告白
アイシャはようやく博士と顔を合わせることが叶う。ガラス一枚を隔てた別の部屋で、二人は向かい合って座る。今までアイシャに連れ添っていた男は部屋の外で待機しており、だから今この部屋にいるのは二人と一匹の鼠だけだった。もっとも、天井の隅にはカメラが設置されており、そのレンズは二人を監視の下に記録しているが。
部屋に現れた博士の出で立ちはいつもの白衣とはちがっている。ひどく飾り気のない服を着させられ、その手首には冷たい鉄の錠が填められているのだ。
待ちかねた博士に会えたからといって、アイシャははしゃげるような心地にはなかった。その彼の出で立ちからも、いつもとはちがう状況に彼女は困惑している。
「駄目じゃないか。勝手に家を抜け出しては」
しばらくの沈黙の後、先に言葉を発したのは博士だった。
「ご、ごめんなさい博士。私、ただ――」
その皮切りにアイシャも口を開く。相手の顔を伏し目がちにうかがいながら。
「一度でいいから、『町』を見てみたかっただけなの……それがこんな大事になるなんて、思ってもみなかった。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
相手側からは見えないガラスの下方――アイシャはリングポールを手元に置いている。悪戯がばれた子供のように彼女は震え、その指は自然とリングポールの体に縋りつく。
震える少女を目の前に、博士は疲労した表情で溜息を吐いた。
「そうか……町は楽しかったか?」
その穏やかな声には思っていたような怒りは感じられず、アイシャは肩透かしを食らう。そのとき彼女はようやく顔をちゃんと上げて、改めて博士の顔を見た。
微笑んでいる――それは今までアイシャが見たこともないほどに、優しさに満ち溢れた表情だった。まるでこの世の悩みがすべて吹き飛んだような顔をしていた。
或いは、すべてを諦めたように――。
真っ直ぐと相手から向けられる視線に、アイシャは慌てて何かを応えようとする。
「う、うん。楽しかったわ。車から見ているうちは……」
「かわいそうに。ひどい目に遭ったと聞いている」
外で伝え聞いたらしい話を振られ、アイシャは思わず胸を押さえた。
「ええ……車の外に身を出した瞬間、みんなが私に指を差してくるの。とても怖かった。博士が私を外に連れて行きたがらなかった理由がわかったわ」
「………………」
「『鳥には羽がある』、『魚にはヒレがある』、『人間には……――足がある』、ものなのね。私ってば、それがわからなくて……自分は、少し変わってるって程度の認識だった」
アイシャは俯いて自身の下半身を見下ろす。今では眉をひそめる。
「気持ち悪い。この半身を千切ってしまいたい」
苦々しい面持ちで下半身を見下ろしていると、ふと、リングポールが視界に入ってくる。腰元で天井向きに重ねた掌のうえで、リングポールはアイシャの顔を見上げていた。
「そうだわ。リングポールがおかしいの、博士」
アイシャはそのまま掌を上げて、博士の視界までリングポールを持ち上げる。
「さっきから何も喋らない。いつもはお喋りさんなのに」
今ではまるでただの鼠だ。施設に来てから鳴き声だけしか発さない。
「おそらくは施設の誰かにそうされたんだろう。まあ一応の情報規制というやつだ。今回のことを喋られると厄介だからな。鼠相手だ、殺処分という手もあったのだろうが――」
そこまで聞くと、博士の説明にアイシャは目を見開く。
「お前に情をかけてくれるやつがいたのだろう。だからその程度で済んだ」
「そんなの納得できない。どうしてリングポールがそんな目に……」
「お前の存在を見聞きしたものには相応の措置が取られているはずだ。今の俺のように。もっとも、ここまで大仰な措置をされたのは俺一人だけだろうが」
「……リングポールは、彼はもう元に戻らないの?」
「潰されたものを元に戻すのは難しいだろう」
「そんな……みんな私のせい、私のせいで――」
「それはちがうなアイシャ。間違っているぞ」
そう言ったのは慰めからではない。彼にとってそれが紛れもない事実だからだ。
「悪いのはすべて俺で、いちばんの被害者がお前なんだ」
ふと、手錠の鎖が鳴る音がする。博士は自身の拘束された手首を顔の前に眺めた。
「禁忌を犯した俺が憂き目を見るのは仕方がない。しかし、お前はただただ可哀想に――何も知らずに生きさせられ、今のような状況に訳もわからず陥っている」
憐れみを帯びた瞳がアイシャを映す。彼女はやはりまだ、事の重大さを量りかねているようで――少なくとも博士の目にはそう映っていた。
それはとてもあどけない顔。ここまで話しても彼女はまだ何ひとつ察せないでいる。
「これからお前は俺を嫌いになる。今からすべての真実を話すからだ」
課せられた最後の責任――博士は特異な『アイシャの出自』について説明を果たした。




