44話「将を射んとする者はまず馬を射よ」
焦げ臭い空気が辺りに満ちていく。
先にイズより唱えられた火炎の呪文。
その余波によって引火したカーテンから、椅子や客へと火が燃え移り、酒場全体が炎に包まれようとしていた。
周囲の人々は自身の体が火だるまになろうが、知ったことではないとばかりに雑談を続けている。
獄炎の店内。食事を楽しむ死者。そして、反撃の狼煙。
戦いは今、幕を開ける。
「『時計の魔物』……。古い文献で読んだことがあるわ」
熱を増していく酒場の中で、イズ・ローウェルは魔物と対峙していた。
「獲物の記憶から様々な事象を観測して、それらを再現する能力を持つ、神出鬼没の超危険生物。その能力の名は――――」
「《ローファイ・タイムズ》」
彼女からの言葉を引き継ぐようにして、ヴィーレに扮した時計の魔物は、己の能力を詠唱する。
直後、彼の姿は煙に包まれ、見覚えのある男へと変身した。
グレーのシャツに紺のアウターを羽織り、同色の作業服であるズボンを着用している。スキンヘッドと浅黒い肌が特徴的な男だ。
墨色のミリタリーブーツが床を叩く。
マスケット銃を慣れた様子で肩に担ぐ時計の魔物は、嫌にニヤついた顔でイズを見下していた。
「あんたは……」
「ドゥリカ・ブラウンだ。覚えてんだろ? テメェの記憶の奥底から這い上がってきたぜェ、イズ・ローウェル……!」
時計の魔物が化けた一人の銃士。
それは、三日前にイズ達と一悶着を起こしたハンター、ドゥリカ・ブラウンであった。
「へへへッ。まさかテメェが巷で有名な『大賢者様』だったとはなァ~」
ドゥリカになりきった魔物は舐め回すようにイズの姿を眺めだす。
が、それはうら若き生娘に向ける視線ではなかった。
例えるなら、狩りの獲物を見据える目である。これから仕留める対象を品定めしている殺人鬼に似た顔つきだった。
姿を変えた時点で治っていたのだろう。抉れていた彼の片目は、気付かぬ間に復活している。
「小娘が賢者を名乗るなんざ笑わせるぜ。大貴族の娘ってだけの理由でよォ~。そもそも、その御立派な二つ名でさえ、総合ギルドのボスである父親が得た名声のお下がりみたいなモンだろう?」
「黙りなさい。そういう戯れ言を吐かせないために、私はこの任務に参加したのよ!」
急に口数の増えた魔物の台詞をピシャリと止めさせるイズ。
それまで黙して相手の話を聞いているのみだった彼女は、図星を突かれて初めて不機嫌そうに声をあげた。
肩書きや身分、さらに父親の存在などのフィルターを通して、イズ・ローウェルという人間を語られたところが頭にきたらしい。
相手の肉体に意識を集中させるや、すぐさま呪文を詠唱する。
「《フローズンスノウ》!」
正面に突き出したイズの手のひらから、拳大の氷塊が連続でいくつも射出された。
先端の尖ったそれらは吸い込まれるように魔物のもとへと吸い込まれていく。命中すれば、貫通はせずとも簡単に引き抜けはしないだろう。
「無駄だッ!」
だが、その未来は訪れなかった。
銃を即座に構えるや、瞬く間に照準を定めて発砲する魔物。
彼の放った弾丸は氷の刃を弾き、砕き、貫いて、相手の攻撃を主のもとから逸らしてみせた。
まるで計算し尽くされたかのように完璧な射撃。それはドゥリカ・ブラウンが磨きあげた才の再現であった。
魔物は周囲で渦巻く炎に怯みもせずに、銃口の吹く硝煙の香りに陶然としている。
「この銃は使い手の魔力を弾丸に変える特別製……。排莢は必要だが、装填は不要の優れものさ。おかげで連射速度は段違いに向上した」
長く連れ添った妻を抱き寄せるように銃身を持ち直す魔物。
イズは理解不能な相手の態度に若干困惑の表情を見せながらも、戦闘態勢は崩さぬまま魔物の隙を窺っていた。
「見てのとおり、本来は狙撃用の銃なんだぜ。ただし、他のマスケットと違って、精度はかなり安定している。それに見ろよ。最高のフォルムだと思わねえか? 銃身をセクシーに感じたのは生まれて初めてだ。コイツを親である職人には心底から敬意を払うね」
魔物の愛銃自慢は止まらない。
ドゥリカ・ブラウンにとり憑かれたのかと、思わず錯覚してしまうほどの変容。
