42話「時計の魔物を討ち滅ぼせ」
時計の魔物。
その名を聞いたことのある者さえごく少数で、実際に目撃した人間は記録上、過去に数人程度しかいないと言う。
魔物の専門家やマニアの間でも認識の薄い、知る人ぞ知る存在だ。
その実体は、ただの懐中時計である。吸い込むような黒の輝きで人を惑わし、触れた者の『時間』に介入することで、それは異能を発揮する。
能力の性質は『記憶』。
生物に触れると、対象の記憶にある事象を再現したり、相手の記憶そのものを改竄したりすることができる。
曖昧さを払拭するため、ここで一例を紹介しておこう。
例えば、先ほどイズに接触した時計の魔物は、魔王の命により勇者達四人を始末しにやって来たものだ。
それは蜘蛛の魔物と結託し、イズ・ローウェルの時間に触れた。
彼女の記憶を読み取り、ユーダンクの世界を再現して、そこにイズとネメスを二人とも引き込んだ。
男性陣は蜘蛛の魔物に仕留めさせるつもりらしい。
時計の魔物は現在、単身でイズと正面から向かい合っている。待ち合わせ場所である酒場の中で。
ヴィーレの姿を己に投影し、店の最奥にある席へ着いていた。
暖色系の照明。光沢がある革の椅子と、拭き忘れの汚れ一つ無いピカピカのテーブル。全体的にレトロを感じさせる内装で整えられた店内。
静かで落ち着いた雰囲気を演出するエールとワインの香り。過去に則って動くだけの店員やお客。
それらをあらかじめ用意しおいて、初日のシチュエーションとほとんど変わりのない現状を、魔物は創ってみせたのだ。
「イズ」
満を持して、彼は賢者へ呼び掛ける。
勇者のそれと瓜二つな声を耳にした瞬間、ボーッと虚空を眺めていたイズの瞳が焦点を捉えた。
「えっ? あ、あぁ、ごめんなさい。考え事をしていたわ」
「何だ、重要なことか?」
「分からない……。けれど、さっきから心が変にモヤモヤしているの。忘れ物でもしてきたのかしら」
「かもな。まあ、頑張っても思い出せないってことは、どうでもいい内容だってことだろう」
「うーん……。賢者ともあろう私が、忘れ物の正体にすら思い至れないなんて……」
イズは不服そうな顔で薬草ジュースに口をつけた。
忘れ物とはつまり、本物のヴィーレや、ネメスや、カズヤの事だろう。
記憶の捏造に綻びが出てきているのだろうか。少なくとも、まだ完全には忘却が成されていないようである。
しかしながら、イズが未来の思い出を手放し、新しい世界に呑まれてしまうのは時間の問題だろう。
一方で、賢者の記憶を得た時計の魔物は、知能という点において目覚ましい成長を遂げていた。
(コイツと一緒に引き込んだネメス・ストリンガーは、イズの記憶にある『別の場所』へ置いてきた……)
それは触れた者の言語を学び、技術を習得し、知恵を吸収していく。
(双方ともユーダンクに存在するが、二人が偶然に巡り会うことは決して無い。能力で再現した『架空の世界』とはいえ、王都と呼ばれるほど大きな町だからな)
ヴィーレに扮した魔物は内心でほくそ笑んだ。
しかし、表面的にはあくまで普通に、無表情を貫いている。冷静沈着なのは、イズから見たヴィーレの印象に即した結果だろう。
テーブルの上に並べてあったスープを一口、スプーンで啜る偽ヴィーレ。
落ち着いた所作で食事に興じていた彼は、話題を別のものへと逸らすべく、再びイズに話しかけようとした。
「ところで、イズ。お前は――――」
「そうよ! ネメスとカズヤだわ!」
だがそれは、唐突に発せられた彼女の台詞により、中途のところで阻止される。
「……は?」
「私達にはエルの他にも仲間がいたじゃない! ねえ、あんた。ネメスとカズヤは一体どこに行ったの?」
眉をしかめて聞き返した魔物へ、イズはもう一度丁寧に言葉を付け足して、そう尋ねてきた。
思い出そうとしている。本物の過去を。
相手へかけたはずの能力が急速に弱まっていくのを、魔物は瞬時に直感した。
幸い、まだイズの中には『矛盾した二つの過去を知っている』という自覚が無いようだ。だけれども、このままではいずれ、真実に気付かれてしまうだろう。
ほんの一部とはいえ、彼女は正しい歴史を取り戻してみせたのだから。
(断片的な記憶を辿って、本物の過去を思い出そうとしている……? 冗談だろ。なんて女だ。素の記憶力だけで、俺の能力を破ろうとしているのか……!)
