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リョーコの怖い話:キレイな肌

 これは、ある高校にいた、身なりにすごく気を遣ってる男の子の話。


 名前は仮に、元木(もとき)君としましょうか。

 元木君の家では親が美容師さんをしていて、彼自身も小さい頃からファッションや美容に興味を持って育ったみたい。男の子にしては珍しいタイプだったかもしれないけど、趣味を隠すようなことはなく堂々としてて、友達にもコーディネートのアドバイスをしてるような子だったわ。まあ、アドバイスを求められてのたかどうかは知らないけどね。


 ファッションセンスには自信のあった元木君だけど、見た目に関して一つだけコンプレックスがあったの。

 高校生になって、顔にニキビが目立つようになってきてしまったのよ。ニキビができるのは思春期の性なんだから仕方ないといえばそうなんだけど、外見を重視する彼の価値観にとっては耐えがたいことだったのね。


 それでね、彼、ニキビを気にしてるっていうことだけはなぜか他人に言えなかったの。

 ファッションには自信があったから堂々とすることができてたんだけど、自信があるってことはプライドが高いってことでもあるのよね。コンプレックスをさらけだして平気なほど無邪気な質じゃなかった。

 だから元木君は親や友達には相談せず、自分でいろんなスキンケアの方法や商品を調べて、かたっぱしから試したわ。化粧品に頼るばかりじゃなくて、ちゃんと食生活や睡眠時間にも気を遣ってたのよ。脂っこいものは避けて、夜は早く寝て朝はきちんと太陽を浴びる。やけに規則正しい生活になって、親からも感心されてたみたいよ。


 ただ、努力してる本当の理由は誰にも言わなかったの。友達と買い食いするときにはお金がないとか言って自分だけ買わなかったり、母親が作ってくれたトンカツをダイエットしてるとか言って食べなかったり。


 変な話よねえ。本当のコンプレックスはプライドが邪魔して言えないけど、嘘の弱みなら堂々と口にできるのよ。

 お金がない、なんて言ってケチだと思われたり、ダイエットしてる、なんて言って体形を気にしてると思われることは別にかまわないのね。自意識過剰な人って複雑な心理をしてるわ。


 様々な手段を試した元木君だけど、ニキビは一向に治ってくれなかった。

 むしろ、違う成分のスキンケア製品をあれこれ混ぜてしまったのが悪かったのか、どんどん数が増えて治りにくくなっていくみたいに思えた。


 でも彼の努力は報われたわ。本当に効果のある対策を見つけることができたの。


 彼のクラスに、とても肌のきれいな女子がいたのね。

 仮に、倉石(くらいし)さんとしましょうか。元木君は今年のクラス替えで彼女と同じクラスになったの。倉石さんはものすごく美人なわけではないけど、とにかく肌がきめ細かくなめらかでね。それも陶器のように白い顔という感じではなくて、血色のいい健康的な肌色をしてた。


 ひょんなことから元木君は彼女に興味を持つようになったの。


 なんてことはない、友達と去年の文化祭の写真を見ていたときのこと。その友達は写真部に所属していて、文化祭とか体育祭とかことあるごとに自前のカメラを構えて写真を撮って回っていたの。だから、他のクラスの人を映した写真もたくさん持ってて、クラスのアルバムとして提供してくれてたのね。

 なにげなくそのアルバムをぱらぱらめくってたら、後夜祭のスナップ写真で、元木君はある女の子に目を留めたわ。

 それが倉石さん。

 肌がきれいだから目を留めたわけじゃないのよ。逆に、彼女の顔がニキビだらけだったから。

 彼、自分のニキビを気にしてたから、同じように他人のニキビにも敏感だったのよね。


 元木君は、そのニキビが目立つ子が倉石さんだと気づいた瞬間に目を見張ったわ。彼、倉石さんと口を利いたことはなかったけど、顔くらいは覚えてた。

 彼の知ってる倉石さんの顔にはニキビ一つないんだもの。この写真を撮ったときから今年の四月までの間――そんな短期間に、倉石さんはニキビをきれいさっぱり治していたっていうことなんだからね。


 その日から元木君は、倉石さんのことが気になって気になって仕方がなくなった。

 彼女と同じ方法で自分のニキビも治せるはずだって、勝手な確信を抱いてしまったのね。


 でも、親にも友達にも相談できない元木君が、一度も話したことがない倉石さんにコンプレックスを打ち明けられるはずもない。

 だから彼女にニキビを治した方法を聞きたいと強く思いながら、行動に移すことができないまま日々を過ごしていったわ。

 そうなるともう、食事制限や規則正しい生活もおろそかになっていた。だって効果がないんですもの。そんな無駄な行為より、一刻も早く倉石さんと話すことで頭がいっぱいだったのよ。


 行動的な人って、その行動をやめるのもあっさりしてるものなのかしら。

 もしかしたら、あと一ヶ月節制を続けていたら効果が表れ始めたかもしれないのにね。そもそもどのスキンケア製品も効かなかったのは、たった数回使っただけで結果を判断してしまってたからかもしれないわ。

 美しさって、そうそうすぐに手に入るものじゃないと私は思ってるけど。あら、嫌みだった? なんてね、ふふ……。


 そのうちに絶好の機会は訪れたわ。


 ある日の昼休みのことだった。元木君はいつも回りの席の友達と一緒にお弁当を食べてたんだけど、その日、友達が遊んでるゲームアプリを見た女の子の二人組が話しかけてきたの。

 元木君はゲームに詳しくなくて知らなかったんだけど、すごく流行ってるゲームみたいで、友達とその女の子たちはずいぶん話が弾んでた。

 そうしてるとふと、三人目の女の子がいるのに気がついたの。どうやら彼女もゲームには興味ないみたいで、連れの二人がおしゃべりしてるのを呆れたような顔で見てた。


 元木君はドキッとしたわ。その子、倉石さんだったの。

 この場に同席している人間のうち、元木君と倉石さんだけが会話に入らず手持ち無沙汰にしてる。周りの友達はこっちを気に留めていない……彼女に話しかけるにはまさに今しかないって状況よね。


