そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)4.4 < chapter.2 >
俺とフツヌシが訪れたのは千葉サーファーの聖地、一宮である。正式な地名は千葉県長生郡一宮町で、九十九里浜の最南端に位置する。
この土地の起源を語るには、はるか神代にまでさかのぼらねばならない。かつて神武天皇の母・玉依姫が、玉の浦、現在の釣ケ崎海岸に流れ着いた。この辺りには縄文・弥生の時代から人家があり、しっかりとした『邑』と『国』が形成されていた。土地の人々は玉依姫を丁重にもてなし、彼女のための宮を築いた。そのことから、この地には上総国一ノ宮・玉前神社が置かれている。周辺に『玉』『宮』にちなんだ地名・名称が多いのも、すべて玉依姫と玉前神社に由来する。
他所の土地で活動するには、まずはその土地の神に話を通さねばならない。俺とフツヌシは玉依姫に挨拶するべく、玉前神社へと向かったのだが――。
「ダメだよタケぽん。ここも初詣の人が多すぎて……」
「ああ……さすがは姫。大人気だな……」
現在午前一時三十分。カウントダウンからの「ハッピーニューイヤー!」コール、それから「じゃあ初詣でも……」という流れで境内がごった返す、二度目のラッシュアワーだ。前日から列に並ぶ真面目な崇敬者たちと異なり、この時間の参拝者は誰もかれも、程よく出来上がっている。人の群れ全体がほんのり酒臭く、足元がおぼつかないのが特徴である。
おそらく玉依姫も、酔っ払いが問題行動を起こさないよう、必死に穢れ祓いを行っているところだろう。
「う~む……ここまで賑わっていると、目通りは無理そうだな……?」
「新年の挨拶くらい、直に言いたいんだけどねぇ」
「まあ、仕方なかろう。念話で呼びかけてみよう」
俺とフツヌシは、心の声で玉依姫に呼びかけた。
「た~ま~よちゃん! あけおめ~!」
「ハッピーニューイヤー! 姫、少し出て来られるか?」
昔馴染みの柔らかすぎる挨拶に、玉依姫も気取らぬ返事を寄こす。
(タケぽんフッ君あけおめことよろ~っ! 新年早々悪いけど、ちょっと助けて! 赤鳥居の横にいる酔っ払いが変な邪気出してんの! 穢れ祓いが追い付かない勢いなんだけど、その人、もしかして堕ちかけてない!?)
「なに? ……ああ、あいつか!」
「うっわ~、何あれ真っ黒!」
六十代半ばだろうか。薄汚れたジャンパーを着こんだ男で、連れがいる様子はない。今にも暴れ出しそうな殺気を放ち、幸せそうな参拝者たちを睨みつけている。
男の足元からは真っ黒な霧が噴き出していた。これは『穢れ』と呼ばれる負の力である。人間が心身を病んだ時、本人の意思とは無関係に、ほぼ強制的に発生する。
負の力を限界以上に溜め込んだ人間は、暴力行為や他者への誹謗中傷、周囲を道連れにする迷惑極まりない自傷・自殺・自爆テロに走る。
さらに厄介なことに、『穢れ』は周囲に伝染する。この黒い霧を吸い込むと、心身共に健康な人間でも、突発的な破壊衝動に呑まれてしまうのだ。今は玉依姫の力で浄化できているが、今日は元日。この男以外にも大小さまざまな穢れが持ち込まれているため、玉依姫の浄化能力は限界寸前だ。早急に対処せねば、他の参拝者にまで『穢れ』が伝染してしまう。
「うぅ~む……ほどほどに穢れ祓いをしたくとも、ここには俺の憑代になれそうな人間はいないし……」
基本的に、神が力を行使するには『器』か『憑代』が必要になる。一人でも力は使えるが、対人間用に威力を抑えることが難しいのだ。俺は日本という国を丸ごと守護する軍神であるため、その他の神々よりも破壊力が高い。自分用に調整した『器』か、氏子から選抜した『憑代』を使わねば、穢れを祓うどころか、この人間の体を爆発四散させかねない。
そしてそれは俺と同格の神、フツヌシも同様である。
「どうするフッ君。俺たちが直に力を使えば……」
「だよね? う~ん、参ったなぁ。ねえ、たまよちゃん! この人、たまよちゃんトコの氏子さん?」
(ええ、正月以外来てくれないけど、一応ね)
「家族は?」
(いないわ。東日本大震災で奥さんが亡くなって、それ以来ずっと一人。去年の台風で家が半壊しちゃって、今はビニールシートとガムテープで補修しながら暮らしているのよ)
「あー……家族の身体を使わせてもらおうと思ったのになぁ……」
「仲の良い近隣住民は?」
