八回目の誕生日
アイシャがいつも読んでいる聖書は博士が与えたものだった。
去年の今頃――七回目の誕生日に送られたものだ。彼女は本が好きだった。
彼女は誕生日のたびに、いつも本を一冊渡――そして今日アイシャは八才になる。
床で寝そべって本を読みながら、少女の心はどこか浮わついていた。
爬虫類の尻尾の先は、さっきからまるで上機嫌の犬のように忙しない。
そうしてアイシャが部屋で読書にふけっていると、がちゃりと玄関扉の開く音がする。
博士が帰ってきた。アイシャは本をぱたんと閉じる。
扉のない部屋の戸枠から開け広げになっている廊下を見つめた。
玄関から聞こえてくる足音は、そのままアイシャのいる部屋まで近づいてくる。
その日、外の買い出しから戻ってきた博士はアイシャに素敵なものを用意していた。
「アイシャ。ほら、お前が欲しいと言っていたものだ」
そう言って、目の前の床に置かれたのは布をかぶった四角い箱のようなものだった。
プレゼントにアイシャは目を輝かせる。確認をするように彼女は博士を見た。
「ああ、いいよ。確かめなさい」
その言葉にアイシャは箱にかかった布を剥いだ。すると中から透明のケージが現れた。ケージの底には干し草が積まれ、そのうえには小さな鼠が乗っていた。
アイシャは床に伏せた姿勢でケージの中を覗き込む。ふと、その鼠と視線が合った。
「おい。なにジロジロ見てんだよ」
途端、聞き慣れぬ声にアイシャは目を見開く。その声は眼前の鼠から発せられた。
アイシャは驚いて身を飛び上がらせる。背後では博士が顔色ひとつ変えず立っていた。
「町で買ってきたものだ。『喋り鼠』というらしい」
博士は後ろで説明を始める。不思議な鼠にアイシャは釘づけになっていた。
「きっと、お前の良い話し相手になってくれるはずだ」
簡潔に説明を終えると、博士は気まずげにアイシャの部屋から立ち去ろうとする。
『友人が欲しい』という少女の願いに対して、このような贈り物はお為ごかしでしかないだろうということは理解していた。それゆえに彼女の反応を最後まで見ることができなかったのだ。
博士が部屋の外に身を出そうとしたとき、それに気づいたアイシャは一旦鼠の入ったケージから視線を外す。ひっそりと部屋を出ていこうとする引け目のある背中に、彼女は満面の笑みで投げかける。
「博士。ありがとう。とっても素敵な贈り物」
その屈託ない言葉に、博士は廊下に身を出したところで足を止める。
博士は彼女に背中を向けたまま、手だけを顔の横に適当に振り上げると、そのまま自室に去って行った。
部屋にはアイシャと鼠だけが残される。再びケージの中に視線を戻した。
「ねえ、貴方のお名前はなんていうの」
ご機嫌に問いかけるも、鼠はおもむろにケージの隅の干し草に隠れていった。
「……? どうしたの?」
「あんた、俺の生存本能に訴えかける形をしている」
普通とはちがうアイシャの下半身を見、それに気づいた鼠は体を震わせる。
もぞもぞと乾草の中に頭を突っ込んで、でっぷりとした尻だけが外に出ている状態だ。
「わかるぞ。その笑顔で油断させて俺を食う気だろう?」
「そんなことしないわ。貴方と友達になりたいだけ」
「……ホントか? 二言はないか?」
「ええ。だからまず貴方のお名前を教えて?」
「まずそっちから名乗れよ。俺が名乗るのはその後だ。礼儀だろう?」
途端、鼠はケージの中央にまで歩み出てくると、ふてぶてしくふんぞり返る。
「私の名前はアイシャよ。ア・イ・シャ。……覚えてくれた?」
「鼠だからって舐めるなよアイシャ。俺の名前はリングポールだ」
「まあ、さっそく私の名前を呼んでくれた。貴方、とても賢いのね」
「そこらの鼠よりかはな。なんてったって、今町で流行りの『喋り鼠』だぜ」
「嬉しいわ。ずっと話し相手が欲しかったの。そうだ! 貴方って町から来たのよね?」
パンッと両手を打ち鳴らすと、アイシャは目を輝かせながらケージに詰め寄る。
「町のことを私に教えて。ずっと気になっていたの」
「それはいいが、まず餌をくれ。さっきから腹が減って仕方がないんだ」
「わかった。博士に貰ってくるわね」
慌てて部屋を出ていって、そしてすぐにアイシャは餌の袋を抱えて戻ってきた。
――傍らに山盛りの種を積みながら、リングポールは食事を始める。頬に種を溜め込むリングポールの姿を、アイシャは床に寝そべりながら面白そうに眺めていた。
「博士は、あまり町のことを教えてくれないのよ」
