自由の代償
「どこにもいないじゃないか」
アイシャの家出から五時間が経過した頃、いつもより早い時間に博士は起床した。
虫の知らせというやつだろう――だが少し早く起きたところでもう遅かった。
博士はアイシャの部屋の前に立ち尽くしながら、ふと、自身の頬を引っ叩いた。しかしそれは夢ではなく――部屋は紛れもなくもぬけの殻、蛇の抜け殻、アイシャはどこにもいない。
日頃から顔色の悪い博士の顔が、今朝はより一層と青ざめていく。
車椅子は部屋に置かれたまま、最愛の娘の姿だけがどこにも見えない。
彼がガレージから消えた車に気づき、すべての事態を察するのは今から間もないこと――。
アイシャたちは車で市街地にまで行き着いていた。
車体をあちこちぶつけながらも、ここに来るまでのあいだに何とか運転も慣れてきた。アイシャはアクセルを踏んだときと同じ要領で、尾の先っぽをブレーキペダルに押し付けた。
アイシャたちを乗せた車は街路樹の傍に停まる。そこから辺りの景色を見回した。
「………………」
どこに視線を落ち着けていいかもわからない。目から耳から入る情報が多すぎる。
それはあまりに色づいて――アイシャは息をすることすら忘れていた。
たくさんの建物が並んだ路地をたくさんの人が行き交う。聞いたこともない楽器の音に振り向けば、白塗りにめかしこんだ道化が子供らを寄せている。ふとすれば首輪をつけた奇妙な動物が車の傍に通り過ぎて、街路樹のうえでは見たこともない鳥が唄う――。
世界はあまりに夢に溢れている。きょろきょろと動かし過ぎた首が痛くなるほどに。
「……………………すごい」
そう一言漏らすのがやっとだった。彼女には――。
真っ白な部屋の中、窓の外は緑一帯、ただ積み重なった本を消化していく――そんな日々が決して嫌いだったわけではないけれど、だけどこんなものを知ってしまったら……。
「やっぱり私、ここに来るべきじゃなかった」
誰かに呟いたでもなかったが、頭のうえにいたリングポールが反応する。
「んん? どうしてだよ。そんなに目を輝かせておいて」
「だって、きっと、また来たくなってしまうもの」
「何度でも来ればいいじゃないか。脱走なら何度でも付き合うぜ」
「リングポール……貴方って良い人ね」
「よせよ。照れるだろ。それに俺は人じゃなく鼠だ」
会話もそこそこに、アイシャは再び車窓の外に意識を釘づけにする。飽くなき景色に胸の高鳴りが止むことはなかった。その様子にリングポールは微笑みを浮かべる。
「ねえ、リングポールはこの町から来たの?」
町並みを眺めながら、ふと、アイシャはそんな疑問を抱いた。
「わからないな。なんせずっと店の中にいたから、外の風景なんてほとんど知らねえし。少なくとも、ショーウィンドウの内側から見えていた場所じゃあ――」
途端、リングポールは失言めいた風に自身の口を押さえた。しかし、その過剰な反応はかえってアイシャを訝しめる結果となる。
蓋をするように口を塞いだリングポールに、アイシャは視線を移した。
「リングポール、貴方って、元の町では閉じ込められていたの? あれ? でもそれだとおかしいわ。だって貴方あんなに、私に外の景色のことを話してくれたじゃない」
「………………」
実体験さながらに語った話の矛盾を突かれると、リングポールはバツ悪そうに項垂れた。アイシャはそんな彼の首根っこを摘まみ上げると、そのまま顔の前に持ち上げる。
「ねえ? どういうことなの?」
視線は反らせられない。リングポールは少女の無垢な瞳に真っ向から問いかけられる。すると、やがて観念したように彼は溜息を吐いた。
「わかった……白状するよ。実は、外の世界のことなんて何も知らない。俺はお前の博士に買われるまで、ずっと店の中で売れ残っていた。……口が悪いからな」
宙に摘ままれながら、リングポールは自嘲する。
「そうだったの……でも、それならそうと、なんで――」
「だって、お前があまりに良い反応をするから……俺の話で、もっと笑ってほしかった。だから客から伝え聞いた話を誇張して、ときには、その……嘘もついた」
「………………」
「悪かった。心から謝るよ。どうか許してくれ」
