43話「未来からの贈り物」
それから少し前のこと。
イズ・ローウェルは精神的な疲労を感じながら、こんがらがった脳内を落ち着けるため、テーブルへうつ向けに上体を倒して休憩を始めた。
食事をするための店内で居眠りを始めるのは貴族として若干の抵抗があったが、いざやってみると案外悪くない気分である。
テーブルの冷たく硬い感触が肌に伝わってきて心地良い。
(まったく。それにしても何なのよ。さっきから続いている、この妙な感覚は……)
入眠がてら、もう一度だけ記憶の復元に努めようと、彼女はそのまま目を閉じる。
だが、やはり駄目だ。
果たして何を忘れてしまったのか。どう頑張って回想してみても、正答らしきものが出てこない。
イズが行っているのは、平たい壁を手のひらで触って、そこに描かれている絵を当てようとしているような、そんな無謀だった。
(覚えていないのに忘れられない……。探し物をしていたことは記憶にあるんだけど、探していた対象が何なのかを失念してしまった『あの感覚』……。アレに似ている。とてもムカつく気分だわ)
イライラした様子で眉をひそめるイズ。
テーブルと顔の間で組んだ両腕を額の下に置き、枕代わりにしてみる。そうしていたら、段々と眠くなってきた。
ちょうどいい具合の静寂がそうさせるのだろうか。
周囲の人々が何を話しているのか、ギリギリ聞き取れないくらいの空間だ。
前方に座る男が身動きをするような音はしないけれども、イズはそれを無言の気遣いであると捉えたらしい。
考え疲れた彼女は次第に大きくなっていく睡魔へと身を委ね始める。
しかし、それは控えめに響いた硬質な音によって阻まれた。
イズが着ていたシャツの胸ポケット。そこからテーブルの上に落ちた物体は、コロコロと転がってうつ伏せになった彼女の目の前までやって来る。
必然、下ろしていた瞼を開けたとき、イズの視界に入ったのはまずその丸っこい物であった。
(何よ、これ)
疑問に感じた彼女は片手を動かして落とし物を摘まみ、訝しげな表情で観察する。
仮眠のポーズから姿勢は変えないままだ。
突っ伏しているせいで彼女の眼前は少し暗かったけれども、全く何も見えないというほど照明が弱いわけではないからである。
もっとも一番の理由は、体を起こしてまた眠る姿勢に戻るのが億劫だったという、至極シンプルなものであったのだが。
イズは手の平の上へと移した落とし物を注視する。
(小石……? どうしてこんな物が、私のポケットに……?)
そう。彼女が落とした所持品は、指先に乗る程度のサイズしかない、奇妙な形の石ころだった。
何らかの生物をモデルにして変形させられた、ネメスからの贈り物。
アルストフィアの村を出発してから、すぐに行った買い物の後、日頃のお礼として彼女から貰った、イズの宝物である。
無論、その事を本人は既に綺麗さっぱり忘れているのだが。
(拾ったの? この私が、石ころを? 大切に持っていたということは、誰かから渡された物なのかもしれないけど……どっちにしても記憶に無いわ)
停止しかけていた自問が再び溢れ出す。
思い出そうとする度、イズの頭に釘を刺されたような痛みが走った。まるで真実へ到達することを阻止せんと言わんばかりだ。
だが、彼女はもう止まれなかった。
手放してはいけない、諦めてはいけないのだと、頭の片隅で根拠の無い警鐘が鳴っていたから。
(そもそもこの石の……微妙に不細工な形は、一体全体何なのよ? 生き物を象った物のように見えるけど……)
賢者は得体の知れない頭痛に襲われながらも推理を続ける。
もし件の石のモデルを言い当てることができれば、それが欠けた記憶のピースになると踏んだのだろう。
けれども、これが絶妙に分かりづらかった。
目と口と鼻があるのは誰にでも理解できる。しかし、口の横にある幾本かの線が髭か傷かは判別できないし、頭の上にある突起が耳なのか角なのかも判断に迷うところだ。
(何これ、全っ然分かんないんだけど。赤ちゃんの描いた落書きを眺めているような気分だわ……)
イズはありとあらゆる生物と石のデザインを比べてみたが、合致しそうなものは出てこなかった。
これまで解いてきたどんなパズルより難しい問題だ。
彼女がそうこうしている内に、脳の痛みはとうとう群発頭痛に匹敵するほどの異常な領域へと突入する。
耐えかねたイズは苦悶の声を押し殺しながら、当てずっぽうに候補を挙げていくことにした。
(エイリアン?)
