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そこにあるものだけは

「あの部屋にはもう近づかないほうがいい」

 ベティの部屋から離れた後、アイシャの車椅子を押しながらリジーは言った。

 アイシャは後ろに振り向き、車椅子の背もたれに両手をかけながらリジーの顔を見上げた。

「どうして? どうして近づいちゃ駄目なの?」

「あの子は――ベティは少し『訳あり』なんだ。他の子とはちがう」

「ここに『訳あり』じゃない子なんているの? そんな説明じゃ納得できないわ」

 アイシャの追及にリジーは口ごもる。

「あの子は病気なんだよ。皆に感染(うつ)らないようにあそこに監禁しているんだ。施設の人が言ってた。元々ここに来る予定の子じゃなかったって。あの子がここにいることは何かの手違いなんだって。ビエトリクスの目もあの子のせいなんだ。ビエトリクスは『違う』って言っているけど……」

「どういうこと? あの眼帯はベティが負わせたものだというの?」

 アイシャの直接的な物言いにリジーはまたも口ごもる。

「……ビエトリクスはあんな性格だから、ひとり部屋に押し込められているベティを不憫に思ったんだろうね。毎日、あの子の部屋の前まで行って話しかけてあげていた。熱を出したのはそれからだ。体中に赤いブツブツができて、今は大分マシになったけど、まだ完全に治り切っていないんだ。湿疹のできたところが痒いから掻いちゃって、そこから血が出て、あんなにかわいそうな姿になってるんだ。ビエトリクスはいつも扉の格子越しにベティと話していた。きっとそこから感染(うつ)ったんだと思う」

「馬鹿げているわ。確証がないじゃない」

 リジーの話にアイシャは機嫌が悪くなった。アイシャはリジーの補助を拒絶するように自分の手で車椅子の車輪を回し始めた。アイシャが自力で車輪を回すと、リジーも車椅子から手を放した。

「嘘じゃないよ。ホントの話なんだから。もうリジーには会わないほうがいいよ」

 リジーは背後から叫ぶが、アイシャは聞く耳を持たなかった。

「いじっぱりさん。ちゃんと忠告したからね」 


 

 

 ベティと会ったその日の夜、アイシャはベッドの中で彼女のことを考えた。

 ――よかったらまたきてちょうだい。また一緒にお話ししましょう――

 わたしもまた会いたいと思った。あの子とだったら友達になれるかもしれない。

 固く閉ざされた鉄扉越しに、交わした言葉の数々が忘れられない。今日のやり取りを何度も脳内で思い返してはアイシャはささやかに笑った。元来孤独を愛するという性質でもなく、むしろ人一倍寂しがり屋な彼女をして、今のような境遇にあるのは本意ではない。一時の感情が彼女に「孤立」を選び取らせてしまっただけに過ぎない。つまらぬ意地を張っているに過ぎないのだ。

 他者との関わりを一切なくした日々では精神的な健康も望めない。情緒は育たずに、心は枯れて、やせ細るばかり――そんな中、ベティとの邂逅はアイシャの心に本来在るべき活発さを思い出させた。

 失ったもののいくつかが、またアイシャの心の中に戻ってきた。

 他の子どもとはうまくやれそうにないが、ベティとなら仲良くなれるような気がした。あの子は他の子たちとはちがう。自分の悲しみをわかってくれる。分かち合うことができるたったひとりに違いない。

 閉ざされた檻の中、同じ孤独の只中で、わたしたちは運命的に出会ったのだ。

 それは辛い孤独の反動によるもので、アイシャの中でベティの人間像が大きく膨らんでいった。

 布団を頭までかぶった暗闇の中、アイシャは瞼の裏に想像を広げる。

 ベティはどんな子なのだろう? 髪は短いだろうか長いだろうか? 瞳の色はどうだろう? あの子のことばかり気になって仕方がない。まだ見ぬ姿を夢想するうちにアイシャはまどろみに落ちていく。

