サクラノシタノキミ-中編-
※流血、グロテスクな描写注意です。
僕は彼を愛していた。
彼は僕に好きだと言ってくれた。
でも、それはあってはならないことだ。
教師と生徒、男と男。
そんなの、許されないんだ。わかってくれ。 君の好きはただの幻想なんだ。
恋なんかじゃない。忘れてくれ。
僕も全部なかったことにするから。
さようなら。
あの告白以来、彼は何事もなかったかのように振る舞っていた。
彼が完全に吹っ切れたのかはわからない。
でもあの様子からすると、彼も必死で“無かったこと”にしようとしているに違いない。
授業の度に顔を会わせるが、変に気まずくなったりすることはなかった。
あの日の告白が、まるで夢の中の出来事のように思えてくる。
あんなに鮮明だったはずの記憶は1日ごとに曖昧に、過ぎ去っていく日々の中で徐々に薄れていく。
僕と彼はただの教師と生徒の関係のまま、月日は流れ……そして、とうとう彼は卒業式を迎えた。
――――目が覚めたら、僕は何故か病室のベッドの上で寝ていた。
「あぁ……!よかった、目が覚めたのね」
「この、馬鹿息子!本当に心配かけて……」
「本当よ、もう!この子ったら……でも、本当によかったわ……」
側には父親と母親、それに祖母がいて、目を覚ました僕の姿を見て安堵のため息を零した。
「みんな……ごめん。えっと、僕は一体……」
どうしてこんな所にいるのか、全く思い出せない。
「あなた、事故に遭ったのよ」
三人の話をまとめると、僕は信号無視をした車に撥ねられたらしい。
幸い軽傷で済んだものの、僕はショックのせいか、事故に遭う直前の記憶を一時的に忘れてしまっているようだ。
僕は暫くの間、入院生活を送る事となった。
ほんの少し不便で、退屈な日々を二週間程過ごした。
そしてやっと退院の日を迎えた。
だが、あの時の記憶は未だに思い出せないでいた。
かくして僕の日常は戻ってきた。
ほんの少しの記憶の欠落を残したまま。
僕の新学期初の授業は、すでに二回分の遅れをとっていた。
授業のペースを上げれば何とか間に合うだろうか……。
居残りする生徒も少なからず増えるだろう。
……そうだ。
居残り、といえば。
あの彼が行方不明になったと、ある先生から聞いた。
胸に何かひっかかるのを感じながら、僕はその事をあまり考えないようにしていた。
彼の事は忘れよう、そう決めた。
もう関係のない事だ。
それでも、
そう思っていても、
僕の日常は僕の知らないところで歪んでいた。
あるいは、欠落した部分で。
あぁ、そこに居たのか――――。
愛しい彼は、何かを探るように辺りに手を這わす。
「そんなところで、何をしているんだい?」
『探しものだよ、先生』
「探しもの?何かなくしたのかい?一緒に探してあげるよ。何をなくしたの?」
『秘密。でも大切なものだよ』
意地悪の悪い笑みを浮かべる彼。
「隠さなくてもいいじゃないか。でも君がそう言うなら仕方ないな。この辺りはどうかな」
そこら一帯に広がる紙。
僕は大量の紙を掻き分け、やがてそのうちの一枚を拾い上げた。
「これは懐かしいな。ほら、君の自画像」
『ほんとだ。でも全然似てない』
「ははは、でも悪くはないよ。特徴は捉えてるしね」
『違うよ、全然僕じゃない』
じわ、じわ
と、
赤が広がる。
黒と白だけで描かれていたはずの彼の顔が、
『先生』
ふと、気がつくと彼は少し離れた場所に立っていた。
大きな桜の木。
何処か見覚えのあるその木に、彼は寄り添うように立ち尽くす。
あぁ、そうか。
この木は学校の校庭にある、一番大きな桜の木だ。
でも、何故。
『ここだよ、先生』
僕は引き寄せられるように、その木に近づく。
『忘れたの?』
何を、
『僕はここだよ、せんせい』
彼は木の根っこの辺りを指差し、そして。
僕は思い出した。
――――――ざく、
ざく、ざくっ―――――
「はあ……はっ……」
深夜。
学校に忍び込んだ僕は、ある場所を汗だくになりながら掘っていた。
夢で見た、あの桜の木の下を。
無我夢中で掘り進めるうち、スコップ越しに手応えを感じた。
……あった。
スコップを放り投げ、土がつくのも構わず“それ”の周りを手で掘る。
そして、土塗れのボストンバッグを引きずり出した。
そう……僕は、全てを思い出した。
――――その時の僕が、どうしてあんな事をしてしまったのか……自分でもわからない。
