41話「記憶との闘い」
王都ユーダンク。
午前の八時五十分、そこの閑散とした路地裏に、イズ・ローウェルは一人で佇んでいた。
魔王討伐任務へと旅立つ日。
彼女は持てる限りの荷物を鞄に詰め込んで、街の薄暗い裏通りへと、初めて足を踏み入れた。
仲間との待ち合わせ場所である酒場は、イズのもうすぐ目の前にある。時刻は予定のピッタリ十分前だった。
あとは扉を開けるだけ。
しかし、賢者の少女はここに来て、人見知りからくる緊張感に苛まれていた。
「私はイズ。イズ・ローウェルよ。お好きなように呼んでちょうだい」
髪をかき上げ、扉相手に自己紹介の練習をしてみる。
「……いや、これはちょっと偉ぶりすぎかしら」
けれども、どうにも納得がいかない様子だ。彼女は首を傾げて難しそうに顔をしかめた。
やり直し。
「ローウェル家のイズと申します。共に手と手を取り合って、人類の仇敵を打ち倒しましょう!」
次は熱血な淑女の仮面を被ってみることにした。
だがやはり、扉の小窓に映った賢者の笑顔は、ひきつっていてぎこちない。これをずっと続けていくのは、魔王討伐よりも難しそうだ。
「……私のキャラじゃないわね」
溜め息混じりにそう独りごちて、イズはガックリと肩を落とした。
「ダメだわ。人付き合いを極力避けてきたのが見事に裏目に出てしまっている……。こんなんで、これから彼らとやっていけるのかしら……」
ガラスに反射する賢者の姿は、いつもの不遜な彼女とはまるで違った。
慣れない環境に身を投じることは、箱入り娘であるイズにとって、想像以上のストレスを伴うものだったらしい。
少女の根底に潜んでいた自信の無さが表面化している。
(だけど、今さら後悔したところで、もう引っ込みがつかないところまで出てきてしまったし……。やるしかないわ。ええ、やってやるわよ!)
彼女は自分を鼓舞するために、心中でそう息巻いた。
己の強さを周囲に証明してみせるため、二代目勇者の仲間として任務へ参加した賢者イズ。
立候補してからトントン拍子に話が進み、あっさり採用された時は流石に驚いたようだが、大貴族の彼女にとって、その辺の事情や上の考えは正直どうでも良かった。
(大方、私の意向を汲んだパパが勝手に裏で手を回したんでしょうね。実力を証明するって言っているんだから、余計な世話を焼かないでほしかったんだけど……まあ、いいわ)
イズは扉の小窓を鏡代わりにして前髪を整える。
ひとまずは、先んじて入手しておいた情報を整理しておこうと考えたらしい。
思考のベクトルを他の事柄へと移し変える。
(勇者の男については、事前に経歴を探ってみた。けれど、彼の過去や周辺を掘り下げていけばいくほど、不穏な闇が出てきたのよね……)
二代目勇者ヴィーレ・キャンベル。
幼い頃に事故で両親を亡くしており、同じく天涯孤独の身であるアルル・シェパードと、幼い頃から懇意にしているようだ。
それ以外の交遊関係は無し。
勇者が人付き合いを好まないからではない。『彼に関する大量の悪い噂』が、勇者から周囲の人々を遠ざけているのだ。
(窃盗に詐欺、強姦と、様々な犯罪行為を働いたのだとか。親殺しの疑惑までかけられているらしいけれど、彼の過去を洗ってみると、それらの全てが根も葉もない虚言だったわ)
加えて、今回は二代目勇者への任命である。
彼の幼なじみであるアルルは、今や軍でも『無敵の戦士』として名声を轟かせていると、イズは聞いた。
行方知れずとなった初代の英雄は、言わずもがな、『最強の勇者』として大衆から圧倒的な支持を得ている。
一方、名実の揃っている彼女らと比較して、ヴィーレ・キャンベルはどうだ。調べる呪文しか使えない、至って普通の農民ではないか。
だのに、どういう訳か、彼は魔王討伐任務へと半強制的に駆り出されている。
ヴィーレを忌み嫌う人々と、正体不明の首謀者が、そうするように仕向けたのだ。
――――と、イズは考えていた。
確かに、そうでないとあまりに不自然だろう。
「一体誰の反感を買ったら、こんな目に遭わされるのよ……。いくら嫌われているにしたって、流石に今回の件は、陛下の御意志によるものだろうけど……。それとも、私の調査が不足しているだけで、彼は何か特別な秘密を有しているのかしら?」
まとまらない考察をブツブツとこぼし続けるイズ。
第二勇者の背後に蠢く黒々とした怪物を覗いてしまった気がして、彼女は得体の知れぬざわめきに襲われた。
と、ある程度考えを進めたところで、背後から抑揚の無い声がイズにかけられる。
「おい、そこの不審者」
「……っ!?」
不意を突かれた短い呼び掛けに驚き、軽く飛び跳ねそうになるイズ。彼女は顔を上げると、咄嗟に後ろの男から距離をとった。
慌てて声の方を振り返る。
そこには、先ほどまで思考の渦の只中にいたヴィーレ・キャンベルの姿があった。
「そ、その目……もしかして、あんたが勇者……? 思ったより若いのね……」
写真は記録に無かったため、赤い瞳や背丈、立ち振舞いなどからの推測となったけれど、否定しないところを見るに、彼は間違いなく二代目の勇者であった。
仏頂面で、何を考えているのか分からない。
自室からほとんど出かけることのなかったイズにとっては非常に易しくない手合いだ。
練習していた自己紹介も緊張が白紙に塗り替えてしまう。
(えーっと……何を、どう話せばいいんだっけ……? どうしよう。シミュレーションは数百回もしたはずなのに、全く頭が働いてくれない……! そもそも、庶民って一体どんな話をするのよ! お酒とか、ギャンブルとか?)