 元木君は決心して口を開いたわ。


「ゲームって俺よく分かんない」

「だよね、私も」


 さりげなくそう話しかけてみたら、倉石さんも何気なく返事をしてくれた。

 元木君はこのチャンスを逃すまいと必死だったけど、意図がばれないように平静を装って会話を続けたわ。


「前から思ってたけど、倉石さんって肌きれいだよね」

「まあね」


 倉石さんは意味ありげに目を細めて笑ってた。

 元木君はなんだかその目に誘われるような気がして、自然と口を動かして質問してたわ。


「秘訣とかあるの?」


 そこで初めて倉石さんが元木君の方を見た。

 驚いた顔をされるかと思ってたけど、まるでそう訊かれるのを分かってたかのように倉石さんは冷静だったの。


「あるわよ。私、フェイシャルエステに通ってるの。男の子もやってくれるところだし、興味あるなら行ってみたら?」


 倉石さんはあっけらかんとした口調でそう言いながら、スマートフォンをささっと操作して、画面を見せてきた。地図アプリに住所を入れて、そのエステの場所を教えてくれたのね。

 元木君はさすがに興味を隠せなくて、自分もあわててスマートフォンを取り出してその住所を検索した。

 お店の名前は"Courbet"……そのときは正しい読み方が分からなかったから心の中では"コーベット"って発音で記憶した。


 倉石さんがスマートフォンをひっこめたタイミングで、ちょうど昼休み終了の予鈴が鳴った。

 女子たちもゲームの話を終わらせて倉石さんと一緒に席に戻っていったけど、元木君はそんなことより今聞いたエステのことで頭がいっぱいだったわ。

 行くか行かないかで迷ってわけじゃないのよ。もともと美容もファッションも堂々と趣味にしてた元木君だから、男性でエステに行くってことにはそれほど抵抗がなかったの。

 それに、今の元木君はニキビを治すことを何よりも優先してたから、今日の放課後にすぐ行こうってもう心に決めちゃって、ただただ期待で胸をいっぱいにしていたのね。


 元木君は次の業間休みになると教室を飛び出して、さっそくお店に電話してみた。

 呼び出し音の一つ一つがいやに長く感じられたけど、三コールくらいで応答があったわ。


『はい、クールベでございます』


 優しそうな女性の声だったわ。

 お店の名前の読み方を頭に刻み込みながら、元木君は思わず声を上ずらせていた。


「あの、今日の五時って予約できますか?」


 とんとん拍子で話は進んだ。

 電話の向こうの声は優しく元木君の名前と連絡先を聞くと、それではお待ちしてますね、と言って電話を切った。

 元木君は安心するあまり、その日はもう夢見心地で放課後まで過ごしたみたい。


 最後の授業が終わるやいなや、元木君はカバンをひっつかんで教室を飛び出した。

 誰かに声をかけられたような気もしたけどもう何も耳に入らず、調べておいたエステまでの経路をひたすら急いだわ。急がないと間に合わないような時間じゃなかったんだけど、気が急いて仕方がなかったのね。


 なぜだか、そのエステに行けばニキビを治してもらえるって信じ込んじゃっていたみたい。

 倉石さんの肌には効果があったのかもしれないけど、元木君にも同じように効くとは限らないのに。

 でも何をしてもダメだって落ち込んでいたところに希望の糸が垂れてきたら、つい飛びついてしまいたくなるものなのかしら。

 彼のそういう心理を倉石さんが見抜いていたんだとしたら、彼女、すごい宣伝能力ね。キャッチセールスとかで怪しい化粧品とか壺とか買わせる人って、きっとそういう洞察眼を持ってるんだわ。まあ、倉石さんはそういうつもりじゃなかったのかもしれないけど。


 お店の前についたのは約束の二十分前くらいだった。

 お店といっても単なる貸しビルの一室なのね。建物自体は殺風景なコンクリート造りで、元木君がエントランスを入ってエレベータを上がる間、人の気配はほとんどなかった。黒いドアも他の部屋と同じシンプルな見た目だったけど、おしゃれな黒檀の木製プレートに金の飾り文字で"Courbet"ってお店の名前が刻まれて掛けられていたわ。


 ちょっと早いのは分かってたけど、元木君は待ちきれずにインターホンを押した。


 応答があるまでのほんの十数秒が数時間にも感じられたわ。

 ほんと、元木君ってせっかちだったの。せっかちだからって待たせた相手に食って掛かるような人じゃなかったけど、とにかく自分の求めるものがすぐに手に入らないとたまらなかった。せっかち、というより、我慢ができない、という方が正確かもね。


 元木君がしびれを切らした頃、黒いドアが静かに開いた。

 中から顔を出して元木君に笑いかけたのは、薄化粧の上品な女性だったわ。彼女の肌がとてもなめらかで美しかったから、元木君の期待はそこでいっそう高まったの。下手なメイクをしていると肌が妙に白くなったりするものだけど、彼女は倉石さんと同じように健康的な血色でね。もしかしたらナチュラルメイクがすごく達者だったのかもしれないけど、そんなことは頭にのぼらず、エステに効果があるに違いないって信頼感を勝手に強くしていた。


 時間が少し早かったのも問題なかったようで、元木君はそのまま部屋に招き入れられたわ。

 用意されていたスリッパを履いて、彼女に続いて廊下を歩く。

 部屋の中もなんてことはない、普通のマンションの一室といった感じだった。玄関を上がった廊下の左手側に洗面所があって、右手には閉まったドアが一つ。

 元木君が通されたのは廊下の突き当りにある広い部屋だった。LDK、というのかしら。部屋に入った正面にダイニングテーブルが置いてあって、左手側はカウンターキッチン、右手側のリビングスペースとの間はライトグレーのアコーディオンカーテンで仕切られていて、半分開いたところから覗くとエステ台やいろいろな器具が置いてあるのが分かった。


 彼女は元木君をダイニングテーブルに座るように促したわ。

 一旦カウンターキッチンの方に入って、水の入ったグラスを持って戻ってくると元木君の前に丁寧に置いて、向かい側に腰を下ろした。それからテーブルに置かれたファイルから名刺を出して、元木君に差し出したの。


佐々塚(ささつか)と申します。本日はよろしくお願いいたします」


 名刺にはなんとかセラピストとかいう横文字の資格の名前がいくつか載っていた。

 元木君、少し緊張しながら会釈を返したわ。こういう、いわゆるプライベートサロンに来るのは初めてだったからね。美容院に来るような感覚で来たから、思ったより丁寧な接し方をされて少し戸惑っていたの。


