39話「一匹残らず始末せよ」
少年の身体は加速度を増しながらグングンと落下していく。
行き着く先は遥か彼方に見える大海。
だが、五十メートルを超える高さから落ちてしまえば、水面は刹那的にコンクリートと化すだろう。
大怪我は避けられない。
着水の仕方が悪ければ、死亡することだってあり得る高度なのだ。
しかし、カズヤが最初に気にかけたのは、自身の生死などではなく、彼よりもずっと下方で舞っているヴィーレ・キャンベルの安否であった。
勇者は両手足を広げ、カズヤの姿を眺めながら、仰向けの体勢で海面へと急降下している。
「《スロウ》!」
カズヤは気が付けば、後先のことも考えず、ヴィーレに対して呪文を唱えていた。
瞬間、勇者の落下速度は目に見えて緩やかになる。スロウによる鈍化の効力が制御装置としての役割を果たしたのだ。
「着水するまで……僕は呪文を解除しない……ッ!」
カズヤは自らの心臓辺りを片手で押さえて、そう宣言する。その表情は苦悶に歪んでいた。
実を言うと、爆発の呪文を発動した時から、彼は強烈な倦怠感と息苦しさに襲われていたのである。
どうやら魔力を消費しすぎたらしい。
着水寸前でスロウを発動するとしても、その時のカズヤに呪文を唱えるだけの余力が残っているかは怪しいだろう。
もしかしたら、カズヤだけは、このままのブレーキをかけること無く、水面に衝突せざるを得ないかもしれない。
されども少年は、気力を削がれていく感覚に堪えながら、顔面に凄まじい風圧を受けつつ、命懸けの直下降を続けている。
鈍重のヴィーレと、高速のカズヤ。
二人の距離は急速に縮まっていき、やがてゼロとなるだろう。
そして、両者の距離はそれから間もなく、たちまちのうちに開いていく。
――――はずだった。
カズヤが勇者を追い越した、その直後。想定していた限りで最も避けたかった事態が発生した。
ヴィーレが本来の速度を取り戻したのだ。
それが意味するのは、鈍重の呪文が勝手に解かれてしまったという事。
つまり――――
(魔力が……底を尽きたのか……ッ!)
少年の懸念していたアクシデントが起こってしまった。
「《スロウ》! 《スロウ》!」
カズヤは何度も呪文を詠唱してみるが、肝心の効果は顕現してくれない。
頭痛と吐き気がただ無意味に激しさを増していくだけだ。
段々と意識も遠のいていく。
逆さまの体勢で落ちながら、カズヤの瞼はゆっくりと下がっていった。諦念が精神を蝕み始める。
(クソッ! あとちょっとなのに! もう少しのところだったのに……ッ!)
魔力を喪失したことで、カズヤの中にあった闘志もいよいよ萎んでいった。
抗いがたい眠気に呑まれそうになる。彼の意思に反して、その心身は、渇望していた休息を今すぐに得ようとしているようだ。
(僕らは、ここで……終わるのか……)
やがて、カズヤは己の限界に屈服するだろう。
海面を見つめていた瞳も完全に閉じきってしまった。
死へのカウントダウンに底知れぬ恐怖を抱きながらも、彼は静かに意識を手放す。
「俺の手を掴めッ! カズヤ!」
だが、それをまだ許さぬ者がいた。
空気抵抗を最小にした姿勢でカズヤのもとへと迫りくるヴィーレ。彼は大声で少年の意識を叩き起こし、そのまま右手を差し伸べた。
カズヤの思考は朦朧としていたものの、まだ気を失ってはいなかったらしい。
体を広げ、できるだけ速度を落としてヴィーレに近付いた後、最後の力を振り絞って、彼の方へと手を突き出した。
すると少年は、ヴィーレから手首を掴まれ、力ずくで全身を引き寄せられる。
汗と強風によって肌寒さを覚えていたカズヤは、包み込んでくる人の温もりに束の間の安心を抱いた。
「息を目一杯吸い込んでおけ! 俺に考えがある!」
耳元で発されたヴィーレの指示。
勇者の思惑を知る由も無く、探るだけの元気も残されていないカズヤは、絞り出すような声音で端的にこう問うた。
「命の保証は……?」
「してやれない! が、そもそもの話、命の危険が端から無い!」