ケージの表面を指でつつきながら、中にいるリングポールにアイシャは話し始める。
「私には知らなくてもいいことだって。あんな場所に興味を持っちゃ駄目だって」
不貞腐れた風に、アイシャはケージの表面を強めに弾いた。
「いつもひとりで外に買い出しに行っちゃうの。私はいつも家で待たされて……」
「へえ、そりゃあ、どうしてだろうな?」
ほぼ意識を食事に集中させながらも、リングポールは言葉を返した。
「わからないけど、多分、私が歩くことできないから……ほら、あのベッドの傍に車椅子があるでしょう? 家で一緒のときは、いつも博士にあれを押してもらっているの」
アイシャが視線で示す先にリングポールは振り返る。ケージのすぐ後ろにあるベッドの傍には車椅子が置かれていた。それはアイシャ専用の特注品だ。
「だからなのかな。私と一緒だと、外では色々と面倒なのかもしれないわ」
「ふむ、えらく不便しているようだな。わかるぜ、わかる。俺もこんな小さな体だからよ」
一頻り食べ終えて満足すると、リングポールは改めてアイシャと向かい合う。
「でー、なんだっけ……そうだ。町の話が聞きたいんだったな」
コホンと、わざとらしい咳払いをひとつ――リングポールは喉を鳴らした。
「町はすごいぜ。色々な人がいて、色々な建物があってよ」
待ちかねた話の始まりにアイシャは頻りに顔を頷ける。
「中でもそうだな。広場の中央にある時計台は必見だ。短い針が頂上を差すと、時計の中から鼓笛隊が顔を出すんだ。楽器を打ち鳴らして、そこにいる皆を笑顔にする」
「まあ……それは素敵ね。とっても」
「時計台だけじゃないぞ。ビルトン通りの川にかかる大橋も見物だ。愛し合ったカップルはそこを訪ねて、橋のしたにいる鴨たちにパンくずを投げるんだ。最近、小鴨が産まれたとかでも話題になってさ、あそこの通りは人が絶えないよ。面白い店もいっぱいあるし、少し道を歩くだけで心が浮き足立つ。そこらには大道芸人の縄張りもあってね、毎日子供たちを集めては芸をしているんだ。特にファイヤーマンの火吹き芸は一見価値がある」
――それからしばらく、アイシャは黙って話に聞き惚れていた。
目を閉じては町の風景を想像する。色めき立った頭の中には音符たちが躍っている。
「とにかく町は素敵なもので溢れ返っている。首を回すのに大忙しさ」
一通りの話を終えた頃には得意満面に、そんなリングポールには拍手が送られた。
「そう……やっぱり町は素敵なところなのね。そうだと思っていた」
いっぱいになった胸を落ち着けるように、一旦、アイシャは大きく息を吐き出した。
「ねえ? もっと話を聞かせてくれる?」
「欲しがるやつだな。まあいいけどよ。そうだな次は何を――」
「おい、アイシャ。そろそろ夕食の時間だ」
途端、博士が廊下から部屋の入口に顔を出してくる。音もなく現れた彼にリングポールは肩を飛び上がらせた。アイシャは博士に振り向くと、笑顔で頷いた。
博士は夕食の準備に戻っていく。そのあいだにアイシャは車椅子のある場所まで這って、動かない下半身を引きずりながら、器用に椅子のうえに乗り込んだ。
「貴方も一緒に行きましょう」
アイシャは車輪をリングポールの元まで動かすと、身を屈ませて、彼の入ったケージを持ち上げる。それを自身の腰のうえに落ち着け、部屋を後にした。
車椅子は廊下を進んでいく。リングポールはケージの中から家の構造を観察していた。そしてふと、おかしな点を見つける。廊下に並ぶいくつかの部屋を見て首を傾げた。
「この家にはドアがないんだな。なんだか変わってるぜ」
ここまでのすべての部屋に扉が見当たらない。そのことに疑問を抱いた、
「ドアならあるわよ。玄関のほうにひとつ」
「そこだけなのか? 思えば、お前の部屋にもなかったようだが」
「えっと、そうだけど……それってそんなにおかしいこと?」
訊き返してくるアイシャに、リングポールは顔を俯けて腕組みを返した。
「いや、俺も人間の感覚というやつは正直よくわからんが……少なくとも俺のいた場所は、こうも開けっ広げではなかったな」
「そうなの……なぜなのかしらね。夕食のとき、博士に訊いてみるわ」
――そしてアイシャは食卓に現れる。机のうえには二人分の料理が準備されていた。
「アイシャ。食卓のうえに鼠を乗せるのは感心しないな」
「………………」
注意を促されて、それでもアイシャは懇願するように博士の顔を伏し目がちに覗いた。しかし博士は手にしたフォークをぷいっと振り下げて、アイシャに回れ右を指示する。
「部屋に戻してきなさい」