「ご来店、初めてでしたね。施術の前に当店のシステムの説明と、カウンセリングをさせていただきます。ご不明な点がありましたらおっしゃってくださいね」


 佐々塚という彼女が何歳なのかは見た目からは分からなかったけれど、元木君を子供扱いすることなくきちんとした話し方で説明をしてくれたの。

 元木君はほとんど右から左に聞き流して、説明の最後に差し出された同意書にもさっさとサインをした。早く施術してほしいって一心だったのね。同意書はしっかり読まないといろいろ危険なんだけどね、うふふ……。

 あ、別にここが悪徳サロンだったっていうオチじゃないから、安心してね。


「本日は、何か解消したいお悩みがあってご来店されたんでしょうか? それとも定期的にお肌の調子を整えたいという感じですか?」


 佐々塚さんはテーブルに置かれたノートパソコンを開きながらそう尋ねてきた。

 元木君、ちょっと安心したわ。だって「ニキビでお悩みですか?」なんて聞かれたら、いかにもニキビを気にしてるように見えるってことじゃない? 図星のくせに、その図星を突かれるのが彼のプライドを傷つけるのよね。

 それで元木君は何食わぬ調子で返事をした。


「肌を整えたいっていうか、最近ニキビが治りにくくなっちゃって、それで……」

「なるほど、ホルモンバランスの崩れやすいお年頃ですものね。皆さんによくある症状ですから、対策も確立していますよ。ただ、個人によって効果の出やすい成分やアレルギー反応を起こす成分がありますから、まずは確認させてください。いくつか質問いたしますので、お答えをお願いします。今まで食品や化粧品でアレルギー反応を起こされたことはありますか?」


 その質問から始まって、食事の時間や好み、起床時間と睡眠時間、使っている化粧品などを細かく質問した佐々塚さんは、元木君の回答をノートパソコンに記録していった。

 元木君には質問一つ一つがどう影響してくるのか分からなかったけど、自分に合った施術を割り出してくれるんだから効果があるに違いないってますます確信を強くしていったわ。出された水を飲みながら、正直に質問に答えていった。水はただの水ではないようで、どことなく甘いような酸っぱいような味がした。


 質問が終わると、佐々塚さんはノートパソコンの画面をのぞいて一人うなずき、静かに立ち上がった。


「それでは施術を始めますね。カーテンの向こうにどうぞ」


 元木君は立ち上がって佐々塚さんの指示に従ったわ。

 荷物置き場と着替えを示してから一礼した佐々塚さんはアコーディオンカーテンを閉めて立ち去った。元木君は肌触りのいい寝間着のような施術着に着替えると、タオル地のシーツが引かれたベッドに横になって待った。施術部屋には小さな音でクラシックミュージックが流れていて、薄暗い照明の中に寝転んでいると心地よくまどろんでしまいそうだったわ。


 でも、そこまでリラックスできてたわけじゃなかったの。

 何しろフェイシャルエステなんて初めてでしょ? 施術といってもどういうことをされるのか、よく分かっていなかったのね。

 私だって知らないもの。クリームを塗ってマッサージするとか、ボールみたいな器具で顎のあたりをコロコロされるとか、そのくらいしか想像つかないわ。とはいえ痛めつけられるわけじゃないんだから、怯えることはないはずだけどね、うふふ……。


 待ち時間は思ったより長かったわ。元木君はちょっぴりいらいらし始めてたけど、大人しく待っていた。

 そのうちにカーテンの向こうから足音が近づいてきた。彼女、リビングとは別の部屋で準備をしてきたみたいね。


「元木さん、準備はよろしいでしょうか?」


 控えめに声をかけられて、元木君は「はい」と返事を返した。

 木製の薬箱を抱えた佐々塚さんが入ってきて、部屋の壁際にしつらえられた台の方に向かって行った。台に箱を置いた佐々塚さんは、椅子を転がしてくると元木君の頭の上に腰を下ろしたわ。


「施術を始めますね。まず、お肌の調子を拝見します」


 上からのぞきこまれる形になって、元木君は目を閉じた。

 目を閉じると一気に、心地よい眠気が増してきて来たの。まぶたを開くのも、声を出すことすら億劫に感じるような気だるさ。授業中に居眠りしたくなるときと同じような感覚ね。


 と、何か小さな音が聞こえてきた。

 シュンシュンというかすかな音が、クラシックミュージックに混ざって聞こえるの。初めは気のせいかと思ったけど、音が徐々に大きくなってきて、この部屋のどこかで鳴っている音だとわかったわ。それはまるで、お湯を沸かしているような音。


 そう思った元木君はね、なんだか急に怖くなったの。


 自分は今、見知らぬ女性に対して顔を無防備にさらして目を閉じている状態なんですもの。

 もしこの音が本当にお湯を沸かしている音なんだとしたら、そのお湯が自分の顔面にぶちまけれられるんじゃないかって、不安のせいか、まどろんでいたせいか、妙な想像を働かせてしまったのね。

 そんなわけないって頭では分かっているから大人しく目を閉じていたけれど、目を閉じているから確認ができない。確認ができないから、想像を否定しきれない――。


 そうしているうちに頭上に腰かけた佐々塚さんが立ち上がる気配がしたかと思うと、もう確実に沸騰したお湯だとしか思えない音が、自分の元に近づいてくるの。

 佐々塚さんがそれを持ってきたのね。

 元木君は内心怖くて仕方なかったんだけれど、意味不明な妄想だって自分でも分かっているから、何も言わずにただ目を閉じて待っていた。


 そして、顔に――熱い感覚がしたの。


 思わずびくりと肩をすくめてしまったけれど、その瞬間に理解したわ。



 ……元木君、何をされたと思う?


 うふふ、何も酷いことなんかじゃないのよ。


 単なるフェイススチーマー。蒸気でお肌のケアをする美容器具よ。シュンシュンっていうのはスチーマーが蒸気を発する音なの。


 あら、思わせぶりだった?

 スチーマーっていうものを知っていれば充分予想できたでしょ、だってフェイシャルエステの話をしているんだもの。お子様には難しい話だったかしら?


