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露天風呂を泳ぐ金魚
慣れ親しんでいる村の慣れ親しんでいる温泉。広い湯船に足を入れ、ゆっくりと身を沈めていく。
「ふぅー……」
畳んだタオルを頭に乗せ、吐息と共に日頃の疲れを溶かし出した。
利用客は俺以外に誰もいない。夜ならば子供からお年寄りまで仲良く身を浸らせているのだが、陽が暮れ始めた夕方頃に利用するのは俺くらいのものだ。
湯が沸き出す音を静かに聞きながら、1人ポツンと浸かるのが至福の時間だ。
「いい天気だなぁ」
野外にある露天風呂からは、茜色の空を一望できる。流れていく雲は徐々に姿を変え、2度として同じ光景の無い空を形作っていく。
形作りながら、消えていく。
似たような光景は見られるかもしれない。けれど、全く同じ光景は絶対に見られない。
過ぎ去ったものは決して戻りはしないと、そんな教訓を物語っていた。
移ろいゆく夕焼け空をボーッと眺めていると、不意に黒い影が視界を過る。
「ん」
風に吹かれてハラリと舞う影の正体は、1枚の落ち葉。たどたどしく左右に揺られ、音も無く俺の隣に着水した。
赤色の葉は湯船に浮かび、波に身を委ねるままプカプカと漂う。大きさは5センチくらいだろうか。何の木の葉かまでは分からないが、横幅は細くて魚影を彷彿とさせる。
「赤色の魚、か……」
水面に揺らめく小さな葉は、ありし日の記憶を思い起こす。
「やけにハッキリと覚えているのは何故なんだろうね」
忘れられない、胸に残る思い出が1つだけある。
かつて小学生だった頃、この田舎村の夏祭りで金魚すくいをした。水槽の中をあちらこちらへと泳ぎ回る煌めき達を、宝物を見る目付きで追い求めた。
救うコツなど知らない子供が簡単に捕らえられる訳もない。しかしそんなことすら知らない俺は、ポイが半分ほど破れていても諦めなかった。
全体をくまなく見つめ、水槽の角のほうで大人しくしていた赤い金魚に狙いを定める。集中力の高まった鋭い腕捌きで角へと手を伸ばし、水へと差し込んで素早く手首を返す。
そして、体長5センチほどの赤い金魚を掬い上げた。
勝利の歓声を上げた時、周りにいた客が拍手をしてくれた。大人達は優しい笑みを、同年代の子供達は称賛を送ってくれたのを覚えている。
その後は戦利品の金魚を小さなビニール袋に入れてもらい、意気揚々と凱旋した。
事件が起こったのは、陽が沈み始める夕方の帰り道。
大きな成功体験に浮かれていたのが悪かったのだろうか。川岸を歩いていた俺は、足を踏み外して川へと落ちてしまった。
深さは10センチちょっとしかないため溺れる心配は無かったのだが、持ち下げていたビニールの袋を手離してしまったのだ。
荒々しい衝撃を受けたビニール袋は、紐が弛んで口が僅かに開く。
そして瞬く間に、金魚が小さな隙間から抜け出してしまった。
俺は逃がすまいと慌てて手を伸ばすが、掴み取れたのは宿主を失ったビニール袋だけ。周囲へと目を向けると、金魚は赤い尾びれで川面を叩いて姿を消した。
水中へと潜ってしまった金魚を素手で捕まえるのは不可能に等しい。しかし俺はどうしても諦めきれず、ザブザブと波を立てながら1時間近く探し回った。
けれど結局は再確保には至らず、体を冷やして風邪を引くだけの結末で話が終わる。子供が大喜びで得た栄光は、呆気なく失われてしまったのだ。
あの日の後悔は忘れない。紐をきちんと握っていれば、あるいは足下への注意を疎かにしなければ、今とは少しだけ違う未来が訪れていたかもしれない。
寂しさに濡れた夏の日の思い出。湯に浮かぶ赤い落ち葉は、川を泳ぐ金魚に見えた。
「…………よっと」
今度は捕まえられるだろうか。
名残惜しい赤色に面影を重ね、捕獲をやり直そうと湯船から右腕を出す。上半身を傾け、ゆっくりと右手を近付ける。
しかしその時、頭に乗せていたタオルがボチャンと音を立てて落ちた。水面が荒立ち、円状の波が幾重も広がっていく。
波に煽られた落ち葉は大きく揺れ、水紋と共に遠ざかる。手を伸ばしただけでは届かない位置まで流れてしまった。
行き場の無くなった右手を戻し、フッと浅く吐息を溢す。
「また、逃げられたな」
濡れた体で求めた夏は、再び儚く去ってゆく。ならばこちらも、潔く立ち去るべきだ。
膝に手をついて腰を上げ、見覚えのある夕焼け空の下に立った。火照った体を初秋の風が優しく撫でる。
せめて、結末ぐらいは違うものにしよう。
湯冷めして風邪を引いてしまわないように、落ち葉へと背を向けて露天風呂を後にした。