このまま彼をここに放って逃げたとしても、それに気付かず勝手に焼死してしまいそうなくらいの没頭っぷりだ。
けれども、そのような愚かしい賭けにイズが出るはずもなく。
段々と濃くなる煙の臭いに鼻を片手で覆いながら、彼女は至って常識的に、相手の言葉を中断させた。
「無駄話なら他所でやってくれるかしら。私はあんたの自慢を聞くために、ここへ連れてこられたわけじゃあないんでしょう?」
「……あぁ、いけねえ。この能力の悪いところでな。どうもコピーした奴の人格と、俺の本来の人格が混濁しちまうんだ」
イズの言で我に返った魔物は存外素直に指摘を受け止めた。
頭痛を鎮めるように額を片手で押さえている。
どうやら彼にとっては本当に困った症状であるらしい。能力の欠点を包み隠さず明かしたのは、それが弱点になり得ないと考えているからだろう。
時計の魔物は間もなく完全に自我を取り戻したようだった。
皮肉げにニッコリ笑ってみせると、すぐにイズとの駆け引きへ戻る。
「だがよォ~、イズ・ローウェル~。ここで俺との世間話に花を咲かせていた方が、テメェにとっても面倒が少ないんじゃあねえか?」
そう問うて偽ドゥリカはイズを爪指した。
「お喋りの最中にテメェが攻撃を仕掛けてこなかったのは、俺に隙が無かったからだ。記憶の能力を破り、この俺を打倒するというプランが、未だに立っていないからだ。だろう?」
彼の台詞にイズは返事を寄越さない。
実際、魔物の言ったとおりだったからだ。
ドゥリカの姿を借りてから、彼には抜け目が無さすぎる。数日前に会った時とは見違えるようだ。
(本物のドゥリカ・ブラウンも酔っ払っていなければ油断のならない相手だったかもね……。でも、素面だろうが魔物だろうが、私の勝利に変わりはないわ)
小さく呪文を唱え、氷の双剣を生み出すイズ。
魔物の話していたとおり、賢者は先ほどまで、相手をどう攻略したものかと、ジッと手を拱いていた。
けれども、今はもう違う。策は完成した。
(アイツがドゥリカ・ブラウンの戦い方でかかってくるなら、私はそれに合わせた戦い方をすれば良いのよ)
イズは双剣を逆手に構える。
魔物とはお互いに遠距離戦闘が得意な者同士。だけれども、現在は店内で向かい合っているという状況。
(相手は銃使い。魔力の弾丸を連射できると言っても、瞬間的な火力は呪文に必ず劣るわ。上手く追い込めば、アイツの懐に潜り込めるチャンスは作れるはず)
イズの狙いは銃が不利になるほど近くまで相手に接近することだった。
本物のドゥリカと比べると、記憶の能力という追加要素が存在するが、触れられなければどうという事はない。
具現化の力も魔力を消費する以上、あまり連発はできないだろう。
彼女はそう考えた。
(奴の弱点、心臓部分は『胸元にある黒時計』! アレくらいのサイズなら、筋力の弱い私にも、壊すことは十分可能よ……!)
ヒリヒリと熱が刺す肌の中で、氷の双剣を握る両手のひらは冷たく麻痺し始めている。
勝ち筋は見えた。それを実行するだけの体力と気力も、賢者にはまだまだ有り余っている。
後は上手く事を運ぶのみ。
だが、作戦を思いついたのは、何もイズに限った話ではなかったらしい。
「魔力とは『魂の値』だ」
時計の魔物はゆっくりと、賢者と一定の距離を保ったまま、目的もなく歩き始める。
「意志の力一つで、人は強くも弱くもなり得る。でも、理性で制御しなければならないほど、不安定かつ多種多様。それがテメェらの魂だ」
「何よ。今度は授業でも始めるつもり?」
「まあ聞け。……感情を持つテメェら人間は、希望や殺意などのような、何かに挑み、打ち勝とうとする感情を抱いたとき、魔力量を著しく上昇させる」
魔物は五歩ほど進んでは、ターンして元の場所へと戻っていくのをずっと繰り返している。
「反対に、恐怖や絶望のような、何かに立ち向かうことを諦める気持ちになったとき、魔力量は下がる傾向にある。そうだな?」
「あのね、私は気が短いの。要件は手短にまとめて言いなさい」
イズの制止に魔物の足はピタリと止まる。
燃え盛るテーブルの間を抜け、骸骨となりながらも話し続ける客や店員の横を通っても、なお真顔でいた彼の表情がそこで固まった。