 美容好きの元木君ももちろん知ってたのよ。

 だから自分が妙に怯えてしまっていたことがバカみたいに思えて、その反動でかすっかりリラックスできたわ。


 他人に顔を触られるのも普段はなかなか経験しないことだから、最初は少し気まずい気がしたものの、すぐに慣れてしまった。

 その後、元木君は半分眠ったような夢うつつの状態で施術を受けたから、何をされたのか全部はよく覚えていないの。


 ただはっきりしているのは、とても気持ちがよかったということ。


 スチーマーの熱い蒸気を浴びた顔にひんやりとしたクリームをたっぷり塗られて掬い取られる。それを繰り返されるたびに、まるで悪い肌を直接削り取られていくような爽快感を覚えていたわ。

 元木君自身もフェイススクラブを試したことはあったんだけど――

 スクラブが何かって? 細かい粒を含んだクリームみたいなもので、お肌に塗ることで古い角質を絡めとってくれるものよ。

 元木君が自分で使ったスクラブはこんなに気持ちのいいものではなかったの。やっぱりプロのエステティシャンの技術は違うものなのね。それか、使っているスクラブが元木君の体質に適したものだったのが良かったのかも。


 やがてスチーマーが片付けられて、仕上げの美容液か何かをペタペタと塗りこまれたと思ったら、「元木さん、お疲れさまでした」と声が掛けられた。


 その言葉を聞くと、今まで重くて仕方なかったまぶたが魔法にかかったみたいに自然と持ち上がったの。正面に見える部屋の照明がやけに眩しく感じて、元木君は何度も瞬きを繰り返したわ。


 そうしてすぐに気が付いた。

 顔の肌がすっかり生まれ変わっているの。

 大げさな比喩なんかじゃないのよ。まるでこれまでが顔中に泥を塗ってたように思えるほど、軽やかで、触れる空気がまるで肌を通り抜けていくみたいに感じられた。


「すげえ……」


 元木君は思わずそう呟いて、頬に指で触れてみたわ。赤ん坊みたいになめらかな指ざわり。もちもちとした弾力は、柔らかいのに指を押し返してくるほど張りがある。

 元木君が起き上がると、佐々塚さんが横から鏡を差し出してくれた。そこに映っている自分の顔を見て息をのんだわ。


 あんなにしつこかったニキビが、きれいさっぱり消えているの。


 元木君は言葉も出てこなくて、現実であることを確かめるように顔中を触ってみた。どこを触ってみてもやっぱり完全に滑らかで、ぶつぶつした感触なんて一切ないんだもの。


「あまり触らないようにしてくださいね。お肌はデリケートですから、刺激を与えるのは良くないんですよ」


 佐々塚さんはにっこり笑うと、「あちらでお待ちしていますので、お着替えをお願いします」と言って施術室を出て行ったわ。


 元木君は本当に信じられなかった。

 いくらせっかちな彼でも、たった一回の施術でニキビが消えてなくなるなんて期待していなかったもの。化粧品にしろ何にしろ、効果はだんだんと表れてくるのが普通だからね。元木君も一応分かってはいたのよ。


 着替えているうちに元木君の驚きは落ち着いていって、代わりに興奮で胸が膨らんでいったわ。カーテンの向こうに出て行った元木君は、さっきと同じ位置に座って待っている佐々塚さんを見るや感嘆の声を上げてしまったの。


「すごいです! どうしてこんなにすぐキレイになるんですか?」


 佐々塚さんは優しく微笑んで元木君に座るよう促した。


「俺、今まで何してもニキビ治らなかったんです。なのにこんな、一時間で完璧に治しちゃうなんて、マジすげえ!」


 テーブルにはきれいな赤い色のお茶が用意してあって、元木君は彼女の用意するものは全部すばらしいもののように思えていたからグビグビ飲み干しちゃったわ。単純よね、元木君って。このときはもう、佐々塚さんの言うことならなんだって聞いちゃうくらいの勢いだったのよ。


 佐々塚さんの方は落ち着いたもので、テーブルの上に置かれた一枚の紙をおもむろに元木君に差し出したわ。彼女にとっては、お客さんからこういう反応をされるのは慣れっこだったのかもしれないわね。


「老廃物を落として、お肌のターンオーバーを早める効果のあるパックを行ったんです。さっきも申し上げた通り、今のお肌はとても敏感になっていますから、刺激を与えることは避けてくださいね。具体的にはこちらに書いてある通りです」


 渡された紙には施術当日の注意事項が箇条書きで書いてあったの。当日は洗顔料やメイクアップ製品を使わないこと、明日以降、触ったりうつぶせで寝たりといった刺激をなるべく避けることしないことなどね。

 元木君はうなずくだけだった。彼女の言葉がすべてのような気分だったもの。

 私だったらやるなって言われるとついやりたくなっちゃうけど、元木君はそれはもう従順に行動するつもりだったわ。毎晩顔にマヨネーズパックをしろって書いてあっても、何の疑問も抱かずに実行してたでしょうね。もし佐々塚さんがちょっとしたいたずら心を持ってたら、何の意味もない指示を一つ二つ混ぜこんでたかも……なんて、彼女はそんな悪い人じゃなかったんだけど。


 施術の料金は、今回の六十分コースで一万五千円。高いって思う? エステの相場ってそんなものよ。それに期待以上の効果があったから、元木君には安いと思えるくらいだったわ。


 とはいえ彼も学生だし、家の美容室を手伝ったらお小遣いはもらえてたんだけど、そこまで資金に余裕があったわけじゃなかったの。ここに来る前に彼があきらめようとしていたのも、いろんな化粧品を買ってお金がなくなってきたのが理由の一つだったみたい。

 でもこれでお金をかける必要がなくなるんだから、元木君はもっと払ってもいいと思ったくらいなのよ。思っただけで、実際は二万円出してきっちりお釣りを受け取ったけどね。


 その日から、彼の人生は幸せそのものだった。


 誰にも言えずに悩んでいたニキビがなくなって、見違えるほどのキレイな肌になったんですもの。

 鏡やガラスの近くを通るたびにそこに映る自分に見とれてしまうくらいだったわ。

 もちろん、佐々塚さんに言われた注意事項はすべてきっちり守ったし、毎日のスキンケアもいつも以上に入念に行った。肌の調子もとても良くて、まるで乾いた花壇の土みたいに化粧水を吸っていくのが感じられるのよ。

 大事にすれば大事にするほど彼の期待に応えてくれるように思えて、自分の顔をまるで子供みたいに大切に扱ったわ。


 でも残念ながら、元木君の幸せはいつまでも続いたわけじゃなかったの。


 一ヶ月くらいして、おでこにまた一つニキビができてしまったのよ。

 当然、彼はひどく焦ったわ。自分が生活習慣を油断してしまったせいだと思って、前みたいに食事や睡眠時間にものすごく気を遣うようになった。もちろん、絶対に顔に刺激を与えないように細心の注意を払って、髪だっていつもみたいに顔に垂らすのはやめて、肌に触れないようきっちりセットするようになったの。


 でも、ニキビはよくならなかった。


 それどころか努力する元木君をあざ笑うように、日が経つごとに一つ、また一つと増えていってしまうのよ。


 考えてみれば当然の話なのよね。エステではそのときあったニキビはキレイに治してもらったのかもしれないけど、ニキビができない体質に変わったわけじゃないんですもの。たとえエステで新しい肌を手に入れたとしても、そこにも老廃物が溜まっていってしまうんだからね。


 彼もバカじゃないから、そのことにちゃんと気づいたわ。それですぐにCourbetに電話をかけたの。運のいいことに、翌日の夕方に予約を取ることができたわ。


 それにしてもそのお店もずいぶん控えめよね。ニキビをたった一時間でキレイにとってしまうなんて、評判になってもおかしくないじゃない?

