35話「幻想という名の凶器」
魔王の刺客である大蜘蛛の魔物を、超人的な膂力によって返り討ちにした、勇者ヴィーレ。
しかし、それはまだ第一段階に過ぎなかった。
死亡した大蜘蛛の腹を割って出てきたのは百匹にも及ぶ数の『子蜘蛛』。
勇者達二人は不意を突かれ、奴らの毒牙にかかってしまう。それが意味するのは、予想し得る限りでは、最も避けたい事態だった。
幻想の能力が発動する。
「ヴィーレ! 噛まれた! 血が流れている! めちゃくちゃ痛い!」
「俺もだ」
「宿で読んだ新聞に、『本日の天気は午後から曇り』だと書いてあったけど、蜘蛛マークを雲マークと見間違えたのかなァ~!?」
「皮肉なら後にしてくれ。冗談も今は結構だ」
「それじゃあ、建設的な話に移らせてもらうけど――――」
カズヤは傷口を手で押さえながら、切羽詰まった表情で、ヴィーレの視線の先を見やる。
「この状況、どうすんのさ……ッ!」
二人の正面には、おびただしい数の蜘蛛がいた。
百匹どころではない。無数の魔物がそこには群がっているのだ。
集合すると、まるで大きな怪物かと見間違えてしまいそうなほどの、圧倒的な総量。攻撃を受ける前に視認した時より、個体数は明らかに増えている。
言うまでもないが、それらが全て親蜘蛛の中にいたとは考えにくい。
とはいえ、そこら中にあらかじめ潜伏していたという線も解せなかった。確かにここは森で、隠れる場所ならいくらでもあるが、それにしても数がおかしい。
(加勢してきた仲間? 馬鹿な。目の前にある、この湖みたいなのが、全部魔物なんだぞ。これほどの伏兵がいれば、流石に僕だって察知できたはず)
カズヤはナイフを両手で握って懸命に頭を回す。
(僕だけじゃない。ヴィーレですら奴らの気配に気が付かなかった。ついさっき、僕らが攻撃を食らう前までは、生まれたての子蜘蛛しか存在しなかったんだ。他の何千匹かは文字通り、湧いて出てきた)
では、それらの要素が導きだす結論とは何か。
決まっている。
カズヤがこの異世界に来てから、摩訶不思議な現象を目撃した時には、まず初めに浮かんでくるようになった可能性だ。
「これが『幻想の能力』……ッ! 僕らは今、視覚を狂わされ、ありもしない幻影までが見えてしまっている!」
そう叫ぶと、彼は隣の男へ目をやった。
ヴィーレは何かを探すように蜘蛛の塊を睨んでいる。観察していると表した方が正しいかもしれない。
だが、発見できないもどかしさへすぐに痺れを切らすと、相変わらずの無表情で口を開いた。
「カズヤ。もしかしたらアレは、『幻影』なんてチャチなものではないかもしれないぞ」
「えっ……。どういうこと?」
「……確かめさせてくれ。答える前に、確証を得たい」
下手な推測だと思われるのを嫌ったのか、それ以上の言及は保留にして、ヴィーレは単身で蜘蛛の群れへ突っ込んだ。
本物か偽物かも知れない敵を片っ端から斬り捨てていく。
その間、彼ほどの戦闘力が無いカズヤは、依然として後衛で疑問の渦に囚われていた。
(そもそも、どうして僕が攻撃されているんだ? 魔王の味方である僕までが……)
最も解せないのはそこだった。
カズヤの知っている魔王は勇者だけでなく、人間に対しては往々にして慈愛をもって接する人物だ。
そこを買ったからこそ、カズヤも彼女に従っている。
にも拘わらず、魔王の直属の部下であるカズヤは、『魔物の王』から寄越された刺客により、殺意ある攻撃を受けた。
否、それ以前から、人間と魔物は互いに総力を挙げて、大規模な争いを起こしている。
(何だかおかしいと思っていたけど、やっぱり気のせいじゃなかった……! 僕の知る魔王なら、誰かをいたずらに傷付けたり、苦しめたりする方法をとるわけがない!)
イズとネメスは誘拐された。ヴィーレは傷を負いながらも魔物と戦わされている。
蜘蛛達は本気でカズヤらを始末するつもりだ。
このような所業をやってのける者は、本当に残虐で計画的な、人の命を微塵も惜しまない人物に違いない。
であれば、カズヤのボスは上記の条件に該当しなかった。
(だけど、それだとヴィーレ達の言い分と話が噛み合わない。どこかにいるんだ。人間を滅ぼすために魔物を操り、戦争を起こした『諸悪の根元』が!)
第二次人魔大戦。
現在行われている、人間と魔物との戦争を指す名称だ。
多くの犠牲を出した怪事件の黒幕。隠された犯人の存在を、カズヤはそこで初めて、誰より早く認識した。
(十中八九、間違いない……! 僕達のボスがどうしてその肩書きを名乗っているのかは不明だけれど――――)
少年の頬を冷や汗がツーッと伝い落ちる。
(『魔王』は、もう一人存在するッ!)
