さようなら
「すまない。ひどく傷つけた」
部屋から出ていく後ろ姿――それがアイシャの聞いた博士の最後の言葉だった。
もうガラスの向こうには誰もいない。アイシャとリングポールだけが部屋に残された。彼女は椅子に座ったまま放心したように、部屋の真っ白な天井を見上げている。
瞼を閉じても、清浄灯の光が裏に瞬いて、チカチカと暗闇の中に数多の星を輝かせる。真実を知った少女は静かな部屋の中、ひとり目まぐるしく眩んでいた。
何もわからなくなった。
私は長い夢を見ていたのかもしれない。見させられていた。
夢の世界ならずっと幸せに過ごせていた。だけど現実に憧れたのが目覚まし――少女の世界は崩壊した。そのとき楽園は消え去り、見渡すかぎりの草原も、白い家も、最愛の人と過ごした日々も、今では昔日の幻に過ぎないものと成り果てた。
すべてを失った。アイシャにはもう何も残ってはいない。何も信じられない。博士から与えられたもの全部――お守りの聖書だって、あの部屋に破り捨ててきた。
今では心臓の動きさえ煩わしい。しかし幸いにも、彼女はそれの止め方を知らなかった。もしも知っていたのなら、迷わず事に及ぼうとしていたところだろう。
放心状態のアイシャは気づけば部屋を出され、いつもの車椅子に乗せられていた。
景色の変わらない廊下のうえを車輪が回る。後ろからアイシャを押すのは、さっきまで面会室の外で待機していた眼鏡の男――この施設内で彼はアイシャに付きっきりだった。
「きみはこれから施設の管理下に置かれることとなる」
車椅子を押しながら、男は前を向いたまま喋り出す。その言葉がアイシャの耳に届いているかどうかは定かではない。彼女はピクリとも反応を見せなかった。
「今から別の場所に移動して、そこできみは極秘裏に我々の研究対象として生きてもらう。生きるうえで最低限の保障はされるだろうが、そこでは不自由な生活を強いられることになるだろう。少なくとも、もう外に出られることはないと思ったほうがいい」
「…………そう……」
「そこに着く前に、他に何か聞きたいことはないか?」
「……博士は、どうして私のような趣味の悪いものをつくったのかしら」
「趣味が悪いなんて、そう自分を卑下するものではない。きみは少し変わっているだけだ」
「……もういい」
「待て、質問にはちゃんと答える――一言でいえば研究者の性だろう。こんな答えできみが納得するとは思わないが……禁忌というのは、必ず犯す人間がいるものだ」
「それは……博士が直接そう言っていたの?」
「いや、あくまで推測でしかない。しかし私も彼と同じ畑だ。おそらく本質はついている。私たち研究者には、総じてそういった願望を胸に秘めている者が多い」
「………………」
「あの人は研究者としてあまりに純粋すぎた。自分の好奇心を止められなかった。それが今回の一件を生んだ大きな要因だ。きみは、彼の知的欲求を満たすための――」
「もういい。なんだか疲れたから、もうやめて」
その一声に男は口を噤ませる。アイシャは首をクタッと右肩のほうに傾けた。そのまま視線を下のほうに向けて、自身の手元に落ち着いているリングポールを見つめる。
「喋れなくなった貴方って、つまらないわね」
今やリングポールはただの鼠――アイシャはその首根っこを指で摘まみ上げる。
「さようなら。リングポール」
ただの鼠になった彼に、少女は価値を見出せない。
廊下に立ち尽くしながら見送る小さな影は、やがて車椅子の速さに置いていかれた。