これには時計の魔物も少々驚かされた。
いくら頭の出来が良いとは言っても、相手は人間なのである。
記憶の捏造にわずかばかりの綻びがあったところで、そこから真実に到達することは無いだろうと、彼は高を括っていた。
過去を読み取った際、賢者の中に感じた『仲間への想い』と『記憶への執着』。
魔物はそれらの強さを見誤ったのだ。
しかし、すげなく述べてみせると、それだけである。時計の魔物は致命的なミスを犯したわけではない。
挽回の余地は十分にある。
(大丈夫だ。まだ慌てるような時間じゃない。コイツは徐々に記憶を取り戻そうとしているが、俺が偽物だという事実には、未だ気付けずにいるのだから)
ヴィーレと瓜二つの無表情を貫いたまま、魔物は心中で自身にそう言い聞かせた。
沈黙を不自然なものに感じさせないため、イズの言葉へ応える前に、あらかじめ頼んでいた薬草ジュースを彼は初めて口に入れた。
激マズだ。魔物はわずかにダメージを受けた。
だが、あくまで表情には出さないまま、彼は肩を竦めてみせる。
「ネメス? カズヤ? 誰だよ、ソイツら」
「……何を言っているの。ふざけないで」
「ふざけているのはお前の方じゃないか。俺達は三人で魔王討伐に向かう予定だったろう」
時計の魔物は冗談を笑い流すような口調で応えると、イズの肩に左手を置いた。
「なあ、教えてくれよ。ネメスやカズヤってのは、一体誰のことを指している? どんな奴だ。説明してみろよ」
敢えて挑発するように彼は問う。
その態度がまたイズの癪に障ったらしい。彼女は露骨に眉をひそめる。
「いい加減にして! ネメスとカズヤは、私達の大切な……!」
少女は相手の手を自分の手の甲で払いのけると、苛立ちを隠すことなく声を荒げた。
「……あれ?」
が、その台詞は途中で止まってしまう。
「誰……だっけ……?」
イズは困惑を表情に滲ませながら額を片手で押さえている。
ボケているわけではない。度忘れしたという風でもなかった。
それは紛れもない喪失だ。彼女はどうやら本当に、寸前のところで本物の記憶を取り戻せなかったらしい。
無論、そう仕向けたのは時計の魔物だった。
(惜しかったな。だが、この忘却から脱却することは、何人たりともできやしない。貴様の命はここで朽ち果てるのだよ、イズ・ローウェル)
彼は前に乗り出していた身を引いて、再び椅子に深く腰掛ける。その表情は心なしか不敵に映った。
(『ローファイ・タイムズ』。この能力の名称だ)
先ほどイズの肩に触れた時である。
あの時のたった数秒で、時計の魔物は能力を賢者にもう一度かけ直した。
魔物の扱う能力は人間の呪文と違って詠唱を必要としない。そのため、相手に発動を気取られないという利点がある。
今回はそれが賢者へ不利に働いた。
(大蜘蛛が扱う幻想の能力『レッドパージ』は、一度嵌まったら抜け出せない。まさに沼のような異能。だが、俺のローファイ・タイムズを食らった獲物は、沼へ嵌まっていることにすら気付けない)
塗り潰されてしまった。
せっかく掴みかけた『未来の記憶』を、賢者は無理やりに奪い取られてしまったのだ。
彼女はもう何も覚えていない。それこそ、ネメス本人に直接会わせるような事でもしない限り、傷一つ付かない強固な隠蔽を施されたのだ。
当然ながら、時計の魔物はもう二度とそのようなミスを犯してくれないだろう。
(流されていけ。虚構という名の濁流に)
魔物は脚を組み、相手にバレないようほくそ笑む。
だが、慢心はいけない。
これは彼にとってのチャンスなのだ。畳み掛けるべき局面である。勝利はもうすぐ傍まで近付いているのだから。
偽ヴィーレは「やれやれ」といった風に首を振ると、依然として混乱している様子のイズへ声をかける。
「参ったな。妄想と現実の区別がつかなくなっているんじゃないか?」
「う、うっさいわね……!」
対して、顔を真っ赤にしている割りに、相手へろくな反論もできなくなっているイズ。
己の犯した失態を恥じているようだ。何を忘れたのだろうかと、まだ無謀な回想に挑んでいるのかもしれない。
いずれにせよ、彼女の精神状態はもうずっと休めていない。
「どうにも引っかかるわ。さっきまで何かを思い出そうとしていたんだけど……。探し物の存在すら忘れてしまったみたい」