(ん~……町会の会合にも顔を出さないくらいだから……)
「そっかぁ~……」
孤独に耐えて細々と暮らしているところに、去年の台風直撃二連続だ。思い出の詰まった家が破壊され、ついに心が折れてしまったのだろう。
俺たちは『神の眼』であたり一帯を見渡し、自分たちの『憑代』として使えそうな人間を探した。すると、一宮海岸に都合の良い二人組がいた。
茨城県鹿嶋市在住の二十代の男と、千葉県香取市在住の女だ。
冬用の分厚いライダーススーツに身を包んだ二人は、違法改造ではない、まともなバイクに乗った善良なライダーだった。男のマシンがKawasaki W800。二〇一九年十二月発売の、ピカピカの新車である。女のほうは同じくKawasaki車ではあるが、なんとマッハⅢシリーズの750H2。昨今ではなかなかお目にかかれない、一九七〇年代の名車である。さすがにすべて純正部品とはいかないが、可能な限りオリジナルに近いパーツで状態を維持している。前オーナーへのリスペクトと、旧車への敬愛を感じるチューンである。
恋人同士らしい二人は、バイクを止めて、海を見ようとしているところだった。
「フッ君いたぞ! あの二人だ!」
俺とフツヌシは二人の元に急行しつつ、心に直接呼びかけた。通常、『神の声』を聴きとれるのは特別な修行を積んだ神職・僧侶・聖職者・霊能力者のみである。だが、神のほうから呼びかけるのならば話は別だ。
「高浜修平よ、聞こえておるな? 我は鹿島の神、タケミカヅチだ。其方の心に直接呼びかけておる」
「加藤さん、加藤紗耶香さん? 聞こえますか? 心に直接呼びかけています。僕は香取神宮の祭神、フツヌシです。聞こえていますよね?」
二人は俺たちの声を聴き、驚いたように周囲を見回している。
「高浜修平よ。すまぬがしばしの間、其方の身体を借り受けたいのだが……」
「加藤紗耶香さん。去年も一昨年もその前も、いつもお参りしてくれてありがとう。ちょっと君の身体を貸してもらえるかな?」
二人は驚きながらも、咄嗟に手を繋いで身を寄せ合っている。不安におびえる顔ではない。互いを守ろうとする、勇ましい顔つきだ。
怪奇現象に直面して即座にこの反応を見せるのだから、二人の愛は本物であろう。
「詳しい説明は追ってする。悪いようにはしない、信じてくれ」
「せっかくの年越しツーリングを邪魔しちゃってごめんね。埋め合わせは絶対にする。信じて?」
二人は困惑した様子だったが、しばらくすると、二人で頷き合った。
「ヤな感じ、しないよね?」
「うん。なんか、神社にお参りしたときみたいな空気感……」
「私、この声知ってる気がするんだけど……」
「俺も。なんか、ガキの頃からず~っと知ってるような……?」
「もしかして、本当に香取様?」
「鹿島様……なんですか?」
高浜修平の質問に、俺は神にしか答えられない事柄を述べる。
「一九九五年三月二〇日。我と其方が、初めて顔を合わせた日だ。其方を連れていたのは母親の高浜美里、旧姓・鈴村美里。『お宮参り』に両親が揃ってこられなかったのは、其方の父が警察官だったからだな。あの日、東京で地下鉄サリン事件が発生した。それがテロ事件であると判明した時点で、日本全国の警察署は警戒体制に移行。其方の父は急な呼び出しを受けて職場に向かった。やむを得ず、其方の母は一人で其方を連れて参った。泣きながら必死に赤子をあやす姿は、今もよく覚えておる」
せっかくの晴れの日を台無しにされた悔しさと、夫の身を案じる気持ちと、生後間もない赤ん坊を連れた外出への不安。すべてがいっぺんに溢れ出して、修平の母はずっと泣き通しだった。産後特有の軽度の鬱状態もあったのだろう。事情を聞いた鹿島神宮の神職らが必死に励ましても、彼女の涙が止まることは無かった。
「七五三の時のことも覚えておるぞ。其方は御手洗池を覗き込むように身を屈めて、そのままボチャンと転げ落ちてしまったな。御手洗池に晴れ着のまま飛び込む奴は、そうはおらんからな。嫌でも記憶に残っておるわ」
「アンタ、そんな小さいころから水に飛び込む癖があったワケ? NINJAとカブと自転車以外にも、何か水没させてない……?」
加藤紗耶香の言葉には、恐ろしく大量かつ高濃度の『言霊』が籠っていた。うちの氏子とはいえ、俺は神社の外での出来事はいちいち把握していない。高浜修平よ、お前は一体、カノジョの前で何回水に落ちたのだ――?
