少女は羽ばたく
やがてアイシャはガレージの前に辿り着く。それは家から出て約二時間後のことであった。
「頑張ったなあ。頑張ったよお前」
リングポールは労わりからアイシャの頭をペシペシと小さな手で叩く。アイシャは息も絶え絶えに汗まみれ、疲労困憊の彼女は腕を枕にしてシャッター前の地面に伏せていた。
この錆びついたシャッターの中に車があることは知っている。後はどう開けるかだった。アイシャはおもむろに顔を上げ、閉ざされたガレージを見据える。
「あのボタンじゃないか?」
リングポールはシャッターの横にある矢印の開閉ボタンを発見する。
「おい、もうちょっとそこの壁に寄ってくれ。俺が押す」
頭のうえから指示されたように、アイシャは腕を伸ばしてガレージの壁に寄りかかる。その壁に縋るようにして、できるかぎり頭の位置を高くした。
「よし。もう少し、あとちょっと……よしっ!」
リングポールが体全体でボタンを押した瞬間、ガタついた音を出しながらもゆっくりとシャッターは上がっていく。月明かりがガレージ内に差し込んだ。
博士愛用の小型車がアイシャの目と鼻の先に現れる。これが遠い彼方に走り去っていく様子を、アイシャは部屋の窓から何度も見送っている。彼女にとって夢の箱舟だった。
アイシャはガレージの中に身を入れる。車体の周りを確かめるように回った。彼女からして目に新しいものではないが、触れるにしては新しいものだった。
冷え切った車体に手を当てる。一頻り金属の肌触りを感じたところで、アイシャは車の前部ドアに触れ、彼女はおっかなびっくり、そのドアの取っ手を引いてみた。
ゆっくりとドアが外側に開いていく。アイシャからして意図はなく、偶然に触った弾みでの出来事だったので、唐突に開いたドアに彼女は心臓を飛び上がらせた。
「お、開いたか。さっさと乗り込もうぜ」
「う、うん……そだね」
驚きを内心に隠しつつ、アイシャは車内に這って身を入れていく。そして入ってすぐのところ――左の運転座席に腰を落ち着けた。しばらくそのままの状態で固まる。
次のアクションを思い悩んでいた。ハンドルを握るということだけは辛うじてわかる。しかしそれ以外のことは、窓の外からはうかがえなかったのだ。
「ねえ? ここからどうするの?」
「知らねえよ。俺は所詮『鼠』だからな」
「今さらそんなこと言うのズルイ」
「うっせーなあ。わかったよ。俺も一緒に考える」
それからアイシャは目に見えるボタン全部を押してみたが、一向に車は音を動かない。時間だけが虚しく過ぎていき、家から出てもう三時間近くが経とうとしている。
「もう駄目。どうやったって動かないよ」
「………………」
諦めた空気を出すアイシャの傍ら、ダッシュボードのうえでリングポールは考え込む。自身の近くに置かれている『鍵』のようなものをじっと見つめていた。
それは車のキーだった。不用心にもそれはそこに置かれている。もっとも博士からして、用心する必要もないことだったのだろう。こんな辺鄙な場所では車上荒らしも現れない。まさかアイシャがこのような行動に出ることは、まったくの想定外である。
「どうしたの? そんなものを見つめて」
扉のない家で育ったアイシャは『鍵』というものの重要性に気づけない。しかしながらリングポール――彼は一度、ここに来るときに車で運ばれている。昔日の後部座席にて、ケージの隙間から覗いていた記憶を頼りに、何かを思い出そうとしていた。
「なんか引っかかるんだよなあ……これ」
リングポールはキーを持ち上げる。その瞬間、彼の手からアイシャがキーを奪った。
「これがどうかしたの?」
アイシャはキーの頭を指で摘まみながら、ふと、何かに思い当たる。ハンドルのすぐ傍にある差し込み口と、手にしたキーを見比べた。
「……………………」
思いつきにアイシャはキーを差し込んでみる。瞬間、リングポールは目を見開いた。
「そうだ! それだ! それをグルッと回すんだよ」
「回すって……こう?」
言われるがままにアイシャはキーを回した。途端、エンジンがかかり、車が音を立てる。そのけたたましい音にリングポールは歓喜して飛び上がった。
「大正解だっ! ああ、次々に思い出してきた! 次は足元にあるそれを踏むんだ!」
「踏むって言われても、難しいな……」
重くて動かせない下半身だが、それでも辛うじて軽い尾先だけは動かすことができる。アイシャは尾先を何度か跳ねさせると、それをアクセルのうえに乗せることが叶った。
「踏んだよ――って、うわっ!」
瞬間、アイシャたちを乗せた車は動き出す。そのままガレージから飛び出していった。走り出した車に、アイシャは咄嗟にハンドルを握っていた。
見渡すかぎりの広大な草原――事故の起こしようもない場所だったが、アイシャは緊張から目を泳がせる。その視界に、ハンドルの根元によじ登ったリングポールが現れた。
「やったなアイシャ! これでこことはオサラバだぜ!」
リングポールは車のリアガラスに映る景色に向かって手を振った。
つられて、アイシャはバックミラー越しに後ろを確認する。
気づかぬうちにすっかり遠のいていた。博士と過ごしていた家が徐々に小さくなって、車という乗り物は一瞬にして、アイシャをそんな距離まで運んでいた。
はしゃぐ鼠に対して、少女は底知れない不安を覚える。
草原に轍を残して車は進んでいく。やがてアイシャの家も彼方――闇に紛れていった。見えなくなったとき、アイシャはもう背後を気にするのをやめた。
この広い草原の終わりを探して、車のヘッドライトは行く先を照らしていく。そうして走行していると、次第に夜闇も形を潜めて、辺り一面は朝焼けの光に包まれる。
家から出て何時間が経っただろうか――やがて草原は途切れ、舗装された道路が遠目にうかがえる。社会には有り触れたアスファルト道路に、少女は胸をときめかせた。