48話「二面性のある真実」
ドカドカと荒々しい足音が廊下に響く。
人っ子一人いない屋敷の中を、長銃を抱いたまま駆け抜ける黒人の男。
彼は階段の手すりを使って滑り下り、踊り場にあった窓に飛びつくと、ドゥリカの姿をした時計の魔物は中庭を注視した。
すると、そこに目的の少女を発見する。
ネメス・ストリンガー。彼女は正面玄関から敷地外への門を通って逃走するため、中庭を抜けようとしていた。
「誰か……ッ! 助けてください! ヴィーレさん! イズさん! カズヤさん! お願い、助けに来てぇ~ッ!」
仲間を呼ぶための大声がかえって仇となる。
時計の魔物は少女の姿を捕捉したまま、窓の硝子を肘で割った。
「大馬鹿野郎が。ここにはもう生きている人間なんていねえんだよ。お前ら以外にはなァ~ッ!」
魔物はもう手加減をするつもりはなかった。
彼が今行っているのは遊びでも狩りでもなく、冷淡にこなされるべき仕事なのだ。
一階と二階の間にある踊り場からネメスの場所まではかなりの距離がある。きっと魔物の先の言も彼女には届いていないだろう。
現に少女は振り返らず、がむしゃらに足を動かしていた。
「追いかけっこには付き合ってやらねえ」
魔物は窓の割れた部分から銃口を彼女へ向ける。
いくら狙撃が得意といっても、走っている対象の頭部や脚部を最初に撃とうとするのは先手という有利に胡座をかいた者だけだ。
二度も出し抜かれた。もう手加減や油断はしない。
ドゥリカの銃を持つ手に力を込めて、ネメスの胴体へと照準を合わせる。
「撃ち抜くぜ」
引き金に指をかけた。
息を止める。ドゥリカ・ブラウンが集中するときの癖だ。
やがて、周囲の環境音を初めとした五感のノイズが脳から遮断された。
残っているのは、銃を扱うための研ぎ澄まされた触覚と、対象の動きを捉えるための狭小な視覚のみだ。
銃弾を放った時、魔物の耳には発砲音ですらどこか遠くで鳴ったもののように感じられた。
「ぐ、ぅぁ……ッ!?」
弾丸は標的の横腹を捉え、少女は呻き声をあげて地面に倒れる。
ブレーキも踏めぬまま慣性を殺さずに前方へと転んだネメスは、露出した膝や肘に派手な擦り傷を負うだろう。
だが、まだ死亡してはいない。意識も保っているようだ。
真の安息のためには完全に息の根を止めなければ。
「早めに見つけられて良かったぜ。この街はバカみてえに広いからなァ~。探すのに手間取っちまうところだった。ちょうど今の大賢者様みてえによォ~ッ!」
窓から中庭へと飛び降りる時計の魔物。
衝撃を殺すという考えなど頭の隅にも置いていない不格好な着地の後、彼はのらりと顔を上げた。
「……何だ、ありゃあ」
そこで魔物は奇妙な物体を遠方に発見する。
氷の塔だ。巨大な氷の柱が、タワーのような形を成して、街中にそびえ立っている。
(氷雪の呪文……。イズの仕業だろう。もう使い魔どもじゃあ足止め程度が限界だったか)
魔物は銃に弾を込めながらネメスの方へと歩いていく。
ネメスの位置から推測するに、彼女が目指していたのは件のオブジェだったらしい。
少女もそこにイズがいると踏んだのだろう。
街にあるどの建物よりも背の高い氷の塊は、初めてユーダンクを訪れたネメスからしても一目瞭然の道標だった。
「なるほど、分かったぞ。『塔を目印にしろ、私はここにいる』と、イズはテメェにそう伝えたかったわけだな、ネメス・ストリンガーよ」
後ろからネメスに近寄ってきた魔物は、言い終わると共に足を止めた。
「小癪な真似をする奴らだぜ。どうあったってテメェらはここから逃れられねえっつーのによォ~ッ」
弾丸を装填し、再び銃を構える。
「記憶の能力は最強だッ! 俺がイズ・ローウェルの記憶を読んで、この世界にテメェらを引き込んだ時から、勝敗はとっくに決していた! 万が一にも負けは無いッ!」
魔物の声が辺りに響き渡ると、激しい風が一陣吹き去った。周囲の静寂が彼の下卑た笑い声をより耳障りにする。
ネメスは脇腹を両手で押さえながら、苦悶の表情で寝返りをうち、相手の方を振り返った。
魔物が銃口を向けてきていることに一瞬の怯えを見せた彼女だが、すぐにキッと睨み返すと、精一杯の強がりを言い放ってくる。
「……神様から譲り受けただけの、借り物の力で調子に乗って楽しいですか?」
「それで他人の才能を揶揄したつもりかよ? 馬鹿か、テメェ。俺の能力は俺だけのものだ。借り物だろうが関係ねえ……。磨き上げたのはこの俺だッ!」
直後、発砲音。
同時にネメスの左大腿を弾丸が貫いた。
「~~~~ッ!」
鋭く熱い痛みに少女は声にならない悲鳴をあげている。
時計の魔物は恍惚とした顔でそれに傾聴していた。両手を広げ、空を仰いで、とても満足げな様子だ。
彼にはネメスの絶叫が勝利のファンファーレにでも聞こえていることだろう。
「そういえば、『神様』で思い出したぜ。テメェは熱心な信徒なんだったなァ~。父親が協会に勤めている人間だった影響かは知らねえが……」
無機質な装填音がネメスの耳に届く。
魔物は自信の頭を片手で撫であげながら、草花の香りと共に清らかな空気を吸い込んでいた。
一方で、ネメスが味わっているのは、転けたときに口へ入った土の苦味である。
「まあ、喜ばしいことじゃあねえか。神に祈るのがテメェの仕事なら、ソイツに会わせてやるのが俺の仕事だ」
魔物はそう告げるや、再度息を止める。これでネメスの始末を終えるつもりのようだ。
「あの世で神に仕えてな」
銃口を突きつける。あとは指に力を少し込めるだけだ。
ほんのちょっと人差し指を後ろに引くだけで、ネメス・ストリンガーの脳に穴を開けることができる。
「…………」
しかし、寸前のところまで来て、魔物は引き金を引けなかった。
散々ネメスに騙されてきたからだろうか。
自信を喪失したわけではないのだけれども、順調に事が進んでいることが、彼にはどこか妙に感じられたのだ。
それに、時計の魔物が躊躇った理由はもう一つある。
(何だ、このガキの顔つきは……。まるで絶望しちゃあいねえ。これから脳天に弾丸をぶち込まれるってときに、真っ直ぐ俺の瞳を見据えてきやがる……!)