如何にして沈黙を破ろうかとイズが苦難していると、今度は相手の方から言葉が渡された。
「キャンベル家のヴィーレだ。よろしく」
挨拶はそこそこに、勇者は友好の意を込めた握手を求めてくる。
どうやら彼はイズが思っていたより大分取っ付きやすい男であったようだ。表情こそ固いものの、仲良くしようとしてくれている気持ちは伝わってくる。
(握手……? えっ、あ、握手って、あの握手!?)
が、それを受けたイズはさらに混乱した。
目をグルグルと回しながら硬直している。唯一動いている口も、金魚のように開閉を忙しなく繰り返すのみだ。
(ちょっと! 私をそこら辺の貴族と同じように思わないでよね! 出会い頭にハグを交わしたり、初対面の異性とダンスを踊ったりする必要の無い生活が好きで、それを十六年間続けてきたような、正真正銘の『箱入り娘』なんだから!)
思考はベラベラと話し続けているのに、肝心要の声が全く出てきてくれない。
これはイズの大きな欠点であった。
想像上の彼女は、イズ自身が思うよりずっと優秀でスマートなのに、いざ現実になってみるとろくに動けやしない。
結局、庶民との初接触で一杯一杯だったイズがとった行動は最低なものだった。
「……ふんっ」
腕を組んでそっぽを向く。
半ば反射的に出た行動であった。
イズ本人ですら、どうして拒否という選択をとってしまったのかは分かっていない。
ただ、緊張感の次は、どうしようもない罪悪感と格闘する羽目になりそうだということは予感できた。
(もうっ! どうしていつもこうなるの! 相手を好きになればなるほど優しくできない……。反対に、無関心な他人であるほど優しくできるのは何故なのよ……!)
自身の悪癖を嘆いている間にも、口からは思ってもいない罵詈雑言が飛び出していく。
『他人を傷付ける言動へ頼ることでしか意思の疎通を図れない』
コミュニケーション能力の著しい不足がもたらす破滅的な症状だ。
幸い、イズには問題の自覚があったのだけれど、不幸にも、それと向き合って克服するだけの強さが不足していた。
(さ、流石に気を悪くしたわよね……?)
恐る恐るヴィーレの顔色を窺うイズ。
だがやはり、勇者の表情は鉄仮面のままだった。片手を彼女に差し出した姿勢から動くことなく平然と佇んでいる。
その事に内心ホッとしてしまったのが、またさらに許しがたい。イズは自身の浅ましさに嫌気が差してきた。
賢者と呼ばれている大貴族でも、悩みの種は思春期の子供が抱くそれと変わらないようだ。
「まったく、さっさと魔王なんか倒して帰りたいわ」
後戻りできなくなったイズは、冷たくそう吐き捨てて、逃げるように酒場の中へと入っていく。
後の彼女曰く、戦略的撤退だ。
世間一般では問題の先送りと言う。
(あぁ、本当に……恥ずかしすぎて、申し訳無くて、早く家に戻りたい……)
去り際、誰にも見えないように額へ手を当てるイズ。
彼女が入店したことで、その場にはヴィーレのみが残される形となる。
勇者は胸元のアクセサリーを握っていた。
彼が勇気を抱くとき、決まって起こすアクション。慣れ親しんだ癖のようなものだ。
イズに罵られて精神的ダメージを負ったのだろうか。
もしくは、一世一代の大仕事に際して希望を忘れないようにと、お決まりのルーティンを挟んだのかもしれない。
だとすれば、何とも健気な話である。
当然ながら、ヴィーレが手に握り、ジッと眺めているのは、彼が常に肌身離さず持ち歩いている花紋様のロケットなどではない。
「やはりな……」
ヴィーレの姿をした『何か』は小さく口角を上げる。
「所詮はただの小娘か」
男の手にあるのは、未来か、あるいは過去でイズ達が目撃した、黒塗りの懐中時計であった。
「イズ・ローウェル、ネメス・ストリンガーの二名を『三日前の世界』へ転送した。片方は記憶を奪われ、もう片方は目覚めてすらいない」
周囲には誰もいないのに、男は仲間へ報告するような口振りで独りごちる。
そう。彼が語ったとおり、本日は旅立ちの日ではない。
ちょうど、アルストフィアからユーダンクへと戻る中途の森で、ヴィーレとカズヤが蜘蛛の魔物を相手に戦い始めた頃。
これはその時の出来事なのだ。
現在地は、一体の魔物によって創られた架空のユーダンク。
イズ・ローウェルは『記憶の能力』によって、数日分の思い出を喪失した状態で、過去の軌跡を辿っている。
外にいる勇者達にどれだけ探られようが、侵入されることはおろか、発見されることさえあり得ない絶対的な安全圏。
そして、敵意以前に警戒心すら抱いていない隙だらけのターゲット。
準備はとっくに整っていた。
「普段はお堅いお嬢様も、今となっては簡単に殺れちまうチョロい女ってわけだ」
男はヴィーレが好まなそうなブラックジョークを呟くと、逆方向に回る長針と短針から目を離し、懐中時計をそっと閉じた。
黒い微笑みは鉄仮面へと戻っている。
そうしているとやはり、本物のヴィーレ・キャンベルとは全く見分けがつかない。
「これより速やかに始末する」
そして、あくまで淡々と、ヴィーレの声で宣言した後、二代目勇者に化けた『時計の魔物』は、イズの後を追ったのだった。




