に直して、ファンデーションを塗りたくった白い顔で「勇樹くん、こっちへ」と呼んでスーツから伸びた手で勇樹くんを手招いた。勇樹くんはとぼとぼと歩いて教壇の隣に立つ。
「勇樹くんはヴァンパイアになりました」
吉武先生は簡潔に言う。
「ですがこれまでとなにも変わりません」
北島くんが手をあげた。
「せんせー。ヴァンパイアってうつるんでしょ? 勇樹がいて俺達、大丈夫なの?」
「大丈夫です。噛まれなければうつりません」
「じゃあ勇樹怒らせたらダメだねー。噛まれてヴァンパイアにされちゃう」
くすくす笑いと小さな怯えがさざなみみたいに起こった。勇樹が顔を赤くして俯く。ああ。こいつら、勇樹くんが怒って誰かに噛みついてヴァンパイアにすることなんて絶対ありえないから言ってるんだ。鎖でつながれた動物を安全な距離から棒でつついて遊んでる。ムカついたから私は自分の机を膝で蹴った。ばこん。さざなみが収まる。
「まだ正式に決まってはいませんが、勇樹くんは特別支援学級に移ることになるかもしれません。でもなにもかわらずに勇樹くんは大切なクラスの一員です。なかよくするように」
なかよくするように。
それって強制されないと勇樹くんとは仲良くできないみたいで、なんか不自然だった。「はぁい」なんて猫撫で声で返事をするみんなも不自然で嫌だった。でも私はそこに感じる怒りをうまく言葉や行動に表せない。勇樹くんの赤い顔にだけ目がいく。おまえもなんか言えよ。
勇樹くんは席に返されて、授業が始まる。勇樹くんが緊張で身体をきゅっと硬くしているのを私は後ろの席から見る。背中の羽がもぞもぞしている。そんな勇樹くんを見て薄ら笑いを浮かべてどうからかってやろうかとおもしろがっている男子たちを見る。ふぁっく。私が思ってるより人間の集団ってずっとくそなのかもしんない。閉じ籠っていたかった勇樹くんを部屋から引っ張り出して学校まで連れてきた私は責任を感じる。
放課後になって男子たちが勇樹くんを取り囲む。
「なんかヴァンパイアにしかできないことやってくれよ」
へらへらへらへら。実際には声に出してないはずの嘲笑が音になって聞こえてくる。がたりと立ち上がった私を「なんだよ。美咲、おまえ勇樹のこと好きなのかよ」囃し立てる。そうだよ、好きだよ。だって勇樹はおまえらと違って無意味に人を傷つけたりしない。でもそれを素直に表すには私は幼すぎて、怒鳴ろうと思ったのに声が出てこない。女子が「男子さいてー。美咲に謝りなよ」って言ってくれるけどそれは別に勇樹くんを守ってくれない。むしろ女子達が勇樹くんを見る視線は男子たちと等しい。きしょい。
「そうだ。翼見せろよ。ヴァンパイアって翼あるんだろ」
アホの阪田が勇樹くんの制服に手を掛ける。
「ぬーげぬーげ」
取り囲んで手を叩いてコール。勇樹くんが男子なのをいいことにそんなことやっていいと思ってる。「あ、ダメ。やめて。あ、あ」ばさぁっ。勇樹くんの背中から制服を突き破って蝙蝠のそれに似た大きな羽が拡がった。黒っぽい皮膚に覆われた硬い骨の通っていて毛細血管の透ける皮膜のある、子供二人分くらいの大きさの翼。阪田が驚いてしりもちをつく。囃し立ててた男子たちがその生々しさに固まる。女子達が「ひっ」と言う。泣き出す子さえいる。勇樹くんは自分を抱くようにして蹲る。「きも」誰かが呟いた。その言葉はナイフみたいに勇樹くんを貫いた。勇樹くんは窓に向かって駆けた。掃除当番が黒板消しを叩くために開けていた窓から、跳んだ。