 立派な技術を持ってるのに、佐々塚さんというエステティシャンはとても謙虚で丁寧に接客してくれて、料金設定だってお手頃だわ。

 でも目立つのを望まないのか、ウェブサイトには最低限の情報しか載っていないし、エステのポータルサイトにはどこにも載せてないの。

 お店の看板自体、ビルの部屋の前に行かないと見えないわけだしね。

 経営していくにはそれなりの儲けが必要でしょうに、あまりお金儲けに腐心するタイプの人じゃなかったことは確かみたい。


 二度目の施術も期待した通りの効果があったわ。

 今度はカウンセリングと準備の時間が短めでね、前回元木君の体質に合ったスクラブを用意できたから、しばらくはそれを使えばいいんですって。

 化粧品は全部佐々塚さんがオリジナルで調合しているの。あの薬箱に、元木君用の化粧品が一式いろとりどりのガラス製の容器に保存してあるのを見せてもらったわ。人それぞれ専用のものを使わないとちゃんとした効果が出ないんですって。

 全部のお客さんの分を作って管理しているなんて、すごいわよね。

 元木君も彼女を称賛したい気持ちでいっぱいだったんだけど、彼女はどこまでも謙虚でね、「自分の得意なことが人の役に立つならそれだけで嬉しい」なんて言ってたみたい。


 その後のこともだいたい予想がつくわよね。


 エステの後は生まれ変わったみたいにキレイな肌になるけど、一ヶ月もするとまた調子が戻ってきてしまう。またエステに行ってキレイにしてもらって、その繰り返し。

 お金がかかるのは当然よ。彼、家でのバイトに一生懸命励んで、他のことにお小遣いを費やすのをやめて、毎月エステのためにお金を貯めておくようになった。


 ちっとも苦じゃなかったわ。だって、キレイな肌を保つことは彼にとって何よりも幸せだったんですもの。

 自信が持てるとエネルギーがあふれてくるものなのよね。学校に行くのも楽しくて、友達と話すのも当然楽しくて、毎朝鏡を見るのは最高に楽しかった。

 エステに通ってる間はすごく忙しかったけど、すばらしく充実した日々でもあったの。


 エステに通ってる間は――ね。


 残念だけど、幸せな日々は案外あっさり終わってしまうものなのよ。


 ある日いつものようにエステを終えた元木くんは、佐々塚さんから衝撃的な知らせを受けたわ。


 それがね、今月一杯でお店を畳むことにしたって言うの。

 旦那さんの転勤に付いて遠方に引っ越すことにしたんですって。彼女、結婚していたのね。エステは趣味の延長でやっていたものだし、お得意さんには申し訳ないけど仕方ないんですって。


 佐々塚さんはとても恐縮して告げたことなんだけど、元木くんは当然受け入れることができなかったわ。せっかく見つけた美容の特効薬なんですもの。これまでこんなにお金をかけて通ってきたのに、って裏切られたような気分だった。

 とはいえ、彼、女性に対して食ってかかれるほど恥知らずじゃなかったの。いいえ、むしろプライドが高すぎたのよ。

 だから自分の思い通りにならないことが起きたからってだだをこねるような真似、カッコ悪くてできなかった。本当に欲しいものが相手なら、ちょっとくらい感情的になったっていいと思うけど……。


 ともかく冷静を装った彼は、「そうなんですか」なんてそっけない返事を返しながらも必死に考えたわ。

 佐々塚さんが引っ越し先でもお店を開いてくれれば通えるんじゃないか、月に一回ならお金も足りるんじゃないかって。

 でも現実的じゃなかった。彼女の引っ越し先は飛行機でいかないといけないところだったのよ。


 なんとかならないかと頭を捻った元木くんは、それなら、と思いついたわ。


 いつも使ってる元木君用のスクラブ。あれを譲ってもらって自分でケアをすればいいんだって。足りなくなったらまた作ってもらえばいい。それくらいのお金なら出せる。

 万事完璧だと思った元木くんは顔を輝かせてスクラブを売ってくれないかと頼んだわ。


 でもね、佐々塚さん、ダメだっていうの。あれは秘密のレシピで作っているものだから他人には渡せないって。

 元木君が一生懸命になって、製法を探ったりしない、他人にも使わせない、お金なら出すって迫っても、彼女は頑としてうなずかなかった。これまでずっと柔らかな物腰で控えめな態度を保ってきた佐々塚さんが、断固断り続けるの。

 それどころか、すがるようにして頼む元木くんを迷惑そうな目で見て、とにかく決まったことだからお引き取りください、なんて言って追い出してしまった。


 元木くんは今度こそむかっぱらが立って仕方なかったけど、ドアを叩いて騒ぐような真似もできず、すごすごと帰るしかなかったわ。


 絶望的な気分だった。それはそうよね、今までずっと苦しんできた悩みがきれいっぱり解消したと喜んでたら、その幸せを取り上げられてしまうんだもの。なまじ一度満足させられると、不幸に戻るのはいっそう苦しくなるものなのよね。


 エステの帰りはいつも幸せいっぱいだった元木君だけど、その日ばかりはまるで気分が晴れなかった。

 月末まであと二週間もなかったの。二週間ではさすがにお小遣いも貯められない。次にニキビができたときにはもうどうすることもできない。

 お先真っ暗に感じられたわ。


 端から見れば大げさな物言いよね。エステに通い始める前に戻っただけだと思えばいいのに。

 元木君も誰かに相談できていれば、そんな簡単なことくらい気づいてたかもしれない。

 でも彼はどこまでも見栄っ張りだったのね。ニキビを指摘されることすら嫌がっていたんだもの。ニキビを治してくれるエステがなくなるから落ち込んでる、なんて誰にも言えるわけない。