首の後ろを摘ままれながら懇願する小さな鼠を、アイシャは丸い瞳で見つめていた。
「……許すも何もないわ――」
アイシャは摘まんでいたリングポールを掌のうえに包み込む。まるで水をすくうようにもう片方の手のうちに入れると、彼女は自身の手の中でリングポールにキスをした。
短い毛に覆われた鼠の額に、少女の唇が優しく当てられるように――。
「私、ちっとも怒っていないもの。やっぱり貴方は良い人ね」
口づけを済ますと、アイシャは自身の口元からリングポールを遠ざける。彼女の手の中でリングポールはすっかり腰を抜かしていた。
「だから俺は鼠だって……一瞬、マジで食われるかと思ったぜ」
――修羅場のようなものも過ぎて、二人は再び車の外の景色に視線を移した。
結局、リングポールがこの町から来たどうかはわからないことだった。
「探せば貴方のいた店もあったりして」
「あるかもな。でもそれはいいよ。あんま戻りたい場所でもねえ」
喋りながら、ふと、リングポールはアイシャの頭から飛び降りる。着地した場所は車窓の開閉スイッチのうえで、閉ざされていた窓がゆっくりと下がっていった。
生暖かい風が車内に入り込む。新鮮な外の空気にアイシャは安らかな気持ちになる。
アイシャは窓枠に腕を組むと、そのうえに顔を乗せて景色を眺めた。
「きっとここはいい町だわ。他はどうか知らないけど」
アイシャは鼻歌まじりでご機嫌に――ふと、街路に立ち止まっていた少年と目が合った。その少年は傍らに奇妙な動物を従えて、アイシャを目に足を止めていた。
しばらくして、アイシャは見つめられていることに気づくと、慌てて車の窓枠から顔を引っ込めた。恥ずかしさに顔を赤くしながら、リングポールに向かった。
「どうしましょうリングポール。彼、こっちを見ている」
「んー、そうだな……手でも振ればいいんじゃないか?」
言われるがままアイシャは手を振る。すると少年も朗らかにそれに応えた。
年頃はアイシャと同じくらいか――少年はそのままアイシャのいる車に近づいてくる。ペットにリードを引っ張られながらも、足を止めずに前進してきた。
「やあ、こんにちは」
少年はリードを押さえながら、ある程度の距離を保ったところで頭を下げる。アイシャもまた少年に頭を下げた。彼女は初めて博士以外の人物と挨拶を交わしたことになる。
「こ、こんにちは……うわ!」
アイシャがそう返した瞬間、少年の傍にいたペットが彼女の車に飛びかかろうとする。けたたましく鳴き声を上げながら――しかしリードがその動きを制止していた。
「こら、エンビヤードっ! 驚いてるだろ!」
飼い主の一声に動物は落ち着きを取り戻す。アイシャは車の中で身を縮ませていた。
「ごめんなさい。こいつ、きみにじゃれたいみたいだ」
「……その子、エンビヤードっていうの? 見たことない動物だわ」
実際に見たことのある動物のほうがアイシャには少ない。しかしそれを踏まえたうえでも『風変わり』だと感じるほど、違和感を覚えて止まない生物だった。
アイシャは大人しくなったペットの姿を改める。四足歩行で、まるで鳥のような口ばしと飾りのような小さな羽根を携えて、全身の毛は金色で、細長い尻尾を揺らしていた。
自身のペットを珍しそうに見入るアイシャに、少年は自慢げに身を乗り出す。
「今流行りの『グリフィックス』だよ。知らない?」
「ええ、知らないわ。初めて見るものばかりなの」
照れ臭そうに口にする。その初々しさに少年はどこか惹かれている様子だった。
「この町、貴方のように動物を連れている人が多いのね」
「あ、ああ。ここはペット産業が盛んな町だからね」
急に早口になる。意識した途端、少年は目を泳がせる。
「大体の人は動物と一緒に暮らしているよ。あっ、きみも――」
ふと、少年は車の窓枠に立っているリングポールの姿を発見する。そこに指を向けた。
「きみもペットを飼っているんだね。そこにいる鼠。小さくてかわい――」
「おうおう、気軽に俺を指差すなよ。その指、噛み千切るぞ」
「……とてもかわいい『喋り鼠』だね」
「あら? 貴方、リングポールのことを知っているの?」
