十話
音楽の時間にリコーダーに口をつけたらなんかざらっとしていた。べっ、と舌を出して指で拭ってみたら砂だった。リコーダーを入れていた袋をひっくり返してみたらざざざーっと砂が落ちてきた。おいおい、重みで気づけよ、私。
音楽の仁科先生が唖然としている。「口、濯いできます」と言って私は音楽室を出た。どうも件の嫌がらせのようだ。うーん。ほっとこうかなぁと思わなくもなかったんだが、こういう手段に出てくるならそういうわけにもいかないか。
放課後に私は扇ちゃんを呼び止めた。「トイレいこーぜ」扇ちゃんと一緒に連れしょんに向かう。んでトイレで前の子が出てって他に誰もいなくなったのを確認してから「あのさぁ、こんなことしても勇樹くんはあんたのこと好きにならんよ?」と言った。「え?」、「だからさぁ。私に嫌がらせしても私はむしろ“こんなことあったの。こわいよぉ、勇樹ぃ助けてー”ってますます仲良くする口実にできるだけだよ」私はシナを作る。うわ、世界一似合わねえ。
「なに言ってんの?」
「背中にくそビッチって張り付けたの扇ちゃんでしょ?」
扇ちゃんが眼鏡に触れる。
その奥の目つきがきゅっと鋭くなる。
「なんでそう思ったの?」
「よくよく考えたら扇ちゃんあの日、私に抱き着いて背中触ったじゃん? あのときもし扇ちゃんがやったんじゃないなら、私たちの関係的に紙に気づいて剥がしてくれてたはずよね? あれ、帰り際のことであのあと私、安藤以外と会ってないし。で、剥がしてくんなかったってことは、貼ったのそんときなのかなって。少なくとも気づいても剥がさない程度にそっち側なんじゃないかなーって」
「なるほど」
「あってる?」
「はて。なんのことやら。わかんないな」
しらを切る。面の皮の厚い女だ。
「ま、そういうわけだから、もう一回やったらさすがに怒るよ?」
「いま怒らないわけ」
「だって私ら、友達じゃん。証拠不十分で不起訴にしといてやんよ」
だいたい私はこういう性格だから、私の方がやらかしていることが圧倒的に多いのだ。結構頻繁にぶちぎれてるし。だから友達にくらいちょっと大目に見れるようになっとかないと日常がバイオレンスになってしまう。
それに勇樹くんを手にしている私は圧倒的勝者で扇ちゃんは圧倒的敗北者だ。
勝者の私には余裕がある。憐れみをくれてやれるくらいのな!!
「勇樹くんもなんでこんなのと」
扇ちゃんがぼやく。
「キャッチーでエネルギッシュな女の子がいまのトレンドなのだよ。眼鏡の委員長なんて時代遅れも甚だしいね!」
私は適当なことを言う。
「つーかそもそも扇ちゃんって私のこと嫌いなわけ?」
「わりとガチで」
まじか。
「がさつでいい加減で好き勝手なことやって全体の雰囲気乱してなのにそれが許されるの、イライラする」
眼鏡の奥の目がどろりと濁った。
「吐き気がするのよ、そのキャラ」
扇ちゃんのお父さんは警察官でお母さんは弁護士で両方ともしっかりした人で扇ちゃんにもしっかりすることを望んでいる。扇ちゃんは帰ったらピアノのレッスンで厳しい先生が付きっ切りらしい。一年生のとき音楽のときにちょっと弾いて見せてくれたけれど、二年生になってから「弾いてよー」って頼んでみたら「レッスン以外で弾きたくない」って言っていた。「ピアノ、嫌いになったから」だそう。勉強も満点以外許されない。ふうん。
まあ扇ちゃんにもいろいろあるのだ。
「そんなに羨ましいならやってみりゃいいのに」
「羨ましい?」
「え、ちがうの」
なんか妬み嫉み全開な気がしたからそうだと思ったんだけど。
「ピアノなんか放り出して勇樹のとこ遊びにいけばいいよ。テスト用紙に落書き書きなぐっちゃえよ」
