発達した社会の歪み
多くの視線に晒された監視部屋を出たアイシャは、あの扉を出てすぐの部屋に通された。その小さな部屋には机と椅子が二つあり、アイシャはそのひとつに座らされた。
「まずこれを返そう。きみが持っていたものだ」
眼鏡の男は片手に摘まんだ鼠を――リングポールをアイシャの掌のうえに乗せる。
「リングポール! 大丈夫? ひどいことされてない?」
アイシャは水平に合わせた掌を顔の前に持っていき、リングポールの姿を覗き込んだ。しかし彼は言葉を返さず、代わりに『ちゅう、ちゅう』と鳴き声を返すのみ。
「……? どうしたのリングポール?」
姿形はリングポールに違いない。しかしどこか様子がおかしいことはすぐにわかった。いつも饒舌な彼が、どうしたことか一切の言葉を口にしようとしない。
首を傾げながらアイシャが訝っていると、男は向かい側の椅子に腰を下ろす。
「これはちょっとした前置きだが――ここ数年で、世界の遺伝子工学は目覚ましい発達を遂げた。その中でも我が国は最先端を走っている自負している」
唐突に始まった話にアイシャは困惑する。不安からリングポールを胸に抱き寄せた。
「しかしそこまで自由な学問でもないんだ。技術の発達に伴って、相応の制限も生まれた。動物に対して一定以上の知能を持たせることの禁止や、繁殖機能の制限、これらは従来の自然淘汰を危惧してのものや、中には倫理的観点から禁じられているものもある」
そこまで饒舌に喋ったところで、男は机のうえに少し身を乗り出した。
「そこでだ。きみはどこまで自分のことを知っている?」
急にそんなことを尋ねられても、アイシャは返答を迷うばかりである。いつものくせでリングポールのほうを見たが、その視線にも今の彼は応えてはくれそうにない。
「博士からどんなことを訊いている?」
返答に困る様子を見かねて男は質問を改める。それにはアイシャも口を開いた。
「えっと……私は博士の子供で、その……」
しかし結局どう答えていいものかわからず、彼女はたどたどしく口ごもる。
「成程。つまり何も訊かされていないんだ。きみは」
その様子から男は察したようで、彼は乗り出した体を椅子の背もたれまで戻した。
男は溜息を吐いた。それは落胆からのものではない。
「きみを探しにあいつが町に来た。あの人嫌いが……余程、きみのことが大切なんだろう」
「博士が来ているの? だったら早く会いたい」
「うん。もうちょっとしたら会えるよ。ただ今は無理なんだ。あっちも色々と立て込んでいてね……それまでおじさんと少しお喋りをしよう」
そこからは特に取り立てることもない、本当に単なる『お喋り』だった。
アイシャの好きな食べ物や、どんな遊びが好きなのか、普段どのように博士と過ごしていたのか――そんな他愛もない話を実に数時間は繰り広げていた。
話しの最中、アイシャの頭の中は博士のことでいっぱいだった。今では早く帰りたい。博士が自分を迎えに来てくれるのを待ち望んでいた。
勝手に家を出たこと、車を持ち出したこと、怒られることさえ待ち望んでいる。もはやいつもの日常に戻ることに抵抗はない。今回のことに深く反省していた。
「――外がこんなに怖いところだなんて知らなかった」
今までの話の流れなど関係なく、唐突に、アイシャはそう口にした。
「早く家に帰りたい。博士はまだ来ないの?」
痺れを切らしてのことであった。その問いかけに男は指先で頬をかく。
「なにせ時間がかかるんだ。事が事だからね」
男はアイシャの背後にある壁掛け時計を見やる。時間の経過を確認した。
「……何も知らないままなのも可哀想だ。きみが博士と会う前に少し教えておこうか」
考え込んだ風に顔を俯けながら、男は声のトーンを重厚に変えて話し出す。
「もうしばらくしたら、きみは博士と面会する。そしてそれが最後になるかもしれない。話す内容はちゃんと考えていたほうがいい。本人の口から聞きたいこともあるだろう」
「え? 最後って……どういう――」
「もう会えなくなるということだ。きみと博士は離ればなれになる」
「離ればなれって、そんなふざけたことあるわけないわ」
こればかりはどう考えても理解できようがない。アイシャには意味がわからなかった。あの人と離れることなどできるはずがないのだ。有り得ないことなのだ。
「きみの博士は……大きな罪を犯してしまったんだ。そのせいで今は勾留されている」
「う、嘘よ、貴方は嘘をついているんだわ。博士が一体何をしたっていうのよ?」
「……さっきも少し言ったが、私たち研究者には枷がある。遺伝子工学に携わる者として絶対にやってはいけないことが。彼はそれをやってしまったんだよ」
感情を荒げるアイシャに対して男は一層と慎重な物腰で対応していた。
「昔、博士はここの研究所で働いていた。私とドライドット博士は仕事仲間だったんだよ。彼は極めて優秀だったが、研究者としては危うい面も持ち合わせていた」
「わからない。貴方の話、私には難しい……つまり、だから、博士が何をしたの?」
「それは本人の口から直接訊いてくれ。もうそろそろ来る頃合だろう」
施設に閉じ込められて数時間、おそらく今は夜だろう――時計の針は頂上を指した。