もう会う事はないと思っていた彼が、僕の家を訪ねてきた。
戸惑いつつも、とりあえず彼を家に上げた。
「先生、僕と付き合ってください」
彼は諦めてはいなかった。
自分が卒業するのを待っていたのだと、彼は言った。
「駄目だよ……言っただろう?もっと相応しい人を見つけなさいと……」
「なんで?どうして駄目なんだよ、僕はこんなに先生のこと好きなのに!」
彼の気持ちは痛い程わかっていた。
僕だって彼のことが好きなのだから。
でも、駄目なんだよ。
好きって気持ちだけじゃ。
まだまだ若い君の人生を棒に振る事はさせられないんだよ。
「なんで……ひどいよ、先生……」
その場に泣き崩れる彼。
その姿を見ていられなくて、僕は唇を噛み締めて俯く。
ごめんね、つらい思いをさせて。
でも仕方ないんだよ。
君のためなんだ。
わかってくれ……。
「……先生の気持ちは、変わらないんだ」
「すまない……」
「そっか……」
気まずい沈黙が続く。
どうしたものかと困っていると、彼が口を開いた。
「先生、トイレ借りていい?」
「あ、あぁ。ここを出て左に進んだ突き当たりだから……」
「うん、ありがとう」
扉に向かう彼の背中を目で追った。
「ごめんね、先生」
部屋を出ていく間際、彼は振り返ってそう言った。
「いや……」
ふっ、と笑う彼。
その表情はひどく悲しげだった。
―――――――……。
……遅い。
彼が部屋を出て行ってから、既に二十分近く経っていた。
少し気になり、トイレに様子を見に行った。
だが、そこに彼は居なかった。
帰った?
いや、そんなはずはない。
玄関までは僕がいた部屋の前を通らなければならない。
そんな気配はなかった。
いったい何処に……。
ふと、脱衣所を通り過ぎようとした時。
風呂場の扉越しに“何か”が見えた。
ぎょっとするほど目にも鮮やかな、赤色が。
慌てて駆けつけると、乱暴に扉を開いた。
「…あ……あぁ、あ……」
そこには、
血まみれの彼が、いた。
「―――――うわあぁぁぁぁっ!」
何で、
何だこれは。
身体中切り傷だらけで、
血をそこら中に撒き散らしながら、
真っ赤に染まった手で、カッターナイフを握りしめて。
し、
死んで、る?
まさか、
「せ、んせ…い……」
弱々しく、彼が僕を呼んだ。
彼は生きていた。
「救急車……救急車を呼ばないと……!」
急いで電話に向かおうとしたが、彼はそれを拒んだ。
「いいんだ、先生……そんな事する必要はないよ」
「どうしてこんな事を……!あぁ…、僕が……君を拒んだから……僕のせい、なのか……?」
彼がそこまで追い詰められていたなんて。
僕はなんて浅はかだったんだろう。
彼の気持ちを考えもしないで。
僕は……!
「違うよ、先生はなんにも悪くない。
先生……ごめんね。
僕、先生の事が好き過ぎて先生のことしか見えなくなって……先生だけなんだ………僕は先生しかいらない、先生の心が欲しい……。
だから、ほら、見て。真っ赤。先生の好きな赤色……。
ねぇ先生……僕のこと、嫌い……?怖いよ……先生に嫌われてると思うと……僕の全部だから……先生……先生………わからないよ……どうすればよかったの?
僕は、どうやったら先生と一緒にいられたの……?」
あぁ本当に、
どうすればよかったのか。
「先生、好きだよ……先生、先生、先生……」
「――――――っ!」
折れてしまいそうな彼の身体を掻き抱いた。
彼の身体からは絶えず血が流れる。
僕は彼の身体に幾つも刻まれた傷に舌を這わせ、血を舐め取った。
だが、そんな事で血が止まるはずもなく。
それでも僕は止めなかった。
「……先生、もう僕ダメみたい……ごめん……。
先生……先生……
先生………
せんせい………………」
ぱたり、 と
彼の腕が滑り落ちた。
ぱしゃっ、
血の海へ。
「あ……ぁ…ああ……あ……、
―――――ああぁぁぁぁーーーーーッ!!」
暫くの間、僕は彼の亡骸を抱きしめていた。
徐々に失われつつある体温は、もう二度と彼が戻ってこない事をありありと示していた。
失ってしまった。
愛する人を。
これから僕はどうすればいいんだ。
虚ろな視線で周りを見た。
血塗れの風呂場。
返り血に染まる僕の服。
真っ赤な、君。
僅かに感じられる体温もすぐに消え失せるだろう。
命を失ったこの身体は、ただ朽ちてゆくだけなのか。
この美しい身体が腐った肉塊となり、蛆虫共の餌になるのか?