「そんなの、ダメよ」
「なんで?」
「だって、だって」
「パパとママが怒るから?」
「……」
扇ちゃんは目を閉じて首を振った。
「ピアノ、一日やらないと取り戻すのに三日かかっちゃうから」
あ、これツンデレってやつだと私はようやく気付いた。
扇ちゃんの「ピアノ嫌いになった」はほんとは好きなのだ。でもしんどいときはあるというだけで。で、たぶん扇ちゃんの「おまえのことが嫌い」は多分好きなのだ。しんどいときはあるだけなのだ。なんだ、真正面から嫌いと言われてちょっとビビッてたのだが、ただの私の知ってる扇ちゃんじゃないか。うりうり、かわいいやつめ。
「なに笑ってるの」
「なんでもねー。んじゃ、そういうわけだから」
私はトイレを出た。
これでも続くようなら次は出る杭をへし折りにいこう。よし、安藤にでも会いに行ってやるかー、とランドセルをとって特別支援学級を目指す。“犯人は女子じゃないかな”と安藤がヒントをくれなきゃ私は阪田やその他もろもろの男子を疑い続けて扇ちゃん犯人説に気づきもしなかっただろうからお礼くらい言ってやろう。
がらっと特別支援学級に使われている教室の扉を開ける。けれど、そこには山本先生しかいなかった。「安藤は?」私が訊く。「ああ、飯島さんこんにちは。安藤くんはもう帰りましたよ」ふうん、そっか。残念。
んーと。それじゃあ。不意に、ぴこーん、と頭の中でランプ。私はスマホを取り出す。おっさんにイタ電をかけてからポケットにしまう。
「山本先生、月曜日って何してた?」
「月曜日? いつもと変わらなかったと思うけど」
「それは今週?」
「そう」
「そうじゃなくて勇樹くんが噛まれた日」
「ああ、それなら安藤くんのお母さんと面談をしてたよ。なにを話したっけなぁ」
山本先生は薄い顎の髭に触れて親指でざりざり撫でる。
そうか。うん、それだ。
ダウト。
「ねえ、山本先生」
「なんだい?」
「それっていつのこと」
「……」
山本先生の表情が急激に曇った。
「勇樹が噛まれた月曜日がいつなのかなんで山本先生が知ってるの?」
おまえ、相手が子供だと思って油断したな? 思い返してみたらそうだ。こいつ、職員室の前で私が勇樹と話しているときに勇樹くんの顔を見ただけで「ああ、勇樹くん」と呼んでいた。面識がないはずなのに。写真かなんかで顔見たのかもしれないけど「勇樹くんかな?」とかじゃなくて一撃で断定してた。そりゃ自分が噛んだ相手の顔くらい覚えてるだろう。でも勇樹くんの方は噛まれたときの記憶が混濁して相手がわかんなかったから“なんでこの人は自分のことを知ってるんだろう?”って首捻ってたんだ。
それから吉武先生の証言。
「あのね、わたし、学年主任の湊先生と教頭先生にしか相談してなかったのよ。——で、湊先生と教頭先生に山本先生に勇樹くんのこと話通してくださってたんですね? って聞いたんだけど、二人ともそんなことしてないって。“ヴァンパイアになっちゃった子がいる”って学校の中で噂になって広まってたけど、ほら、特別支援学級って他の教室と離れててぽつんとしてるじゃない? 噂ってあんまり届かない場所だと思うの。でも山本先生、“勇樹くんはきっとここでもうまくやれる”って言ったの。“勇樹くん”の名前まできっちり知ってたのよね。あれ、どうしてなんだろうと思っちゃって」
安藤も「勇樹くん」の名前まではっきりとは知らなかった。まああいつはぼっちだからそういうものかもしれないけれど、生徒の間では「ヴァンパイア」までは広まっていても「勇樹くん」の名前までは広まっていなかったのだ。
