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脱出

「博士は寝静まったぞ。行くなら今がチャンスだ」

 ひっそり声で耳元に呟くのはリングポール――そのときアイシャは目を覚ます。彼の姿をその目に入れた瞬間、腕を立てて勢いよく上半身を起き上がらせた。

 見下ろした先、枕元にいたのは他でもないリングポールの姿である。

「リングポール? ああ、まさかこれは夢かしら」

「寝惚けているのか? しっかりしろ」

 決して夢幻ではなく、部屋から出ていったはずのリングポールがそこには立っている。

「貴方、どうして戻ってきたの?」

「元々そのつもりだったさ。俺一人では心許ないからな」

 そう言うと、リングポールはその小さな手を、アイシャに差し向けた。

「お前も一緒だアイシャ。俺と一緒にここから出ていこう」

「…………え?」

 思わず素っ頓狂な声を上げる。目をパチクリとさせた。

「博士の車に乗ってここを出ていくんだ。お前だって外の世界に興味があるだろう?」

「………………」

 外に憧れを抱いていたアイシャにとって、その文句はどれほど魅力的なものだったろう。どれだけ心に響いたものか――気づけば、リングポールの手を取っていた。

 差し向けたリングポールの小さな掌に、アイシャの指先が乗っている。彼女の決断に、リングポールは嬉しそうに前歯を覗かせた。

「で、でも、リングポール……私は博士も好きなの。だから、その――」

「心配するな。ちょっと外に出るだけだ。わかってる。最後にはここに戻ってこよう」

 震える指先から伝わる不安に、リングポールは理解を示した。

「俺だって、お前の嫌がることはしたくないさ」

 この踏めば潰れる小さな鼠の、リングポールの目的はただひとつ。自身を『友』として認めてくれた少女の心根に応えたい――ただそれだけだった。

「そうと決まれば善は急げだ。ほら、急げ!」

「う、うん。でも、ちょっと待って」

 急かされながら、アイシャは枕元に置いていた聖書を懐に入れる。博士から貰った大事な一冊をお守り代わりに、彼女はそれを腕の中で抱きしめる。

 あまりに心許ない旅の準備を終えると、アイシャは着々と行動を開始する。

「車椅子は使わないほうがいいわね。車輪の音がうるさいし、ひとりでは玄関の段差を通れないもの」

 アイシャは上半身から転げ落ちるようにしてベッドの外に身を放り投げた。

 ベッドから上半身が落ちると、その後からついてくるように蛇の尾もベッドからずり落ちた。

 ドスンと重たい下半身が床に落ちると、その衝撃にリングポールは過敏に反応する。

「おい、気をつけろ。博士が起きちまうよ」

「ごめんなさい。気をつける」

 アイシャは腕の力だけで床を這っていく。下半身を引きずりながら部屋を出ていこうとした。

 リングポールもベッドから飛び降りて、アイシャの後にとことこと追従する。

 先に彼女が述べた理由から、ベッドの縁に立て掛けられている車椅子は使えない。

 外に出るための扉の前には不自然な段差があり、博士の補助なくしてはそこを車輪が通れないように出来ている。思えば、この家はアイシャにとって不親切な部分が多かった。

 まるでそう――アイシャの自立を許さないように。決してひとりで好き勝手させないように。

 一瞬、アイシャの頭の中によくない考えが浮かんだ。だけどすぐ『大好きなあの人を疑うなんて!』と、アイシャは脳裏によぎった思考をすぐさま振り払った。そんなことはないと自分に言い聞かせた。