改めて、自分は何も知らされずに送り込まれたことを痛感するカズヤ。
任務を遂行するためにはかえって好条件だと感じていたが、ここまで重大な秘密すら伝えられていなかったとなると、どうも事情が変わってくる。
本当に、下っ端へ投げられた雑用などではなかったのだ。
このスパイ活動は命懸けであった。
「《スロウ》!」
カズヤは反射的に指を前方へ向けると、ヴィーレに噛みつかんとする魔物の群れへ、鈍重の呪文を詠唱する。
瞬間、全敵の動きが重くなった。
スローモーションだ。ヴィーレ目掛けて駆けている蜘蛛も、飛びつく蜘蛛も、上空から降り注ぐ蜘蛛までもが、およそ速度と呼ばれるものを奪われていた。
その隙に、飛び退くようにして後退するヴィーレ。
「カズヤ、悪いニュースだ。俺達は思っていたよりも大分不利な状況に立たされているらしい」
彼はカズヤの隣まで帰ってくると、息を切らしながら報告を開始した。
「予想通りの『計算外』だった……! 俺とお前が狂わされたのは、視覚だけじゃあない! 『五感の全て』だッ! 魔物が地を這う音や、体液の匂い、奴らを斬った感触までもが、あらゆる個体から感じられる……!」
ヴィーレは新たにできた傷口を睨みつけたまま、近くの樹木に肩からもたれかかった。
負傷部分の断面はカズヤにも確認できている。どうやら、彼らの見ている幻覚には一致する部分もあるらしい。
「本物同然の幻影……! 魔物の本体と偽物とを見分けるのは、極めて不可能に近いだろう」
ヴィーレの言に、カズヤはブルッと身を震わせた。
後方には蜘蛛の巣が張り巡らされている。前方には鈍重の呪文をかけられた敵の大群。
ジリジリと、しかし着実に、相手はこちらを追い詰めていた。
カズヤは腰を抜かしてしまいそうになるのを、あと一歩のところで堪えて、ヴィーレに最後の望みをかける。
「あの数を相手取るのは、いくら君でもキツそうかい?」
「無理だろうな。さっきの接近戦で悟った。がむしゃらに戦っていてもキリがない。どれだけ偽物を殺したところで、新しい幻影がまた知らぬ間に現れてくる。能力を解くには本体を叩くしかないんだ」
「けれど、そうするより先にこちらが食い尽くされてしまう……」
「ああ。スロウを使ってもらっても、万の中から百を見つけ出す前に物量で押し潰されるだろう」
カズヤとは対照的に、ヴィーレには精神的な余力がまだありそうだ。
過去にもっと絶望的な力量差を感じたことがあるからだろう。地獄程度の苦難では挫けぬ魂を、彼はその心に宿していた。
今も、無いかもしれない希望の活路を、あらゆる観点から探している。
「厄介なのは、幻影の性質だ。存在しないくせに、奴らから受けたダメージは、こちらの心身へかなりリアルにのしかかってくる」
解決すべき問題をより明白にするため、勇者はさらに分析を進める。
「傷ができたような幻覚は襲ってくるし、相応の激痛も走るし、血が噴き出る感覚だってあるんだ。実際、現実でそんな事は起こっていないんだろうがな」
「……知っているかい、ヴィーレ。人間って、思い込みだけで死ねちゃうんだよ。ノーシーボ効果って言うんだ」
するとそこで、表情も身体も固くさせたカズヤが、豆知識を披露してくれる。
それが浮かび上がらせた現実は、一層残酷なものだった。
「僕らのかかった『この錯覚』は、幻影からの攻撃でさえ強いストレスに変換させて、獲物を死に至らしめるためのものなんじゃ……」
「だとすれば、俺達は実質二人きりで、万を超える敵に打ち勝たなきゃいけないという事になる。お前の説明してくれた『何ちゃら効果』がトリビアになるか、俺達の死因になるかだ」
「それは……笑えないジョークだね」
「笑い話にするんだよ。これから奴らをぶちのめしてな」
大剣を背中の鞘に戻すヴィーレ。
「鈍重の呪文を解除しろ。魔力の無駄だ」
両手の空いた彼はカズヤにそう命じると、わずかに声を潜めて言葉を紡いだ。
「お前の扱える爆発の呪文。それさえあれば勝利は可能だ。ありったけの爆発を撃ち込んでやれ。そうすれば、虚像も実像も関係無い。まとめて木っ端微塵にできる」
「その案は僕も考えたけど……駄目だ、近すぎる!」
ヴィーレの指示に悩む素振りを見せたものの、魔物との距離を目測すると、カズヤはすぐに却下した。
「爆発の呪文は射程範囲が広い分、威力が群を抜いて高いんだ。あれだけの数を巻き込む爆発なら、十分な距離をとらないと、僕らまで被害に遭ってしまう!」
「距離を稼げばいい。と、要するに、そういう事だろう?」
「できるの?」
「やるしかない」
ヴィーレは決意を固めて返答すると、カズヤの膝裏を掬い上げ、お姫様抱っこの形で彼を両手に収めた。
魔物達には背を向けて、勇者は現状を打開するための作戦へ着手する。
「この蜘蛛の巣を突っ切るぞッ!」
仕掛けられた罠。
木の根や岩に躓くか、糸に引っ掛かるかすれば、追手の魔物達に呑み込まれることは必至。
だが、ヴィーレの瞳に失敗の未来は映っていなかった。
一撃必殺の呪文をカズヤに放たせる。それを達成することで、この窮地を覆すための『逆転の策』は実となるのだから。