というかそもそも、あのとき吉武先生が特別支援学級に連れて行ったのは私なのだから、話が通っていないなら安藤と同じように「きみが噂のヴァンパイアかい?」と誤解する方が自然なんだ。
でも山本先生は私がヴァンパイアだとはしょっぱなから誤解していなかった。
なぜか。
噛んだ生徒が他の子だと前から知ってたからだ。
「……」
山本先生はしばらく黙って目を閉じてなにかを考えていた。私は慎重に後退る。教室のドアの溝に踵があたる。山本先生が目を開けた。「殺すか」ぽつりと呟く。初老の優しそうな男の先生の姿はどこにもない。牙を剥き出しにした残忍なヴァンパイアの顔が表に現れる。私は身を翻して教室を飛び出した。走りながらポケットからスマホを取り出す。「おい、犀川。聞こえてたな。山本一義! 小学校の養護教諭だ! 動機はわかんない。でもそいつが勇樹を噛んだやつだ! おまえが憎んでる“犯罪を起こす一%のヴァンパイア”だ!」わかったらさっさと助けにこい! と内心で叫んだけれど、返事はない。スマホを見ると通話が切れている。私は舌打ちする。役に立たねーな、犀川のやつ! 直線の廊下を走りながら、普段と雰囲気がまるで違うことに気づく。私が焦ってるから?……じゃない。人の気配がしない。いつもは話し声の反響音みたいなのが放課後でも漂ってるのに、いまはそれがない。空気が冷たい。まるで異世界に隔離されたみたい。
「ああもう。これだから厭なんだ」
走りながら首だけで振り返ると、山本先生が白くなってきている髪をがりがりと引っ掻きながら歩いてくる。なんかやばい。なにがやばいって走ってるはずなのに、なぜか距離が広がってない。てかこの廊下、すぐ終わるはずなのに全然先が見えない。意味がわからない。なんだここは。私は手近な教室に飛び込もうとするけれどカギが閉まっている。窓ガラスに拳を叩きつけたが、割れない。いたい。
「せっかく見つからないように慎重にやってたのに。隣県やら田舎やらに適当に場所散らして、空腹が最高のスパイスだっていい聞かせて、なんとか少ない回数で我慢してご馳走にありついてきたのに。ここでだけ被害がないのは逆に怪しいだろうと思って一件くらいこっちでも吸っていいかと思ったらまさかあたっちまうなんて」
「あたる?」
「干からびて死ぬはずだったんだよ。あのガキは」
そうか。勇樹くんはヴァンパイアになっちゃったんじゃなくて、むしろ死ぬはずだったのがヴァンパイアになったことで助かったのか。ううん、複雑な気分。
いくつかの教室の扉を全部がたがた揺らしたけれどどれも開かない。
そのうち私は走りつかれてぺたんと座り込んだ。
スマホを取り出して犀川への通話ボタンを連打する。でも繋がらない。なんらかの力で電波が遮断されている。ゆっくり近づいてきた山本先生を力なく見上げる。牙。背中に広がる大きな翼。優しそうだった顔は面影すらない。口の中にはよだれがいっぱいで食欲を全開にして私を見下ろしている。
がらり。
横の教室のドアが開いた。「あれ。美咲ちゃん? どうしたの」吉武先生がなにげない声で言った。え。なんで。さっきまで全然開かなかったのに。吉武先生が山本先生の変貌した姿を見て、一瞬フリーズする。それからすぐに私を抱き寄せる。護るように。包むように。左手を背中に回して少し屈んで私の身体を抱きしめる。
吉武先生の胸元には十字架のペンダントがある。十字架っていえばヴァンパイアの弱点の一つで、それがたまたまヘンテコ空間の力を一部分だけぶち破ったのかもしれない。でもそんなのなんの役にも立たないだろう。エサが増えた。そんな喜悦に塗れた醜い顔で山本先生が吉武先生を見る。