なんておぞましい事だろう!
考えただけでも背筋が凍りそうだ。
そんな事があってたまるか。
彼をそんな目に合わせるわけにはいかない。
彼をそんなゴミ虫共に汚されるくらいなら………!
僕は、
僕は……!
我を失った獣のように、彼の身体に喰らいついた。
彼の手からカッターナイフを引ったくると、えぐるように切りつけて、その傷口に噛みつき、肉を千切り取った。
ぶよぶよとした臓物を剥き出しにした腹に顔を突っ込んで、血肉を啜り、舐めとり、かじりついた。
彼の肉片を咀嚼し、飲み込む。
飢えた獣のように。
そうだ、その時の僕は人間ではなかったのだ。
ただ目の前にある肉を食べる事しか頭になかった。
それは彼の体がほとんど骨だけの姿になるまで続いた。
それから僕は、すっかりやせ細った白い彼の身体をバラバラにして、ボストンバッグの中に詰めた。
どうにかしないとと思い、とりあえずバッグを持って外に出た。
しばらくふらふらと歩き回っていると、学校の前にたどり着いた。
校庭内に忍び込み、あの桜の木の下に歩み寄った。
「此処で、眠るかい?」
ぼそりと問いかけるように呟いた。
当然返答はない。
それでも構わなかった。
此処に彼の残された亡骸を埋めると、もう決めていたから。
……あぁ、僕は何て事をしてしまったんだろう。
しかもそれを、忘れていたなんて。
僕は彼を此処に埋めた。
でもその数日後、僕は彼の事が気になって様子を見に行ったんだ。
そこで運悪く事故に遭った。
「すまない……君をこんな冷たい土の中に置き去りにして、そのうえ忘れていたなんて……」
僕はなんて愚かなんだ。
愛しい君の苦悩を知ろうともしなかった。
愛しい君の気持ちを受けとってあげれなかった。
愛しい君を死に追いやってしまった。
愛しい君の屍肉を食べてしまった。
後戻り出来ないところまで来てしまった。
自首しよう。
逃げても無駄だ。
いつかは必ず僕の犯した罪が露見する日が来る。
僕は裁かれるべきなのだ。
そうなると、いつまでも彼をこんな冷たい土の中で放っておくわけにはいかない。
僕は土塗れのボストンバッグを土の中から引き上げた。
バッグは、異様な程軽かった。
ずっと土の中に埋まっていたせいか湿り気を帯び、周りは土まみれでその分若干の重みを感じるが、それにしても軽すぎる。
まるで、中身がごっそり抜け落ちたような……。
乱暴に開けて中を覗けば、そこに愛しい彼の姿はなかった。
声にならない悲鳴が上がった。
僕はパニックになって、乱暴に手で土を払った。
深く深く。
手が土で汚れてしまうのも構わず僕は土を掘り続けた。
どうしようもない焦りだけが募る。
土は手で掘るには困難はほど硬くなっていた。
とてもこれより下に埋まっているとは思えない。
此処に、彼はいなかった。
そんなはずはない。
ちゃんと此処に埋めたはずだ。
間違いない。
焦るな、落ち着け。
他の桜の木と間違えたのかもしれない。
根本を全て掘り返して確かめればいいだけの話じゃないか。
僕はすぐさま隣の木の下の捜索を始めた。
土は酷く硬かったけれど、もうそんな事など関係ない。
僕の頭には彼を見つける事しかなかった。
ざくざくざくざくざくざく。
硬い土を掘り続ける。
此処が駄目なら次へ。
木から木を渡り、穴を広げていく。
それでも見つからない。
何処にもない。
無い。
無い、無い、無い。
何処にあるんだ。
彼は、僕の愛する人は何処に行ってしまったんだ!
夜が明けるまで掘り続けても、結局彼は見つからなかった。