「はぁ……。イズ、お前、ここに来てからずっとおかしいぞ。知恵熱の出しすぎで風邪でも引いたんじゃないのか? もしくは自覚が無いだけで、本当に緊張してストレスが溜まっているのか、だ」
「……そうね。ちょっと疲れているのかも」
「しばらく眠っていろよ。エルが来たら、奴から寝顔を見られる前に、俺が起こしてやるからさ」
「助かるわ。そうして頂戴」
イズはそう返事をしてから、わずかな逡巡を挟んだ後、自分の分の皿やグラスを片付け始めた。
大貴族の娘が人前で、しかも食事の場であるにも拘わらず、これから居眠りをしようというのだ。
周りの目を気にしているのだろう。
テーブルの空いた場所に覆い被さるような形で突っ伏すまでは、彼女は落ち着かない様子で他の客を盗み見ていた。
音楽の流れていない店内で、他人の話し声を眠り歌代わりに仮眠を開始するイズ。
しかし、魔物にそう思わせたところで、彼女は不意に顔を上げる。
「あんた、私の寝顔を覗き見たりしたらぶん殴るわよ」
ジトッとした目で偽ヴィーレを睨んでくる。
賢者は「あくまで庶民相手には気を許さない」というような態度を見せた後、再び睡眠態勢へと戻ってしまった。
(……さて、仕事の時間だ)
イズが身動きをとらなくなったのを確認してから、時計の魔物はゆっくりと、右手に握っていたスプーンを皿の上に置く。
人目のある場所で、暗めに調節された照明。うるさすぎない客の話し声。おまけに、寝不足という適当な言い訳も用意してあげたのだ。
イズ・ローウェルはきっと、疑念も警戒も抱くことなく、安らかな眠りに落ちるだろう。
計画を実行するなら今、この時を置いて他に無かった。
(流石は賢者様……。人間の弱点だって知り尽くしているみたいだな。これだけ膨大な記憶があれば、簡単に攻略法が検索できてしまう)
ローファイ・タイムズで得た情報を頭の中で呼び起こしていく時計の魔物。
あまり大きく動いたり、物音の出る武器を具現化したりすると、イズに勘づかれる恐れがある。
せっかく油断させて、目を閉じてもらうところまで事を運んだのに、それでは今までの苦労が台無しだ。
致命の初撃は特に用心して、隠密に与える必要があった。
(この状況で奴を殺害するためには……)
記憶の引き出しを開けては閉めて。求めている情報を探しだすことに魔物は集中していった。
知識の海と称すべき賢者の過去を洗っていくのはなかなかに骨が折れたが、向かっている者はやがてゴールに辿り着くものだ。
テーブルに置かれた料理が冷めていく様を眺めていた彼は、不意にフッと微笑んだ。
(……ほう。分かったぞ。コイツを確実に無力化するなら、最初に潰すべき部位は『喉』か)
目的の情報に辿り着いた時計の魔物は、伏せていた瞳を上げてイズの首もとを見つめる。
その間、彼は片手で音もなく、宙に浮かんでいたナイフを掴んでいた。
記憶の能力で具現化させた物だ。
(無詠唱で呪文を扱えないイズは、声を出せなくなった時点で、回復も攻撃もできない無力な少女に堕してしまう。そうなれば、後は煮るなり焼くなりだ)
ナイフの刃をしばらく眺めた後、指の腹でそっと撫でる魔物。
すると、彼の指はパックリと裂け、赤い血がそこから滲み出てきた。
どうやら切れ味は十分にあるようだ。
偽ヴィーレはポケットに入っていたハンカチで滴りそうになる血を拭った後、ペンでも回すような動きでナイフを逆手に持ちかえた。
そして、すぐさまそれを振りかぶる。
狙う部位はイズの気道だ。
骨や肉の厚い箇所を避けた位置から、的確な角度で刃を喉に到達させ、標的の息の根を止める。
仕事の達成はもう目前であった。
(ネメス・ストリンガーもすぐに送ってやる。ヴィーレ・キャンベルやフタバ・カズヤと一緒にな)
魔物は手向けの言葉を心の中だけで呟く。
衆目に晒された場所で、今まさに殺人が行われようとしているというのに、周囲の人間は変わりなく平然と会話や食事を進めていた。
あくまで彼らはエキストラ。過去の軌跡をなぞるだけの存在でしかない。
意思を持っている例外はこの世界にたったの三人。イズ・ローウェルとネメス・ストリンガー、そして時計の魔物のみなのだ。
よって、魔物側の計画は滞りなく進んでいく。
(安心して永久の眠りにつくがいい)
物音一つ立てず。気配を察する余地すら与えず。
機械的なまでに淡白な殺意を保ったまま。テーブルに突っ伏したイズの首もとへと向けて。
凶刃は鋭く振り下ろされた。