山本先生が手を伸ばした。ばん。頭の近くで軽い音がした。でも私の耳は吉武先生の胸と手で包まれていて具体的にそれがなんなのかはわからなかった。ばん、ばんばん、ばん。続けざまに四発。何度も聞くと正体がわかってくる。テレビの中でならその音を聞いたことがあった。銃声だ。
「……もう大丈夫よ」
吉武先生が言った。私はおそるおそる、先生の胸から顔を離した。右手には拳銃が握られている。サイズはかなり小さくて威力は低そうだけれど至近距離から放てばそれでも十分な破壊力があるだろう。まだ小さく煙を吹き上げていた。火薬のにおいがツンと鼻をつく。
山本先生は床の上に倒れていた。体に穴が開いていてそこから血があふれ出している。
「……」
私が恐怖とか怯懦とかでなにも言えずにいると吉武先生が「あ、これね。勇樹くんがヴァンパイアになったのがわかったときに校長から、銀の弾丸と一緒に渡されたのよ。ヴァンパイアの受け持ちになる教員には万一のときに、止める義務があるんですって」と言った。
「使うことになるとは思ってなかったけどね」
よく見ると吉武先生も手がぶるぶる震えている。
私たちは抱き合って額を突き合わせるようにしてお互いの震えを鎮めようとした。
「……いてえじゃねえか」
山本が身を捩って、上半身を起こした。吉武先生が銃を向ける。撃つ。山本の身体が跳ねた。空薬莢が転がった。起こした変化はそれだけだった。山本がだらだら血を流しながら立ち上がる。かちん、かちん。吉武先生が引き金を引くが乾いた音が響くだけ。弾切れ。
「成人のヴァンパイアを撃つには経口が小さいんだよ、それ」
近寄ってくる。「逃げなさい」吉武先生が私を突き飛ばした。ポケットから新しいマガジンを取り出して銃に突っ込もうとするけれど別段銃の取り扱いに慣れていない吉武先生の動作は鈍い。山本に簡単に腕を掴まれてしまう。山本の爪が吉武先生の腕に食い込む。「あぐっ」吉武先生が痛みに喘ぐ。山本の逆の手が吉武先生の胸元に伸びて十字架を剥ぎ取り、捨てる。牙を白い首筋に近づけていく。
やらかした。私が調子こいたから。犯人捜しなんて蜂の巣をつつくような真似をしたから。
「やめてええええ」
私は叫んだ。山本に体当たりした。けれど小学二年生の私の小さな体では大人のヴァンパイアを押し退けることはできなかった。岩にでもあたったような感触だった。牙が吉武先生の首に触れた。
——それとほとんど同時にガラス吹雪が舞い込んできた。
窓枠に足を掛けたそれがライダーキックみたいな勢いで飛び込んできて山本の頭を蹴りつけた。壁と靴底との間で山本の頭が形を歪める。大きな手が吉武先生の持ってるちゃちな銃とは違う、大口径の弾丸を撃ち出す大型拳銃を握り、山本の頭に向ける。「ま、まてっ。おまえ同族だろ!? だったら俺の気持ちがわかるはずだ! 輸血パックなんてくそまずいもの食わされて押し込められる窮屈さがっ。俺達にだって美味いもの食う権利くらいあるはず――」銃を握るその人の目には煮えたぎるような憎悪があった。個人の利己的な欲求のためにこれまでにいろんな理不尽を飲み込んでどうにかこうにか育ててきた薄氷なような信用が踏み割られてしまう。砂の城が崩されてしまう。憎しみを持ってその人は引き金を引いた。ずどん。重い音がした。銀の弾頭を用いた44口径マグナム弾に頭を吹っ飛ばされて、脳みそをぶちまけた山本が死んだ。
その人が力の抜けた死体を注意深く観察して、もう本当に動かないことを確認してから銃を仕舞う。私を見る。
「子供が危ない真似をするんじゃない。もしも間に合わなかったらどうなっていたことか」
犀川のおっさんが疲れた声で、私を叱った。