「俺がもっとデカかったら、お前を押して外に出してやることもできるのに」

「ありがとう。その気持ちだけでうれしい」

 口惜しそうに部屋のあった車椅子に振り返るリングポールに対して、アイシャは笑みを浮かべる。

 アイシャは腕を懸命に動かし、ずるずると廊下を這っていく。途中、いくつもの部屋の前に敷かれたカーペットを体の下に巻き込みながら、玄関を目指して進んでいく。

 この家にある『扉』はひとつだけ――外に通ずる玄関扉だけだった。それ以外のものはまるで取っ払われたように、隔てるもののない部屋は廊下からも丸見えである。

 浴室もトイレにも扉はない――そのことに対してアイシャが疑問を抱いたことはない。その異常さは、外の世界を知らないアイシャにはわからないことだ。

 ずるずると廊下を這っていく。ふと、その途中でアイシャは止まった。

 博士の部屋の前に差しかかろうとするところでアイシャは一層と息を潜める。ここ一番の山場だった。扉のない部屋からは廊下の様子は丸見えなのだ。

 部屋の入口の外から顔を覗かせて、アイシャはベッドのうえにいる博士の姿を確認する。博士はシーツをかぶり、アイシャのいる反対側に顔を向けて横たわっていた。

 アイシャは立ち止まったまま、なかなか決心がつかない――見かねたリングポールは、博士の部屋を通り過ぎた向こう側に先立って渡っていった。

 リングポールはせっかちめいた手招きをする。そのアクションに誘われて、アイシャはおずおずと部屋の前を通り過ぎようとした。その瞬間――

「う、ううん……アイシャ……」

 寝声を漏らした博士に、アイシャは入口の真ん前に体を出し切ったところで固まった。追いうちとばかりに博士は寝返りを打ち、アイシャのいる入口側に寝顔を向けた。

 アイシャは石になったように身動きを止める。いやな汗が全身に滴った。

 ――食事の前にはお祈りを――

 いつの日かの会話を思い出す。誰かの言葉が脳裏によぎって止まない。

 ――朝と夕方、そして就寝の前にもだ――

 ――良い子でいなさいアイシャ。私との約束だ――

 胸の内にしまった聖書がやけに重たく感じた。

 『博士に黙って家を出ていこうとしている』――その罪悪感がアイシャの尾を引いた。

 生まれて初めて、大切な人に対して不逞を働こうとしているのだ。

「おい。なにしてんだ。早くこい」

 リングポールの呼び声に、アイシャはハッとしたようにそそくさと廊下を這っていく。博士の部屋を過ぎた場所までなんとか辿り着くと、静かに一息をついた。

「まだまだこれからだぜ。気ィ抜くなよ」

「うん…………」

 しばしの別れを惜しみ、アイシャは博士の部屋の前を後にした。

 ――その後はリングポールが先導し、特にこれといった障害もなく玄関まで辿り着いた。アイシャは車椅子止めの段差を越えると、少し躊躇いがちに扉のノブに手をかけた。

 がちゃりと、実に呆気なく扉は開く。

 肩透かし気味に扉が開いた瞬間、肌寒い夜風がアイシャの顔に吹きつける。

 昼間の景色とはまるでちがう――月明かりが唯一の標、夜空の下に草原が蠢いていた。不気味に、ひとり外に出てきたアイシャを嘲笑うかのように草が音を鳴らしている。

 少女は地面に手を突いて眼前に広がる光景を眺めながら、言葉を発することもできない。いつも窓ガラス越しに見ていた景色の中に身を出してみて――

「………………」

 怖気づいていた。あの家の中がどれだけ自分にとって安心できる場所なのかを痛感する。夜の肌寒さにやられて、アイシャは自分の部屋に引き返そうとも思った。

「ねえ、リングポール……私、やっぱり――」

「なんだ? ビビったのか?」

「うん。なんだか怖い。それにとっても寒いの」

「大丈夫だ。俺がいる。寒いならそこら辺のカーペットでも体に巻いとけ」

 そこらの草よりも丈の低いリングポールは、喋りながらアイシャの頭のうえによじ登る。

「ほら、さっさと行くぞ。俺を振り落とさないようにな」

「…………わかった」

 アイシャは細長いカーペットを肩に羽織ると、渋々草原の中を這って進んでいく。

 彼女ひとりなら引き返していたことだろう。しかし今日はリングポールがついている。彼女にしても、その胸の内にあるのは何も『恐怖』だけではない。相応の好奇心だってある。

「ほら、多分あそこにある建物だ」

 目指すガレージは遠目に見られる距離にあった。少女の細腕ではそこまで行くのに時間がかかるだろう。

 夜の空気に晒されて冷たくなった地面を、アイシャは懸命に這い続けた。


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