違う。瞬間的に彼女はそう感じた。
それとほぼ同時に、まるでイズの直感を裏付けるかの如く、彼女の推測は『誰か』から強く否定される。
『違います! もっと愛くるしい生き物です』
イズより幼い声。受け取った覚えの無い言葉だ。
本当にそれが聞こえたわけではない。正確に述べると、過去に聞いた言葉がフラッシュバックしたのだ。
脳内に響いた何者かからの台詞は、イズ以外の周囲の者に届かない。未来の記憶の欠片を握ったことはまだ誰にも悟られていないのである。
(今の声は……)
イズは一瞬呆気にとられたが、取り乱しはしなかった。
懐かしい気持ちになってくる。不思議と、声の主である少女のことは信じなければならないように感じられた。
ずっと激しさを増していた頭痛が、徐々に治まっていくのを感じながら、イズはさらに問いを続ける。
(それじゃあ、亜人類かしら?)
すると、またも愛らしい声音が返ってくる。
『アジ……? もう、イズさん。これは⬛⬛⬛ですよ! ここが耳で、この窪みが両目なんです!』
肝心な部分は、記憶の欠片が埋まっていないようで、判然としない音質だった。
だけれども、イズは着々と真実を取り戻し始めていた。
名も覚えていない少女の、必死に訴えかけてくる声が、それをさらに後押ししてくれる。
(私は……この石のモデルを知っていた……?)
考察を進めるごとに、頭の中を弄られていたような痛みが薄れていった。
イズはもう石から目を離せないだろう。
(ええ、これはエイリアンや亜人類なんかじゃない。もっと身近で、可愛くて、私の大切な『誰か』が大好きだったもの。そんな気がする)
忘れていた少女のシルエットが次第にくっきりと浮かび上がってきた。
だが、まだ足りない。
見えているのはあくまで影のみ。少女の顔や髪や肌は、黒く塗り潰されているようで、深淵から出てきてはくれなかった。
こちらから明るいところまで掴み寄せなければ。
『そういう事なら、私について来なさい! お姉さんが責任を持ってあなたを守りましょう』
次に聞こえたのはイズ自身の声だった。
発した覚えの無い言葉。交わした覚えの無い約束。
力強い自分の声色に羨望のようなものが湧いたことで、賢者はさらに真相への関心を高めていく。
(忘れられないこと。忘れてはいけないこと……)
やはり、あったはずなのだ。イズ・ローウェルには。守護の誓いを立てた相手が。
そしてそれは、一人に対するものではなかった。
『私は自分を曲げない女よ。もう庶民なんかには守られない。むしろこれからは、私があんたを守り抜いてみせるわ!』
ヴィーレ・キャンベル、フタバ・カズヤ、そしてネメス・ストリンガー。
ピースを埋めていくにつれて、白紙だったジグソーパズルの上に絵図が現れてくる。それは先まで失っていた『過去の未来』。
取っ掛かりは掴めたのだ。
(そうよ! 私には、守ると約束した仲間がいた!果たすべき責務と、貫くべき信念と、成し遂げるべき目標があったのに……!)
悔しさに歯噛みするイズ。腹の煮えくり返る思いとは、この事を言うのだろう。
彼女は小石を片手で強く握りしめた。
(思い出したわッ! 今度こそ、完全に! これは、この石が象っている生き物は――――!)