 ただ、彼には一人だけ仲間がいたわ。

 エステを紹介してくれた倉石さんよ。

 元木君はあのときと同じように、倉石さんと話せたら、と思ってた。倉石さんだってあのお店に通って肌をキレイにしてもらってるはずんなんだから、閉店するって知ったら自分と同じようにショックを受けるはずと思ったのね。

 でもやっぱり自分から積極的に声を掛けに行くことができずにいた。


 進歩のない元木君だけど、どうやら運は悪くなかったみたい。

 またしても都合のいいことに、倉石さんと話すチャンスが訪れたの。授業で使う教室が空くのを待つほんの数分の間、倉石さんが一人で窓際に背中をもたせかけて立っているのを見かけた。周りには彼女の友達も元木君の友達もいなくて、話しているのをみとがめられる心配はなさそうだった。


 彼、思い切って倉石さんに声をかけたわ。もちろん、何気ない日常会話を装って、自然な口調でね。


「あのお店閉店するんだって、知ってた?」


 倉石さんも自然に反応してくれた。ああ、と残念そうな声が返ってきて、元木君は共感を得られたと嬉しくなっていたわ。


「みたいだね。今日予約してるんだけど、これで最後になっちゃうな」


 倉石さんと交わした会話はそれだけだった。

 彼女の方は、残念は残念だけど元木君ほど絶望的な気分になってはいないようだったわ。

 でもそのときの元木君には、倉石さんの気分なんかよりももっと重要なことが頭に浮かんでいたの。


 人は追いつめられると本性が出るっていうけど、本当だとしたら元木君の本質はとっても悪い子。

 彼ね、倉石さんの施術中にエステに忍び込んで、スクラブを盗んでやろうと思いついたのよ。


 面と向かって抗議することはできないのに、見られずにこっそりやるなら悪いことでもできてしまうのね。

 元木君、佐々塚さんが施術中に部屋のドアにカギをかけていないのを覚えていたの。元木君が男性だから開けておいたのかもしれないけど、きっと倉石さんへの施術中も同じだって思い込んだわ。


 スクラブを盗んだってどうにかなるわけじゃないのにね。だって、使い切ってしまったらそれで終わり。佐々塚さんは容器がなくなれば気が付くだろうし、盗む人間がいるとしたら誰かもすぐ分かるでしょうに。

 でも元木君、都合の悪いことには少しも気が回らなかったの。最後に会ったときの佐々塚さんの態度が気に食わなかったこともあって、彼女に仕返ししてやろうっていう悪意を持ってしまっていたんでしょうね。


 その日の放課後、元木くんは実際に倉石さんの後をつけたのよ。

 倉石さんは怪しんだ様子もなく、振り向くようなこともせずまっすぐ歩いていくだけ。行き先は分かっているから、さして苦もなく彼女がCourbetのドアに入っていくところまで見届けることができたわ。


そこまでやって我に返ればよかったんだけど、そうもいかなかったのね。

 元木くんは二人が消えていったドアに忍び寄って、耳をつけてみた。話し声は聞こえなかった。きっともうリビングの方に入っていったのね。元木くんはドアの取っ手に手をかけるとゆっくりと下ろして、おそるおそる引っ張ってみた。思っていた通り、鍵はかかっていなかったの。

 元木くん、内心でガッツポーズをしたわ。このときにはもう泥棒することをためらいもしていなかった。

 なにしろ都合よくことが進んでしまっているんだもの。倉石さんを見失ったとか玄関が開かなかったとかの障害があればあきらめるきっかけになったでしょうけど、運良く、というべきか、万事うまくいってしまったの。


 でも彼は焦らなかった。カウンセリングと佐々塚さんの準備が終わらないと施術が始まらないのを知っていたからね。だからその場で、周りに誰も通りかからないことを気にしながらもじっと待ったの。

 十分もしないくらいして、部屋の中からかすかにアコーディオンカーテンがレールを滑る音がした。きっと倉石さんが着替えを始めた音だと思って、元木くんはじっと我慢したわ。

 せっかちな彼だけど、このときは妙に忍耐強かったの。そういうところも彼のずる賢さなのよね。

 悪いことをしているから、失敗したら自分が大変な目に遭うから、慎重に行動できる。呆れた防衛本能だわ。


 息を殺して待っていると、再びカーテンの音が聞こえた。きっと佐々塚さんがリビングに戻って施術を始めるところ。

 元木くんは今だと思って、またゆっくりとドアの取っ手を引き、音を立てないよう慎重に開いてみた。ほんの数センチだけ開いた隙間から、部屋の中を覗き見る。廊下には誰もおらず、右側の部屋のドアも閉まっていた。

 そのまま耳を澄ませると、部屋の奥の方から女性二人の話し声が聞こえたわ。


 チャンスだった。


 元木くんはゆっくりとドアを引っ張り、最低限の隙間だけをあけて体を滑り込ませた。音を立てないようにドアを閉める。


 とうとう不法侵入成立ね。

 元木くん本人はアドレナリンが出て異様に興奮していたわ。


 彼はかかとを踏んだ状態にしておいた靴を脱いで片手に持つと、廊下に上がった。

 二人の話し声は今は聞こえなかったけど、こちらに来るとしたらアコーディオンカーテンの音がするはず。元木くんは息を殺して廊下の右側にあるドアに忍び寄り、取っ手を握った。

 鍵がかかっているかも、と今さら嫌な予感がしたけど、まるで問題なかった。ドアはきしむ音ひとつさせず、するりと開いたの。


 元木くんは目を輝かせて滑り込み、中からドアを閉めた。

 もう一安心、と胸を撫で下ろしたわ。施術中に佐々塚さんはここに来ないと思っていたからね。


 部屋は間接照明のような薄明かりが点っていて、それからずいぶん涼しく感じたわ。

 真夏というわけでもなかったんだけど、その部屋は冷蔵庫みたいに冷えきって感じた。まるで私たちのいるこの部屋みたいにね、ふふ。


 ともあれ、これで落ち着いて目当てのものを探せる――期待で胸が高鳴っていたわ。


 部屋に入ったところには目隠しのようにカーテンがかかっていて、奥に何があるのか入り口からは見えなかった。アコーディオンカーテンじゃなくて普通のカーテンだから、気を付ければ音を立てる心配もなさそうで幸いだったわ。


 元木くんはゆっくり手を伸ばしてカーテンをかき分け、部屋の奥を覗いた……。


 カーテンの向こうを目にした元木くんは、思わず息を飲んだの。


 そこに、人の顔がいくつもいくつも吊るされていたんですもの。


 正確には顔の皮ね。

 ただのフェイスパック?