「リングポールって……ああ、名前か。まあ『喋り鼠』は割と有名だから――」
少年はリングポールを瞳の中に入れる。鼠は小憎たらしく指を立てていた。
「でも話題になったのは一昔前だよね。『喋る動物』って、初めは飛ぶように売れたけど、廃れるのは早かった。今じゃペット屋のワゴンが小煩い始末だ」
「…………?」
「ああ、ごめん。飼っている人に言うような話でもなかった」
単に話についていけず黙っていただけだが、気を悪くしたと勘違いして少年は謝った。
「実はさっきもこの道を通ったんだけど、きみはさっきから誰か待ってるの?」
勝手な引け目から話題を変えるように少年はアイシャに訊ねる。
「……? いえ、誰も待ってはいないわ」
「じゃあどうしてずっと車の中に? まさかきみが運転するわけでもないだろう?」
「あー、えっと……そうね。人を待っているわ! あなたの言う通り!」
勝手に車を持ち出したやましさもあって、アイシャは咄嗟に話を合わせた。
「やっぱりね。退屈じゃない? ずっとそこにいるの」
「そんなことないわ。ここから外を見ているだけでも十分に暇をつぶせる」
「そう? きみって、なんだか変わってるね」
「……私、少し前まで部屋に籠もり切っていて、実は町に出るのも今日が初めてなの」
「え? あ、そうだったんだ。だからずっと――」
「ええ、ここから町を眺めてる。それだけでとても楽しいの」
アイシャは満面の笑みを浮かべる。かつて見たことないほどの無邪気な笑みに、少年はすっかり見蕩れて、その胸は心地よい火照りに包まれていく。
「よかったら……もし、きみがよかったらだけど、一緒に町を歩いてみない?」
少年からの思いがけない提案に、アイシャは目を丸くした。
「案内するよ。したいんだ、僕が。町に来たのが初めてっていうんなら」
「え? で、でも、えっと、あの……」
「そこでじっと町を眺めているよりかは、そのほうがずっと楽しいと思うんだ」
「………………」
アイシャは下目にリングポールをうかがう。どうするべきかを視線で尋ねた。
「いいんじゃないか? 別に。せっかく町に来たんだ」
「ほらっ! 彼もそう言っていることだし、そうしよう!」
顔を俯けたアイシャはどこか気恥ずかしそうに髪を撫でる。
ひとりでは踏み切れなかったところに、少年の提案は願ったり叶ったりのものだった。
「じゃ、じゃあ……うん。そうする」
俯きから更に頷いてみせ、アイシャは頬を紅潮させた。
「やったあ! 張り切って案内するよ」
少年の提案を了承し、アイシャの胸の高鳴りは更に激しさを増していく。さんざと目にした夢の景色にこの身をようやく入れるのだ。それこそまさに夢のよう――
アイシャは車内からドアの取っ手を掴む。そのときドアロックの外れる音がした。
車のドアはゆっくりと外側に向けて開かれていく――その途中、エンビヤードが激しく鳴き声を上げた。瞬間、アイシャに向けていた少年の意識はペットに逸らされる。
「だからうるさいって。びっくりするだろ彼女が――あ、そういえばきみの名前って」
少年は再びアイシャのほうに顔を向けた。
車のドアはすでに開き切っている。今まで車のドアに隠れていた下半身が露になって、そのとき初めてアイシャの全貌が少年の目に飛び込んできた。
現れた異形に少年は言葉を失い、手に持っていたリードを地面に落とした。
隣ではエンビヤードが鳴いている。少年はもうそれを窘めることもしない。
少年の目は限界まで見開かれ、悪夢にも似た眼前の光景を瞳の中に映す。
紛れもない少女の上半身から確かに伸びているのは、鱗の生えた緑色の皮膚――それはまるで蛇のように不気味にうねっていた。
車のドアによって押し込められていたアイシャの半身は、尾の先を車の外に垂れさせる。立ち尽くす少年の目には、可憐な少女が一転して化物に姿を変えたように見えた。
「アイシャよ。私の名前はアイシャ」
せっかく訊いたあの子の名前も、今では耳に入らない。
少女が思っていた以上に世界は素敵なものではあったけど、少女が思っていた以上に世界は彼女に残酷で、それを彼女が知るのは今から間もないこと――。