「いや、あの、えーと……うわ、マジで? 本当に鹿島様なんだ? なんで急にカミサマの声なんて聞こえちゃってんの……?」
「すまないが、今は説明している時間が無い。氏子の身体を無理矢理乗っ取るのは我が流儀に反する故、そちらから許可を出してもらいたいのだが?」
「あ、は、はい。あの、なんか分かりませんが、どうぞ……?」
「ありがとう」
俺は高浜修平の身体を憑代とし、『人の世』に降臨する。
この状態であれば、周囲に大きな影響を及ぼすことなく、安全に人間の穢れを祓うことができる。
「加藤紗耶香、其方もフツヌシを受け入れてくれるか?」
「あ、声と目の色が違う……。本当に修平じゃなくて、鹿島様?」
「ああ、鹿島の神、タケミカヅチだ。其方も、フツヌシに許可を出してやってはくれぬか?」
「ええと……はい。香取様には、先祖代々お世話になってますし……どうぞ」
「ありがと、紗耶香ちゃん!」
と、非常に軽いノリで加藤紗耶香に憑依するフツヌシ。間違いなく『とてもすごいカミサマ』なのだが、このノリのせいで軽く見られがちである。
俺たちは二人のバイクに跨り、玉前神社へと急ぐ。
「姫、あと何分耐えられる?」
(せいぜい三分! それ以上はこっちの浄化能力が負けそうよ!)
「分かった! すぐに処置させてもらおう!」
一宮海岸から玉前神社まで、歩いて行っても十分少々。バイクなら二分以内に到着できる。
神社周辺には初詣のための交通規制が敷かれているが、俺たちにはカーナビよりも正確な『神の眼』がある。車と人を縫うように走り、神社の裏手にバイクを停め、そこから先は自分の足で駆け戻る。
参道側の赤鳥居に到着すると、先ほどの男は意識を失い、倒れていた。己が放出した『穢れ』の重さに、精神が耐えきれなかったようだ。
男の周りには参拝者と町会関係者が集まって来ていたが、まだ応急処置などは始まっていない。倒れてから、ほんの数十秒しか経っていないのだろう。
男の身体からは、なおも『穢れ』が放出されていた。ここまでくると、本人の意識の有無など関係ない。生きること自体に苦痛を感じてしまった人間は、眠りの中ですら己を苛み、世界を呪い続けるのである。
「あらやだ、ちょっと。この人、大丈夫かしら……」
「酔っ払いかなんかかな……?」
「病気とかだったらヤバくない? 救急車呼んだほうが良いんじゃね?」
ただの人間には、このどす黒い『穢れ』は見えていない。親切で善良な人々ほど、無防備に、無警戒に、倒れた人間を心配して近付いていってしまうのだ。どうにかしてこの人々を遠ざけねば、無関係な人々にまで影響が及んでしまう。
と、ここでフツヌシが機転を利かせた。
「みなさーん、ちょっと通してくださーい! 私、看護師でーす! その方の具合を診させてくださーい!」
この言葉で、人間たちは一様にホッとした顔を見せた。いくら親切にしたくとも、医療の心得が無くては病状を確認することができない。
一気に開ける人の群れ。フツヌシは男の傍らにしゃがみ込むと、いかにもそれらしく、瞳孔や脈を診るような仕草で男の顔、首、胸、手などを触っていく。
もしもここに神主や禰宜がいたら、加藤紗耶香の手から放たれる浄化の光に驚くことになっただろう。神の御業に腰を抜かす気の毒な神職を生まずに済んだことは、不幸中の幸いである。
人の目には見えない浄化の光に包まれ、男の身体からは一切の穢れが祓われた。
「ん……あ、あれ? 俺、なんで……?」
よろよろと身を起こす男。
俺は男の背を支えるように手を添え、もう一方の手で男の手をギュッと握る。
「大丈夫ですか? 貴方、突然ここで倒れたんですよ。何か持病をお持ちですか?」
「い、いえ、特には……」
「救急車を呼びましょうか?」
「いや、大丈夫です。自分で帰れます」
そう言って男は立ち上がろうとするが、地面にペタンと座ったまま、それ以上はまったく動けない。足腰に力が入らない様子を見て、睦の半纏を羽織った青年が声を掛けてくる。
「救急車、呼んだほうが良さそうですね?」
「はい、お願いできますか」
「ええ、すぐ呼びますんで」
なぜ力が入らないのか分からず、男は目を白黒させている。