 こんなにも心地よい気分で眠りに入ったのは幾日ぶりか――その夜、アイシャは楽しくて幸せな夢を見た。

 顔も姿もよくわからない女の子と花畑で遊んでいる夢だ。

 花弁の舞う光景で、シロツメクサで編んだティアラをお互いの頭にかぶせ合っている。

 その女の子の名前はアイシャだけが知っているのだ。




「おはようアイシャ! 嬉しいわ! さっそく会いにきてくれたのね」

 翌朝、起きてすぐアイシャはベティの元を訪れた。扉越しに挨拶をかけると、ビエトリクスは飛び跳ねるような声でアイシャに挨拶を返した。アイシャはその反応が嬉しかった。

 ――それから毎日、アイシャは暇さえあればベティの元に訪れるようになった。

 忠告など一切意に介さずに、毎日欠かすことなくベティの部屋に通い詰めた。

 ベティもアイシャが会いに来てくれることを毎日楽しみにしていたし、お互いがお互いを存在を望んでいるのが双方わかっていたから、二人の距離は日を追うごとに急速に縮まっていった。

「わたし弟がいるのよ」

 いつの日かベティはアイシャに自分の家族のことを話した。

「ジョンっていうの。まだ四歳の男の子。寂しいときはいつもあの子のことを思い浮かべているの」

「ベティには家族がいるの?」

「ええ。施設の外でわたしを待っているはずよ。きっといつか迎えに来てくれるって信じてるの」

「……そう。そうなんだ。待ち遠しいわね」

 かの囚われの少女が人一倍夢見がちであることはアイシャにも程なく察せた。

 今までの会話でも何度かアイシャはそのように感じる瞬間があった。このような境遇にいながらも彼女は外に出ることを諦めていない。望みを捨てていないことがわかった。

 その無垢な純心――或いは愚かさとも呼べるものは、アイシャにかつての自分を思い出させた。

 無邪気だったあの頃の、何も知らずに夢を見ていた憎らしい自分の姿が重なった。

「アイシャ、あなたに家族はいないの? 大切な人は?」

 家族と云われ、そのときアイシャの脳裏には一人の男と一匹の鼠の姿が浮かんだ。しかしすぐにそれらの記憶は脳裏から霞んで、まるで霧のように頭の中から立ち消えていった。

「いたわ。でもどうせもう会えない。ここに入れられたときに離れ離れになっちゃったから、きっともう二度と会えないと思う。わたしは貴女ほど夢想家ではいられない」

 皮肉な言い方になってしまったのは、アイシャも口に出したあとで気づいた。

 純粋な彼女を傷つけてしまったかもしれないと、途端にアイシャは心配になる。

 アイシャはバツ悪そうに相手の出方を待つ。扉の向こう側では重い沈黙が保たれていた。

「あの、ごめんなさい。今のはそういうつもりで言ったわけじゃ……」

「その人のこと、もう好きじゃなくなったの?」

 やや間があってから、扉の向こうからはそんな声が返ってきた。

「もう好きじゃなくなったのかしら」

 アイシャから返答がないのを受けて、再度、ベティは同じことを問いかける。

 少しの逡巡の後、アイシャは心のまま思ったことを口にした。

「好きよ。今でも――これからもずっと好き」

 思いもよらずにそんな言葉が口から飛び出る。アイシャの素直な心がそこにあった。

 それを聞いたベティは扉の向こう側から小さな笑い声を漏らした。

「だったら、もう会えないなんて思っちゃ駄目。そんなことを思っていたら本当にそうなってしまうわ。お互いが会いたいと思っていたら、神さまはいつかきっと結び合わせてくれるはずだから」

 ベティはそう言った。疑いなどひとつもない口調で。

「わたしは弟に会いたい。弟だってきっとわたしに会いたがっている――その日が来るのを待ち望んでいるの。お互いを信じ続けるのが大事なのよアイシャ。いつか会えるその日まで辛抱強く待ちましょう」

 祈るようなベティの言葉を聞いて、アイシャの中のある感情がくすぶられる。

 心の奥底で、あの日の捨てたはずの愛しさが僅かに光を取り戻す。

 ベティの言葉にアイシャの心は大きく掻き乱された。もう打ち捨てたはずの――昔だいじにしていた玩具をゴミ箱の中から拾い上げられ、目の前に差し出されたような気分だった。

 いらないと思って捨てたもののはずなのに、いざ目の前にあると愛しくて仕方なかった。

 そんなものを持っていたって、今さら使い道もないはずなのに。

「アイシャ。もしかしたらあなたもそうなのかもしれないけど――わたしはここに来るまでの間に、色々なものをなくしちゃったわ。それでもね、心の中にあるものは誰にも奪えないのよ」

 アイシャの混乱を扉越しに感じ取ってか、最後、やさしく教え諭すようにベティは言った。

「だから、そこにあるものだけは捨てないでおきましょう」

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