瞬間、イズは反射的に上体を起こす。
「『猫』よ……ッ!」
顔を上げると、そこには今まさにこちらへ刃を振り下ろさんとしているヴィーレの姿が。
「なッ!?」
彼は想定外の事態に思わず硬直してしまっている。それは、賢者が攻勢に転じるには十分すぎる隙であった。
「《フローズンスノウ》!」
氷雪の呪文をイズが唱えた刹那、魔物の顔面に拳よりも一回り大きい氷の礫がぶち当たる。
不意を突かれ、防御する間もなく攻撃を受けた偽ヴィーレは、店の窓際まで吹き飛ばされた。
周りの観客はイズ達の方を見向きもせず、依然として会話を続けている。その不気味な光景こそが、ここが異常な空間であるという、何よりの証明になっていた。
魔物の作戦は裏目に出たのだ。
こうなるともう手遅れだった。再び記憶の能力を使っても、賢者に対して修正は効かないだろう。
イズは知ってしまっている。目の前にいる男が本物のヴィーレ・キャンベルではない事を。
そして、これから彼女がやるべき事も。
『わたしが猫さんを好きなこと、覚えていてくれたんですね!』
いつか、どこかで耳にしたネメスの声が、嬉しそうに語りかけてくる。
「……ふんっ。記憶力が悪いと思われるのは心外だもの」
イズは当時の出来事を思い返しながら、拗ねたような口調で返事を寄越す。
どうやら、ヴィーレがネメスに猫のぬいぐるみのプレゼントをした時、彼女は密かに妬いていたようだった。
少女は勇者の贈り物を受け取った瞬間、本当に嬉しそうな顔をしていたのだ。
服から靴までを買い揃え、武器に玩具まで買い与えてあげた時よりも、ずっと。
ネメスの最も喜ぶプレゼントを渡したのが自分ではなく、より真剣に他人を観察することに長けているヴィーレだったと知って、イズは心底悔しかったのだろう。
だから、彼女は忘れられなかったのだ。
頼られる存在としてヴィーレに先を越されたのが不服だったから。
たったそれっきりの事が、記憶を復元する最大の要因であったというところは、実に実にイズらしい。
執念深い負けず嫌いほど厄介な存在はそうそういないだろう。
「やっぱり『魔物』だったのね」
酒場の隅で顔を押さえている偽物のヴィーレへ、イズは蔑むような視線を送った。
時計の魔物は片足を地面についてイズを睨み返している。
「記憶を軽く弄られていたようだけど、何もかも思い出したわよ。さっきまで森の中でランチをしていたことも、あんたから不意打ちを受けたことも、仲間達の名前や顔も、確かに全部覚えている!」
イズはゆっくりと席を立ち、テーブルから離れると、魔物の間合いに入らぬよう警戒して距離をとった。
しかし、逃げるつもりは更々無い。
「賢者の私から記憶を奪おうとするだなんて、最高の侮辱をしてくれたわね……!」
そこまで告げた頃には既に、イズの憤怒は制御不能なほどに高まり、大きく膨れ上がっていた。
「《パイロキネシス》!」
彼女は相手の返事も待たずに火炎の呪文を詠唱する。
瞬間、業火が辺りに迸った。それは屈んでいる魔物の全身を呑み込まんと、明確な殺意をもって迫り来る。
が、時計の魔物は寸でのところで横方向に前転回避して、一時的に難を逃れた。
彼のいた場所は真っ黒に焼け焦げている。
あらゆるものを溶かす熱量を伴った火炎。それは簡明率直にイズの魔力量を示していた。
どうやら怒りの感情が昂り、凄まじい勇気と殺意を抱いたことによって、魔力量が短期的に跳ね上がっているようだ。
「憤懣やる方無いといった様子だな……」
あくまでヴィーレの声と口調でそう話しつつ、時計の魔物は平然と立ち上がった。
先ほど氷をぶつけられた右目は血の涙を流したまま閉じられている。ヴィーレ・キャンベルの姿でいる限り、眼球はもう使い物にならなさそうだ。
けれども、『それが何だ』という風に、魔物は両手を広げてみせる。
「で、どうするつもりだ? まさかもう勝ったつもりでいるわけじゃあないだろう?」
「ええ、勿論。まだまだ怒り足りないもの」
体の周りに火の粉を舞わせてイズは言う。
イズの記憶を能力で読み取った時計の魔物だが、彼は一つだけ重要な事実を見落としていた。
賢者の仲間である勇者達は早々に勘づいていたけれども、感情というものを『情報』としてしか知らない魔物は、未だに理解できていなかったのだ。
イズ・ローウェルという女は、怒らせたら手に終えない存在なのだという事を。
少女は睨むような流し目を相手へ向ける。
「自分の入る墓は用意してきたんでしょうね?」
ドスの利いた声でそう告げて、大賢者イズは手のひらの上で揺れていた炎の芯を握り潰した。