それもそのはずで、この男の身体には何の異常もない。手を握った時、俺が男の身体から力を吸い取ったのだ。
この男は孤独に負けて堕ちかけていた。このまま家に帰せば、また同じことになる。誰もいない壊れかけの家で寂しい正月を過ごすことに、男の心は耐えられないだろう。
医療関係者には少々負担をかけることになるが、ここは一度入院させて、誰かと会話できる環境を与えるしかない。人と触れ合って言葉を交わしていれば、心の隙間はおのずと埋められていくものなのである。
数分後、最寄りの消防署から救急車が到着。救急搬送されていく男に付き添うことはできないが、問題は無い。男にも救急隊員にも、玉依姫がこれでもかというほど守護の光を振り撒いている。きっと彼らは正月中、原因不明の幸運に見舞われ続けることになるだろう。
救急車がいなくなると、野次馬たちは自然に解散していった。俺とフツヌシも神社の裏手に戻り、停めたバイクを確認する。
「うむ、駐禁切符は切られておらんな」
「これでやらかしちゃったら、さすがに申し訳なさすぎるもんねえ」
「高浜修平よ、すまなかったな。危機は去った。身体を返そう」
「紗耶香ちゃん、ありがとね!」
礼を言って身体から抜け出す。
元がただの人間でも、一度『神の憑代』となった人間には、第六感のようなものが覚醒してしまう。この二人もしっかり覚醒してしまったようで、身体から抜け出した俺とフツヌシを凝視していた。
「……カミサマって、意外とちっちゃい……?」
「鹿島様って男性……ですよね? なんかカワイイ……?」
まあ想定内だ。我々がスモールサイズなのも、美少年・美少女顔なのも、揺ぎ無い事実である。いまさらこの程度の感想に腹を立てたりはしない。
「僕らがちっちゃいんじゃなくて、日本人の平均身長が高くなっちゃったの! 縄文時代くらいまでは、百六十センチもあれば『見上げるほどの大男』だったんだよ?」
「え、そうなんですか?」
「栄養条件が悪かったからね、昔は」
「俺もフツヌシも男神だし、これでも一応『大人の身体』ということになっている。だが、この顔についてはもっと褒めてくれて構わんぞ。間接的に母・イザナミへの賛辞ということになるからな」
「あ、お母さん似なんですか?」
「ああ。瓜二つと言われている」
「はー……イザナミってこういう顔だったんだー……って、あれ? でも、イザナギ・イザナミの神話だと、カグツチって名前のカミサマを産んでたような……?」
「おお、よく知っておるな。よし、分かりやすく解説してやろう。おぬしは結合双生児を知っておるか? シャム双生児ともいうのだが……」
「シャム……ええと……たしか、体が繋がった状態で生まれちゃった双子……でしたっけ?」
「その通り。カグツチは、それのもっと酷いバージョンだ。全部で十六体の神が結合して、一つの塊として生まれてしまった」
「え、ちょ、十六!? それ、犬とか猫よりも多くないっすか?」
「はっはっは、そうだな。しかし、カマキリやザリガニよりは少ないぞ?」
「あー、たしかにー。じゃなくて、よく産めましたね?」
「残念ながら、無事には出産できなかった。大きさもさることながら、生まれた瞬間から炎を纏っていたからな。出産時に負った火傷が悪化し、イザナミは死んだ。我はその『ひとかたまりの神』から切り分けられ、今の神格と姿を得た」
「てことは、もしかして、他に十五人も兄弟が……?」
「いるぞ」
「全然知らなかったっす」
「それはそうだろうな。今の日本は、神代の歴史を『不確かな記述』として扱っておる。学校で日本神話を教えたとしても、せいぜいアマテラスに関する事柄であろう?」
「はい。天皇家のご先祖さまって教わりました」
「あれはな、イザナギのクローン個体だ」
「え、なんて?」
「だから、クローンだ。イザナギが自分の左目から培養したクローン個体」
「ちょ、それ、マジな話っすか? カミサマからすっげーSFワードが飛び出してる気がするんですけど??」
「驚くのも無理はない。しかし、これは本当のことだ。だからこそ、我々が『アマテラスの下』に格付けされることを了承した経緯がある」
「下に格付け……? あ、そっか! そうですよね? 順番的には、鹿島様のほうが先に生まれてるんですよね?」