 いいえ、違う。

 土気色の肌に、毛穴やほくろ、ニキビや吹き出物ののった生々しい皮膚なの。


 表側はまだ特殊メイクのマスクだと言われたら信じられたかもしれない。でも裏側はダメ。ベッタリと濃い血の色をした皮に、毛細血管か神経か分からない細かな筋が網目上に走っている。

 血が滴っていたわけではないのよ。むしろ丁寧に洗浄された後のように見えた。


 壁から壁へ何本も糸が張られていて、顔の皮たちはそこに吊るされていたの。ちょうど写真家が暗室で現像した写真を乾かすみたいにね。


 元木くんは総毛立ったわ。

 そうして理解したの、佐々塚さんのエステは比喩じゃなく本当に皮膚を新しくするものだったんだって。古い皮膚を丸ごと剥がして、新しいキレイな皮膚を被せ直してるんだって。


 だって見つけたんですもの。


 吊るされてる顔たちの中に、嫌というほど見慣れた自分のニキビ顔をね。


 彼、いったいどんな気分だったと思う?


 自分ならどう思うかしら?

 怖くて立ちすくむ?

 こんなところに泥棒に入った愚かさを後悔して逃げ出す?

 それとも、今まさに顔を剥がされてるであろう倉石さんを助けに行く?


 元木くんはね、ただ興奮してたのよ。


 とても嬉しかったの。

 だって仕組みが分かったんですもの。佐々塚さんのエステがなくなっても自分の肌を自分でどうにかできるんだって喜んでたのよ。


 お目当てのものも見つかったわ。


 部屋には糸が張られている他にも金属のラックが並んでいたんだけど、その中に見覚えのある薬箱がしまってあるの。

 化粧品がワンセット揃った元木くん用のエステセットね。そこには自分のイニシャルのラベルが貼ってあって、中を覗いてみればやっぱり見覚えのあるガラス容器が入れられてる。


 元木くんは目を輝かせてケースを手に取ると大切に抱えて部屋から持ち出した。

 そのときは興奮の方が勝っていて、見つかったらどうしようっていう警戒心も忘れてただ普通にビルを出たっていうわ。

 ひょっとしたら佐々塚さんたちは物音に気づいてたかも知れないけど、呼び止められることも追いかけられることもなく元木くんは無事に帰宅したの。


 自分の部屋にたどりついた元木くんは、誇らしいほどの気分で腕の中の戦利品を見下ろした。

 さっそく使ってみようって楽しみで胸がいっぱいだったわ。


 取手のついた木製の薬箱を開けて、中のものを一つずつローテーブルの上に取り出してじっくり確かめた。

 きれいな色の背の低いガラス容器がいくつか。青緑のものがいつも最初に使うスクラブね。


 その瓶の隣には、透明のビニール袋に入った白いガーゼとメスがちょこんと据えられている。


 元木くん、迷わずそれらを手に取ったわ。


 青緑色の瓶の蓋を開けると、嗅ぎなれたハーブの香りが立ち上る。

 メスの背をバターナイフみたいに使ってその白いペーストを掬い上げると、テーブルの上のスタンドミラーをのぞきながら丁寧に顔に塗り広げていった。頬から顎、額、眉間も小鼻もぬかりなくね。

 これを塗ることできっと皮膚が柔らかくなって、きれいに剥がせるんだろうって思ってた。だから厳密にはスクラブじゃなくてマッサージクリームみたいなものなんだろうってね。


 クリームを塗り終わって一息ついたら、いよいよ仕事に取りかかったの。


 メスを持ち替えて、刃の部分で試しに自分の指をつついてみる。

 押し当てても皮膚は弾力を返してくるだけだったけど、スライドさせてみたらスッと細い亀裂が入った。

 切れ味には問題なさそうだったわ。

 それにほとんど血も出ず痛みもなかったのに少しほっとしたの。佐々塚さんはプロだから上手かったかもしれないけど、素人の元木くんがやるんだもの、痛かったら嫌だものね、ふふふ…。


 元木くんは鏡とにらめっこしながら、まずは輪郭をとっていくことにしたわ。

 部分ごとにやった方が確実だったかもしれないけど、マスクみたいにいっぺんにキレイに剥がせた方が気持ちいいでしょ?


 右手に持ったメスの刃を左のこめかみの辺りに当てる。顎の骨に沿って慎重に切れ目を入れていった。

 指で試したときと同じように、よく見れば辛うじてわかる程度の細い亀裂が皮膚をたどっていく。


 左頬の輪郭がとれたら、一度確認することにしたの。

 メスの刃を亀裂に食い込ませてちょっと持ち上げてみて、皮膚が肉から分離することを確かめたのね。

 思っていたより抵抗があったわ。皮膚って顔に被さっているというより、細かい血管なんかでしっかり縫い込まれてるふうなのね。

 右手の指をそろえて第一関節から先を皮膚の切れ目に食い込ませて力を込めてみたら、なんとか剥がせそうだった。貼ってから長いこと経ってすっかり密着してしまったガムテープを強引に剥がすような感覚ね。