ネメスを見下ろす魔物の顔が戦慄したように歪む。
(経験で直感したぜ。これはただ諦めてねえだけの奴がする表情じゃあねえ……ッ! 何かを企んでいる顔だ! 俺に一杯食わせる機会があることを確信している、小賢しい窮鼠の目つきだぜ……!)
彼の思っているとおり、ネメスの纏う雰囲気は、当初のオドオドとした子猫のようなものではなくなっていた。
酒場で見たイズと変わらぬ、戦う者のそれである。
少女もまた勇気を抱いていたのだ。
「……テメェ、まだ奥の手を隠しているなッ! 俺の裏をかいて、一発逆転を果たすための、得体が知れねえ作戦を!」
魔物はネメスを指差して焦ったように捲し立てる。
「アレだ……。あの氷の塔に秘密があるんだろ? 今度は騙されねえぞ。危うくミスリードされるところだったが、三度目の正直ってヤツだ! 猿知恵はもう通じねえッ!」
続けて彼の視線が移ったのは目印である氷の塔だ。
ネメスに向けられた単純な合図だと魔物は推測していたけれども、冷静に再考してみるとそんな訳がなかった。
だってそれは、大賢者が造った物なのだから。
「注意さえすれば簡単な話だったぜ。あのイズ・ローウェルが、目印を作るだけで満足して、ボーッと待機をしているわけがねえ。俺にも勘づかれるだろうことを承知で、奴はそんな賭けには出ねえ。運否天賦や他力本願を最も嫌う性格だしなァ~ッ」
彼は能力を使ってイズの記憶を読み取った。そのため、賢者の性格もある程度は理解しているつもりだ。
だから、今度は事前に相手の作戦を見抜くことができたのである。
イズ・ローウェルは己の強さのみを信じて生きている。
彼女が行うとすれば、それは仲間を信じて祈ることなどではなく、自らを信じて動き出すことだ。
「俺のけしかけた使い魔を倒し終えたとしたら、奴はすぐにでもテメェを探しに向かうはずだ。居ても立ってもいられねえって形相でな。そこで奴の起こした行動が、『膨大な魔力を消費してでも氷の塔を立てること』だった……」
相応の価値があると判断したからイズはそうしたのだろう。
目印を示すだけならもっと他にやりようはあったのに、敢えて氷雪の呪文を使用した。
「理由があるはずだ。うっかり見落としちまうような秘められた目的が……!」
魔物が二人の作戦を暴くのは時間の問題かと思われる。
だからだろうか。
「……あなたがわたしをイズさんの部屋に放置していたことにも、理由があったんですよね?」
不意に、これまで返事をしなかったネメスが、ここに来て初めて言葉を投げかけてきた。
だが回答は求めていなかったらしい。
出血による眩暈と激痛に耐えながら、息をぜえぜえと切らしつつも、仰向けで魔物を睨み上げてくる。
「きっと何か考えがあってのことだったんでしょうが……あなたが作戦を合理的にすればするほど、頭の良いイズさんはそれを読みやすくなるんです……!」
ネメスの発言を受けた瞬間、魔物の頭に一つの閃きが走った。
正確には、先まで半信半疑だった相手への疑惑が完全なる確信に変わった、と表現した方が良いかもしれない。
「やはりか! やはりイズは、テメェが自力で戻ってくることなんて、端から期待していなかったんだなッ!?」
奥歯までを剥き出しにして彼は叫ぶ。
恫喝するような質問にネメスは答えを寄越さない。それを魔物は無言の肯定と捉えた。
黒時計の仮説は的を射ていたのだ。
イズ・ローウェルとネメス・ストリンガーが暗に進めていた、勝利へ到達するための秘密裏な計画。
氷の塔に隠された二面性のある真実を。
時計の魔物は遂に看破してみせた。