ヴィーレはすぐさま言葉を返すと、小さめなカズヤの全身を自身の体躯で覆うようにして、さらに強く抱き締めた。
己の体を少年より下に回り込ませる勇者。彼も呼吸を止めると同時に、奥歯をギリッと食い縛る。
そして二人は、ヴィーレの背中に全ての衝撃を委ねる形で、とうとう着水したのだった。
大きな水飛沫が一つ、噴き上がる。
爆発によって崩された崖端の地盤が小さな岩石片となり、勇者達に続いて、海面へと降り注いでいった。
数分後、ヴィーレは海から崖の上まで這い上がり、ようやっとの気持ちで地面に腰を下ろしていた。
流石に疲弊した様子を見せる勇者の横では、同じく海水で濡れ鼠となったカズヤが、顔色を悪くして寝転がっている。
前髪をかきあげ、曇天の空を見上げてヴィーレは仲間に声をかける。
「無事、と言っていいかは微妙なところだが、二人とも生き残れたみたいだな」
「おかげさまでね……。傷口に塩がよく染みるよ」
カズヤは顔を両手で覆っている。
肌に張りつく前髪や服に不快感を覚えながらも、彼は安堵の息を深く吐いた。
初めは耐え難かった激痛の余韻も、今となっては『生きている』という実感になって、どこか心地よく感じられる。
そこで、カズヤは思い出したように小さく笑みを吹き出した。
「それにしても、とんでもない無茶をするなぁ、君は。いくら魔力レベルが高いからって、一人で二人分の衝撃を受け止めるなんてさ」
「だから言ったろ。俺はこういう戦い方しかできないんだと」
「ハハハッ。常識外れの限界知らずだ」
「称賛として受け取っておくよ。常識は覆すためにあり、限界は超えるためにあるからな」
戦闘前の険悪な空気はどこへやら。軽口を叩いてカズヤに応じるヴィーレ。
彼はしばらく波の音に聞き耽っていたが、顔を空から隣へ向けると、カズヤの体調について話題を移し変えた。
「気分はどうだ?」
「勿論、最悪だよ。散々振り回されたからね。また酔っちゃったみたいだ」
「それじゃあ、ゆっくり休んでおけ。魔力切れも起こしているはずだ。もうろくに動けないだろう」
「……うん、そうする。足手まといにはなりたくないからね」
素直に応えて、力の無い微笑みを浮かべるカズヤ。
しかし彼は、靄がかった意識を閉じる前に、自身の中に蟠っていた最後の心残りについて、ヴィーレへ念押ししておかねばならなかった。
「イズさんとネメスのことは、君に任せていいのかい? 彼女達のもとには、恐らく別の刺客が……」
「分かっている。任せておけ。二人は無事に取り返してみせるさ」
カズヤの忠告は半ばで相手に遮られる。どうやら心配は無用だったようだ。
「俺は勇者だからな」
ヴィーレはいつもの決まり文句を告げると、服に付いた草や土を払いながら立ち上がった。
胸を張ってカズヤを振り返る。
疲労で動けない少年は、横になったままヴィーレの行動を両目で追っていた。そこにはもう不安の色など宿っていない。
数秒間だけヴィーレを見上げた後、カズヤはフッと静かな笑みを湛えて、安らかな眠りに落ちていった。
「……よくやってくれた」
微かな寝息が聞こえたのを確認して、ヴィーレは小さく言葉をこぼす。
「あとは時計の魔物を探し出すのみだ。俺の呪文を使ってもう一度、痕跡を片っ端から洗い直す……!」
誓いを立てるように宣言してみせる。
イズ達の居場所を特定するために残された手段は最早それしかなかった。
分析の呪文で彼女らが消えた場所を再度調べる。
そのためには、これまで駆け抜けてきた道をまた引き返さなくてはならないだろう。魔物に襲われる危険があるため、カズヤも置いてはいけない。
何にせよ、行方不明者二名の捜索を完了するには、相応の時間が必要だと判断された。
「が、その前に――――」
言葉の途中で、ヴィーレは振り向きざまに大剣を抜き、空を斬る。
「『残党狩り』を済ませなければな」
否、彼が斬ったのは何もない空間などではない。後方から密かに飛ばされてきた半透明の糸である。
攻撃の主は探すまでもなかった。