 いけそうだと思った元木くんは、再び輪郭に切れ目を入れる作業に戻ったわ。


 さっき顎の先で止めた亀裂の端っこにメスを入れて、そのまま右頬に滑らせる。

 途中で左手に持ち替えて、右頬からこめかみ、額へと刃を引っ張っていく。

 頭の周りの方が血管が多いのかしら、そっちに入れた切れ目には赤い血の筋がすうっと浮いてきたけれど、滴るほどではなかったから気にせず作業を続けたの。


 顔の輪郭をまあるくとれたら、次は目の周り。

 眉をどうするか迷ったけど、いつもは眉までクリームを塗られていたから、大丈夫なんだろうと思って眼球を囲む骨に沿って輪郭をとった。


 あとは口の周りだけど、彼、唇の荒れも少し気になっていたから、せっかくだから一緒に剥がしてしまおうと思って切れ目は入れないでおいた。


 そこまでできたら、後は剥がすだけね。


 元木くんはさっき剥がしかけた右頬の皮にもう一度手をかけて、慎重に力を込めた。

 顔の下側からいくか上側からいくか迷ったけど、上の方が血が出やすいのは分かっていたから、下からに決めたの。


 血が垂れたときのためにガーゼを手のひらに挟んで、右頬の皮を両手で丁寧に支えると、破れないようゆっくり慎重に持ち上げて肉から剥がしていく。

 めりめりいいながら剥がれていく感覚がなんだか気持ちよかったわ。

 そろえた指を下の方に少しずつずらしていって顎へ。顎を渡って反対側の頬まで達したら、顎から鼻に向かって皮膚を持ち上げていく。

 力をこめないと剥がれなかったけど、勢い余ってしまわないよう慎重に手を動かしたわ。


 顎を剥がしたらそのまま唇へ。

 唇もきれいに剥がれたのはいいんだけど、ここで元木君はしまったと思った。


 唇を剥がしていったらそのまま口の中の粘膜に到達してしまったの。

 唇と粘膜って地続きなのよね。このままだと口の中から喉の奥まで際限なく剥がれてしまいそうだったし、何より口の中には事前にクリームを塗って整えていなかったから、剥がそうとするとものすごく痛かった。指先のささくれを深く剥いちゃうと痛いのとおんなじ。

 やっぱりメスで口の周りにも切れ目を入れておくのが正解だったって後悔したわ。


 でもまあ、やってしまったものは仕方がないわよね。

 元木君はテーブルをまさぐってさっき置いたメスを取り上げると、指で挟んだ皮膚を引っ張って、唇の輪郭をすーっと切り裂いた。

 皮はうまく切れたわ。ちょっぴり剥がしすぎた口の中がじんじん痛んだから、後でリップクリームを塗ろうと思ったみたいよ、ふふ……。


 口の周りをなんとか剥がし終わったら皮を持ちにくくなってきたから、次は上から剥がしてきて合流することにした。

 鼻から下の皮膚をぶらぶら揺らしながら、右頬から額の方へ指先を食い込ませていく。

 目の周りにはしっかり切れ目を入れてあるから、こっちは問題なく行けるはずだった。

 だけど、こめかみをぺりぺり剥がしてみたら、やっぱりみるみる血がにじんできてしまってね、手のひらに持っておいたガーゼで血を吸いとって指が滑らないようにしながら作業を続けたわ。


 でも――ここまでだった。


 邪魔が入ってしまったの。


 元木くんの母親が、突然部屋に入ってきたのよ。

 無遠慮な音とともにドアが開いて名前を呼ばれたものだから、元木くん、ぎょっとして手を滑らせてしまったわ。


 せっかく丁寧に剥がしていた額の皮膚を、驚いた拍子で強引に鼻まで剥ぎ取ってしまったの。


 肉のちぎれる感触がして、熱湯がかかったような鋭い衝撃が走った。

 直後、顔がなんだかピリピリすると自覚してね、そのピリピリはすぐに激痛に変わっていった。


 炎が燃え広がるようにすさまじい痛みが顔中に広がったの。

 もうどこが頬でどこが額なのかも分からないくらい、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた痛み以外の感覚がなくなった。


 思わず痛みの源を手のひらで覆ったけど、触れるとさらに傷に塩を塗り込まれるような鋭い痛みが刺さって反射的に手を離す。

 どうしようもなくただ悲鳴をあげることしかできなかったわ。


 不思議よね、さっきまであんなに冷静に自分の顔を剥がしてたくせに急にわめきだすなんて。

 時間が経ってクリームの効果が切れたのかしら。

 もしくは彼の感覚を麻痺させていた興奮物質が驚いた拍子にすっと抜けて、現実の感覚に引き戻されてしまったのかもね。


 元木くんはすぐに病院に運び込まれたわ。


 一番怖かったのは彼の母親だったでしょうね。

 夕食に呼んでも返事がないからって様子を見に行ったら、息子か血まみれで自分の顔を剥ぎ取って泣き叫んでるんだもの。

 死ぬほど戸惑いながらもなんとか救急車を呼んで治療を受けさせてあげたの。




 ――彼、どうなったと思う?


 実はまだ入院してるの。

 顔の皮膚が治ったかはともかく、元気にはしているわ。

 親や医者に事情を聴かれて、全部正直に告白したのよ。やっぱり、泥棒に入ろうなんて決意してたときから思考回路がどうかしちゃってたって気づいたみたい。


 佐々塚さんのエステのことも話したの。化粧品を盗んだことも、それから彼女がお客の顔の皮を剥がして保管してることもね。


 うふふ、もちろん誰も信じなかったわ。


 元木くんの母親がお店に化粧品を返しに行って例の部屋の中を見せてもらったそうだけど、吊るされてたのはただのフェイスパックだったんですって。

 元木くんったら、佐々塚さんを恨みがましく思うあまり酷い見間違いをしていたのね。

 あるいは……元木くんが忍び込んでいたことに気づいた佐々塚さんが証拠隠滅してしまったのかも。薬箱の中にメスが入っていたのは事実だものね、ふふ……。


 でも真相は藪の中なの。

 彼女は予定通り引っ越してお店もなくなってしまったから。


 元木くんの顔はキレイに戻ったのか気になる?


 彼はキレイになったって言ってるわ。


 それなのにどうしてまだ入院してるのかって?


 当たり前なのよ。


 彼、頭がどうかしちゃったままなんだから。

 外科じゃなくて精神科に入院してるの。


 だってね、元木くん、自分の肌を見てちょっとでも気に入らない部分があると、すぐにまた皮膚ごと剥がそうとしてしまうの。

 顔だけじゃなくて、腕とか脚とか胸とかもね。


 一度顔を剥がしてしまったから癖になっちゃったみたい。


 鋭いものが手元になければ爪を使って皮膚に切れ目を入れて、傷に指先を食い込ませて肉から引き剥がすの。

 痛いのは分かってるんだけどついついやってしまう。それこそ、指のささくれや唇の割れた皮を手癖で剥いてしまうような感覚なのねえ。


 だから、彼の家族も看護師さんたちも、彼のことを見張ってるの。


 彼の肌にはどこにも問題ないって言い聞かせつづけてるの。


 ふふ……彼にとっては幸せな環境かもね。

 肌がキレイだって、みんなが褒めてくれるんだから。

 それが真実かどうか、彼自身には分からないんだけど。


 さ、私の話はこれでおしまい。

彼女の話が一番長いです。余計なディティールとコメントが多い。

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