勇樹くんは翼を大きく広げて空中を滑空する。校庭でバカ面晒して何人かの生徒が勇樹くんを見上げてるのが見えた。勇樹くんは二、三度羽ばたくと高度をあげて住宅街の方へ向かっていく。そのうち高度を下げて建物の影に消える。その姿はもう勇樹くんが私達とは違う生き物なのだとクラスのアホとバカとマヌケ共に知らしめるには十分だった。アホとバカとマヌケがぽかんと口をあけて絶句している。「バカぁ!」私は叫んで、自分のと勇樹くんのランドセルを掴んで教室を飛び出した。家まで行ってやらないといけない。少なくとも私はあのバカ共と違うことを示してあげないといけない。私は走りだしたけど小学二年生の私の体力は勇樹くんの家まで続かない。途中何度か歩いて走ってを繰り返して車にはねられそうになりながら、どうにか私は勇樹くんの家までたどり着く。インターホンを鳴らして、出てきたおばさんがなにか言う前に家の中に駆け込む。勇樹の部屋を叩く。
「入るよ」
扉を開けて布団被って不貞寝している勇樹くんのベッドに腰かける。「ごめん」、「……」亀になってる勇樹くんから言葉は帰ってこない。
あんなにバカだと思ってなかったんだ。私の周りの人間は女王の私の家来だけあってそこそこ素敵でいいやつが集まってると思ってたんだ。そんなことなかった。どこにでもいるありふれた馬鹿どもしかいなかった。私はなにか言おうとしたけど、いまからどんなに言葉を連ねても勇樹くんの心傷は治ったりしない。ましにもならない。私はとりあえずここにいることしかできない。ここにいて私だけは勇樹くんの味方なんだって教えてやることしかできない。私だけが勇樹くんの味方。その言葉はなんか蠱惑的な響きを持って私の内側に響く。
「ゲームやろ」
私は言う。
いつもどおりに振る舞うこと。
それが一番ましなことに思えたから。
布団の隙間から勇樹くんのスマホを押し付ける。押し返すみたいにしてたけど勇樹くんは根性なしだからそのうち諦めて受け取る。私と勇樹くんは一緒にモンスターをハントする。そのうちインターホンが鳴っておばさんがパタパタかけていく。私たちはしばらくの間なにも気にせずにモンスターをハントし続けていたけれど勇樹くんが「お母さん戻ってこないね?」と言う。気になって部屋から首だして玄関を覗くとおばさんは大柄な男二人となにか話し込んでいる。迷惑そうに「ですからうちはそういうのはまだ考えていないので」と言う。男の方は「一度面会させてください。少しで構いません。彼はいま孤独なはずです。逃げ場があるのだということを教えてあげなければなりません」よくわかんないことを言っている。二人ともスーツを着ていてマスクをして帽子を被っている、手袋までしている。いま春先だぞ。変なやつ。
「お母さん?」
勇樹くんが声をかけてしまう。おばさんは強張った顔で「部屋に戻ってなさい」と言う。「ああ、この子が」男が両手を合わせる。それからマスクを取る。男の顔には牙がある。勇樹くんと同じように犬歯が尖っている。「ひっ」勇樹くんが怯える。
男はさほど力をこめずにおばさんを簡単に押し退けて勇樹くんの前で膝をついて視線をあわせる。それから名刺を取り出す。「おじさんはね。ヴァンパイアの協会の人なんだ。我々はとっても数が少ないから、力をあわせないとこの世界ではうまくやれない。なにか困ったことがあればそこに書いてある電話番号に連絡してくるんだよ。きっときみを助けてあげられるから」丁寧な口調で優しい声音で言う。でも私の目にはこいつはなんとなく勇樹くんに取り入ろうとしている信用できないやつに映った。それは多分おばさんをちゃんと説得せずに押し退けたからだ。私は勇樹くんの手を握ってぐっと引き寄せる。おじさんが一瞬私を睨んだ。……ように見えただけかもしれない。すぐに目つきは元に戻った。おじさんの手は勇樹くんの頭を優しく撫でた。
「困ったことがあればそこに電話を掛けるんだよ。いいね?」
勇樹くんが小さく頷いたのを見て、おじさんは玄関を出ていく。出ていくときに「無作法な真似をしてすみませんでした」とおばさんに頭を下げる。