45話「イズ・ローウェルの私室」
パステルカラーで彩られた涼しげな部屋は、小さな子どもなら走り回れる程度の広さだった。
家具はどれも高価な物で揃えられており、出入口である扉の向かいには朝日を取り込むための硝子窓、他の壁の二面にはベッドと机がそれぞれ配置されている。
書類の多い一室だ。
教養の低い者には理解できない内容の論文や報告書があちこちに積み上げられている。汚いというより、散らかっているという表現の似合う場所だった。
午後である現在は陽光が差し込まないため、暗く涼しい。温暖なユーダンクでは比較的過ごしやすい造りだ。
紅茶の香りが仄かに残る『誰かの私室』。
そのような見知らぬ部屋にて、ネメス・ストリンガーは静かに目を覚ました。
「んぅ……。あれ、寝ちゃってたのかな……」
真っ白なシーツと高めの枕、ベージュの毛布に包まれた状態から、彼女は大儀そうに体を起こす。
「ヴィーレさん? イズさん? カズヤさーん?」
寝ぼけ眼を擦りながらそう呼び掛けてみるが、返事は当然返ってこない。
静寂がネメスの心をざわつかせる。
また捨てられたのかと、あり得ないはずの空想がノイズとなって、彼女の思考を阻害し始めたのだ。
痛む胸を片手で押さえ、服を不安げに握りしめる。これを鎮めるにはヴィーレやイズの姿を発見する必要があった。
「あれ……?」
と、そこでネメスはある事に気が付く。
彼女は自身の直感が正しいものであるかどうかを確かめるため、毛布を鼻の前まで持ってきてから、スンスンと子犬のように嗅ぎだした。
(このベッド、イズさんの匂いがする……)
羽毛のようにモコモコで、タオルケットのように薄い毛布をギュッと抱き締めるネメス。
目を閉じてベッドの香りに包まれていると、イズに寝かしつけられている時のことを思い出す。安心する匂いだ。
それによって、彼女は一定の平静を取り戻したらしい。
思いきったようにベッドから飛び出ると、周りをキョロキョロ見回しながら、部屋の中を探索し始める。
「みんなはどこに行ったんだろ。そもそも、ここは一体どこ?」
窓の外を見てみると、アルストフィアよりずっと建物の多い街があった。
高さから推測するに現在地は三階のようだ。
他の建物が一階や二階建てばかりだから、きっとネメスのいる住まいは豪邸と呼ばれるものなのだろう。
(アルストフィアじゃない。来たことはないけど、多分ユーダンク……だよね?)
次は机の方を調べてみる。
作業効率の良さそうな手広い空間は、例に漏れず書類の山と化していた。この部屋の主はどうも片付けが苦手らしい。
ネメスはそれらの内から一枚を手に取り、目を通してみた。
「ん~……。よく分かんない」
書類の読解は早々に諦める。内容へついていく以前に、読めない語句が多すぎたのだ。
が、そこで彼女は山の中に万年筆を発見した。
隣には本が置かれている。タイトルが無いところを見るに、ノートかその類いであろうと考えられた。
中身を読んでみようかと思ったネメスだが、先の失敗が再来するとの未来を直感して、まずは本の外装を調べてみることにする。
「『イズ・ローウェル』……」
すると、本の裏に見知った名前を見つけられた。
続いて中身にざっと目を通す。
やはり大半の内容は理解できなかったが、段落毎に日付が記されていることと、書かれている文字が全てイズのものであることくらいはネメスにも分かった。
「イズさんの日記? そういえば、ヴィーレさん達はユーダンク出身なんだっけ? ……ここはイズさんのお家なのかも」
ネメスは早々に自身の居場所を言い当ててのける。
どうやら教養が無いだけで、知性は低くないようだ。教育を受けていなかった身にしてはきちんと論理的に思考できている。
机の上を調べ終えた彼女が次に目をやったのは、鍵穴付きの引き出しであった。
ここがイズの部屋であると知れた今、これ以上の探索は不要かとも思われる。
が、ネメスは「もしかすると、どこかにヴィーレ達の行き先に関するヒントがあるかもしれない」と考えたのだ。
罪悪感を抱きながら引き出しの取っ手に指をかける。
申し訳なさを振り切るよう、両手で一気に開け放とうとした、その瞬間。
「おーい。ネメス、もう起きたか?」
少女の求めていた声が不意に彼女へ投げかけられた。
聞き間違えるわけもない。ヴィーレ・キャンベルの声だ。ようやく帰ってきてくれた。
「ヴィーレさん?」
ネメスは反射的に、驚き半分、嬉しさ半分で振り返る。
声がしたのは部屋の入り口付近。イズの私室から扉一枚隔てた向こう側。長い長い廊下の端。
そこに立っていた男の瞳は『赤』などではなく『黒』色であった。