赤い瞳の見据える先、壊滅状態となった森の入り口には、一匹の子蜘蛛が木の陰から半身を乗り出して勇者を狙い撃とうとしている。
「くたばったのかと思っていたが……。本当にしぶとい奴だ」
ヴィーレが呟いている最中、蜘蛛の顔に並ぶ四つの単眼が妖しく煌めく。
すると、勇者の視界にもう一体の子蜘蛛が現れた。それを皮切りに、一体、また一体と、虚無から魔物が出現してくる。
その現象には嫌に心当たりがあった。
ヴィーレの表情が再び険しくなる。それは、この状況があまり好ましくないことを暗に示していた。
魔物の能力は人間の呪文と変わらず、魔力をエネルギー源にしている。
死を迎えた者、言い換えると『魂の抜け落ちた者』に、魔力というものは宿らない。生きている者だけが、この不思議で不可視な力の恩恵を受けられるのだ。
だのに、今に至っても、ヴィーレの幻覚は止んでいない。
これが何を意味するか。
(確かに子蜘蛛の魔物はあらかた殺し終えたのだろう。けれど、全個体を始末できたわけじゃあない)
カズヤの起こした爆発は、確かに相手の群れ全体を巻き込むほどの規模を誇っていた。敵を一撃で屠るだけの威力を宿していた。
けれども、それを予見できた個体が敵にいたとしたら?
相手は魔王の送り込んだ刺客である。一筋縄ではいかない手合いだ。それに、対策を講じる時間なら十分にあった。
何らかの手段を使って、攻撃を回避する者が出るという可能性は、視野に入れておくべきだったろう。
(殺し損ねた……! 木々の陰に隠れたのか、仲間の蜘蛛を盾にしたのかは知らないが、よりによって俺へ噛みついた個体のうち一体は、今もまだ生き延びている!)
ヴィーレの目の前に現れた魔物は、ざっと数えても百は下らないようであった。
さらに、個体数は今もなお増え続けている。
幻影を斬ったところで意味はない。能力を解かれない限り、子蜘蛛らは無限に増殖していくのだから。
発見しなければならないのだ。数百、数千の中に隠れた、たった一体の実像を。
そう考えると、結局のところ、事態は平行線を辿っていた。数が減っただけで、状況はさっきと何ら変わってはいないのだ。
むしろ、カズヤという呪文使いを戦闘不能にさせられた分、相手側の方が大きく勝利へ近付いたように思える。
抹殺すべきだ。
本物の個体を見つけ出して、一匹残さず排除するべきだ。
でないと、勇者達に真の安寧は訪れないだろう。
「追い詰めた。と、思っているな……」
ヴィーレはしかし、依然として、普段通りの調子を保っていた。
「こちらの作戦を破り、標的の一人を戦闘不能にして、俺に恐怖を与えられたと、そう考えているんだろう?」
相手に言葉を理解する能力は無いと知りながら、それでも魔物へ話しかける。
わざわざ声に出すのは、自分自身を鼓舞するためだ。既に見つけた突破口へと全速力で向かうためだ。
首もとの噛み痕に滲んでいた血を手の甲で拭うヴィーレ。
そこにあったはずの深い傷口は、いつの間にか塞がってしまっていた。自然治癒の進行速度が著しく上昇しているようだ。
これも魔力による恩恵である。
さらに、勇者の中にある魂は強い感情に揺れ動かされ始めた。
それに伴って、まるで激しく昂る意志と共鳴するかのように、彼の魔力量は上昇していく。
「絶望なら幾度となく味わったさ。畏怖の念なら、強敵と見えるたびに感じている……。だけど俺は、俺の仲間は、いつだって屈せずに、それらの脅威と戦ってきた!」
鋭く、刺すような眼光と共に、ヴィーレは刃の切っ先を魔物へ向けた。
「教えてやるよ」
右手には大剣を、左手にはロケットを握りしめる。
「勇者とは、怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服できる人間なのだと、その身をもって教えてやる」
護るべき人々と、これまで乗り越えてきた数々の苦難。
そして、自らの生き先に待ち受けているであろう運命と試練を想って。
ヴィーレ・キャンベルは『勇気』を抱いた。