「ああ。戸籍上は『お兄ちゃん』だが、肝心の妹は父の目玉から作られた異性化クローン個体だ。なかなか複雑だろう? 日本の神の家系図は」
「はい。ヤバすぎっすね!」
神を相手にこのノリで話についてくるとは、さすがは茨城県民である。東京の若者とはまた違うユルさで生きている。このノリは大切に守っていきたい。
俺と高浜修平が話をしている間、フツヌシと加藤紗耶香も、神と氏子の心温まるぶっちゃけトークに花を咲かせていた。
「なんとなく雰囲気で拝んでたんですけど、香取様って、具体的に何のカミサマなんですか?」
「ハーイ! 定番質問キタキタキターッ! えっとね、僕、基本は剣と武術のカミサマ。江戸時代とか、武士の時代だったじゃない? どこの道場の神棚にも、僕のお札があったんだよ」
「へえー、そうなんだー……で、今は?」
「真面目に武術やる人、少なくなっちゃったからねー。ちょっと守護範囲広げて、スポーツ全般にしてみたんだけどさぁ……」
「なにか問題でも?」
「うん、大有り。もう問題だらけだよ。例えばさ、ヨガって、あれ元々インドの健康法じゃない? でも、氏子が『ダイエットのためにヨガを頑張りま~す♪』なんてお参りしてたら、僕もやってみるしかないワケで。だから一昨日までインドに出張してたんだけどさ~。もう、言葉は分かんないしみんなカレーばっかり食べてるし~? 牛とか猿とかフツーにその辺歩いてるしぃ~? う~ん、なんていうか……駄目だね! 僕、インドは合わないみたい! ガンジス川の水でこんなことになっちゃうし!」
そう言いながら、フツヌシは着物の裾をたくし上げてみせた。
「あ! 真っ赤!」
「ね? 向こうの習慣通りに川で身を清めたら、こんなにかぶれちゃって。かなりトホホな感じ~」
「え~、香取様カワイソウ……。あ、私、かぶれに効く薬持ってますけど、塗ります?」
「ホント? いいの? ありがとねー♪」
加藤紗耶香が取り出したのは、某大手製薬会社が大々的に売り出している、『デリケートゾーンの痒みに効く!』、あの軟膏である。皮膚炎の治療薬には違いないが、武神フツヌシの足と女性のデリケートゾーンが同じ扱いで良いのかどうかは、相方の俺にも分からない。まあ、下半身という大きな括りでは同じだ。きっと効く。そう思っておこう。
フツヌシはニコニコしながら軟膏を塗られている。おそらく、この軟膏が何か分かっていないのだろう。
俺と高浜修平は、生温い目で視線を交錯させる。
あれ、アソコに塗るやつですよね?
やはりそうだよな?
何とはなしに、目だけで会話が成立した。
その後もいくつかの説明と雑談を交わし、俺たちは二人の前から姿を消した。実際にはまだその場にいるのだが、神が己の意志で顕現しない限り、その姿は目視できない。これは『憑代』を経験した人間も同様である。見るも見ないも、すべての決定権は神にあるのだ。
高浜修平と加藤紗耶香は、しばらくの間、無言でこちらを見つめていた。視線は当て所なく、ゆらゆらと空中を彷徨っている。
唐突に発生した『神憑き』と、その状態での『闇堕ち』の浄化。さらにそれに付随する能力覚醒を、ほんの数分の間に体験してしまったのだ。呆然とするのも無理からぬことである。
やがて、加藤紗耶香がぽつりと言った。
「……良かったね」
「え?」
「さっきのおじさん。なんか、黒いのいっぱい出てたじゃん? 『穢れ』って言ってたっけ? ちゃんと助かってよかったなぁ、って」
「うん……そうだね。いや、まさか、カミサマに体乗っ取られて人命救助なんてなぁ……」
「滅多にできないよね。こんな体験」
「最初で最後……で、あってほしい。俺、まだ心臓バクバクいってる」
「私も。で? これからどうする? 一宮の先は、特にルートとか決めてなかったじゃん?」
「う~ん……どこ行こっか?」
「せーので言う?」
「いいね。それじゃ」
「「せーの……っ!」」
二人の言葉はほぼ同じだった。ただ、やはり先に挙げた名は、自身の氏神の名であったが。
俺たちは、二人がバイクを走らせるのを見届けてこの場を立ち去った。余計な時間を浪費してしまったが、この土地の神、玉依姫への話は通っている。早急に本来の目的、『アマビエ退治』を開始せねばならなかった。