「ハハハッ」
直後、無愛想に曲げられていたその口の端が、裂けんばかりに吊り上げられる。
「テメェの仲間達は今、どうしていると思う?」
「……まさか」
「その『まさか』だ。勇者と女男は別の魔物が相手をしている。きっと今頃、あっちは楽しいランチタイムだろうぜ」
魔物は瞳孔の狭まった瞳をイズに向けた。
彼の明かした情報は、イズがずっと心の内で懸念していたことである。
時計の魔物は一体のみで勇者達に攻撃をしかけたのか。ヴィーレやカズヤ、ネメスは今頃何をしているのか。パーティーの中で奇襲を受けたのはイズ以外にいないのか。
最悪のケースは想定していたはずだ。
だのに、いざそういった現実を突きつけられると、イズはもう冷静でいられなかった。
「この外道……ッ!」
仲間の命が危ういと分かった、この現状。
じっくりと相手を追い込んでいく暇はもうイズに無い。今すぐここで、眼前に立ちはだかる時計の魔物を始末しなければ。
さもなくば、何もかもが手遅れになる。
「消し炭になりなさい! 《パイロキネシス》!」
叫ばれた憤怒は爆炎となり、イズのマントをたなびかせる。
呑み込むものは例外なく焼き尽くさんばかりの業火。それを時計の魔物は回避するでもなく、ただ佇んで微笑を浮かべていた。
彼がとった行動といえば、『呪文』を一つ唱えたぐらいだ。
「《サモンナイト》」
瞬間、眩いばかりの閃光が辺りを包む。
イズの視界は白に包まれ、数秒の暗闇を経た後、ようやく平常のものへと戻るだろう。
その時、彼女はさらに顔を険しくさせた。
魔物の前に突如として出現した四体の『鎧』。それと先の詠唱とが結びつき、イズを一つの事実へと導かせる。
「召喚の呪文……!?」
「ああ。忘れていたわけじゃあねえだろ? お前の記憶に残っていたんだぜ。ドゥリカ・ブラウンの使役していた、鎧の異形の姿がな」
時計の魔物は得意になってそう言った。
彼を守護する四体の鎧は白銀の輝きを宿し、身の丈ほどもある盾とランスを構えている。その分厚い壁を破るのは楽な仕事ではなさそうだ。
ますます悪化していく盤面に、イズは焦りを隠せない。
(確かに気絶していたドゥリカの近くに崩れた鉄の塊を見たけど、まさか本当に召喚の呪文使いだっただなんて……。しくじったわ。魔物が彼の姿を借りた時点で、この事態は読んでおくべきだった……!)
抜かった。敵の知能を甘く見ていた。
油断せずに先の先を想定しておかなければならなかったのだ。相手は賢者であるイズの知識を手に入れたのだから。
無策で動けずにいるイズを嘲笑した表情で一瞥し、魔物はヒラヒラと手を振った。
「ヘッ。お嬢様は騎士と遊んでいりゃあいいのさ。その間、俺はテメェのお気に入りなネメス・ストリンガーに構ってもらうからよ~。テメェが絶望して弱りきった頃、また会いに来てやるぜ」
「最低……ッ! あんた、やり方がズルいわよ!」
「ズルい? おいおい、冗談キツいぜ。『不正行為』はテメェの方だろ。正義ってモンはいつ何時も、勝者のみにこそ与するんだからなァ~ッ!」
甲高く耳障りな笑い声が辺りに響く。
次の瞬間、ドゥリカ・ブラウンに変装した時計の魔物は、悠々と踵を返した。一体の使い魔を引き連れて、銃を肩に担ぎながら去っていく。
その姿を、イズはただただ見送ることしかできなかった。
彼女の目の前にいるのは残り三体の鎧。これらを倒さなければ、ネメスの救出へと向かうことはできない。
さらに、解しがたい問題はもう一つある。
時計の魔物と違って、イズはネメスの現在地を知らないのだ。
相手の動向を見るに、ネメスもこの架空世界へ連れてこられているであろうことは容易に推測できたが、それにしても場所が悪い。
ここはユーダンク。広大な王都である。
単独で、何の手掛かりもなく、たった一人の人間を探し出すのはまさしく至難だろう。
だが、それでも正解を見つけ出すしかない。
ネメス・ストリンガーを救うために。フタバ・カズヤを連れてきた責任を果たすために。ヴィーレ・キャンベルと交わした約束を守るために。
イズ・ローウェルは早急に、この問題を打開しなければならなかった。




