あかねさす(父のこと)
「あの時、母さん、何て言ったんだろうね?」
病院の食堂の冷めたハンバーグをつつきながら、僕は姉にたずねて見た。
「―なんとかの松…とか…どことかの松のところで…、なんて言ってたような気がするけど、それって何のこと?。」
「ねえ…。あれって、何のことかしら?。」
母に近しい姉にも、何のことだかよくわからなかったらしい。
―いつか機会があったら、母にたずねてみよう…などと、その時は、ぼんやり考えていた。
つい先ほど、この病院の一室で、父が家族や孫たちに看取られて息をひきとったばかりだった。
数ヶ月前から肺癌で入退院を繰り返していたが、八十一才ともなれば、まわりの者たちもある種の諦めがつき、末っ子の僕などは、ーぼろぼろの肉体を離れて今ごろはやっと楽になったことだろう…などと、あまり悲しい気持ちにもならずにいた。
ただ、やはり長年連れ添った母は、そんなふうに行くはずも無く、手つづきどうり医師が臨終を告げると、父の胸元に顔を近づけて、すがるように語りかけた。
「…良い孫や子供たちに囲まれて幸せでしたね……の松の所で待っていて下さいね。私もすぐに行きますから…。」
そして、暫し父の胸から顔を上げ得なかった。
それは、僕が初めて見るような、父母の男と女としての姿でもあった。
父は、普通のサラリーマンとしての四十年にわたる勤めを終えると、定年後は好きな短歌を作ったり、長男や友人と囲碁を打ったりして、そこそこ幸せな余生をおくったと言ってよいだろう。
葬式の翌日、僕は暇にあかせて父の二冊の歌集を読み返してみた。
フツーで幸せだったはずの父の一生を短歌で降り返ってみると…
佐渡をのぞく新潟に 雪降るといふ
さらば槍など降るとや 佐渡は
父は、新潟県佐渡郡相川町に生まれ、事情により剣道師範の養父に育てられた。
竹刀をからませて 暫し見据えあふ
血のつながらぬ 父と子にして
連れ子して 後添いに入りしあはれなど
思ひ見ざりき 母を責めにき
ゆえよしは さだかならねどわが頬に
その夏父の 熱き打擲
中学を出て、遠く三重県伊勢市にある神宮皇学館に入学、短歌に熱をいれる。
後に知ったことだが、父の縁のうすかった実父は、隣県和歌山の人であった。
二千五百円と引き換えに 売らるる女の声
もれ聞こゆるに 心打たれき
明日はもや 売らるるらむか隣室に
家救う娘の 寝息かそけし
(この二首は二十才そこそこの頃の歌)
昭和十五年に旧制東北大学法科に入学、その後、召集されて兵隊として北支(中国)に三年暮らした。
面伏せて 自閉のさまに歩みいき
四十年前 開戦の日も
武装なき 敗余の兵ら 民衆に
石打たれては 列を乱しき
耳去らず 軍靴の音の聞こえいて
忌避のすべなく 夜を彷徨う
終戦後、金属関係の会社に入社、結婚して三人の子供をもうけ、同社に四十年あまり勤めた。
後年、某地方都市へ製造所副所長として単身赴任している間に、思春期に達した子供たちの造反劇がはじまった。
長兄は学生運動に没入し、沖縄返還闘争の時、火炎瓶所持容疑で逮捕投獄され、私服の刑事が隣近所に聞き込みに来たりするようになる。
その下の娘は、今ではメジャーになった情報誌の発刊に参画し、ライバル誌との生き残りをかけて、給料も出ないのに、手弁当で仕事に通う毎日。
ちなみにオイルショック後の紙の高騰により、百円で売る本を作るのに百三円かかっていた時代である。
一番下の息子は、高校時代から時々シンナーの匂いをさせたりしていたが、そのうちロックバンドを作って、妙な格好で出かけて行っては、夜中に男女の友人を連れて酔っ払って帰って来るようなことが多くなった。
注意する母を、気が狂ったように怒鳴りつけたりしていたが、せっかく入った大学もやめ、家を飛び出して寄り付かなくなった。ローンだけ残して…。
(お察しのとうり、この最悪のバカ息子が僕です。父さん母さん、ごめんなさい)
母に言わせると、この頃が「一番の地獄」だったらしい。そりゃそうだろうーそう言えば多作な父にしては子供たちを歌った歌は非常に少ない。子供らは苦労のタネ、歌のネタにはならなかったと言うことか?
こんな歌さえある。
雪の来る 倒木のかげに石枕きて
妻と果てなむ 母さへなくば
重めの歌ばかり選んできてしまったが、こんなユーモラスなのもある。
あじさいの 葉にいて角をふる蝸牛
おまへが国を憂いて何とする
誇り高く 本を枕に眠りいる
ヒゲのホームレス 冬が来るぞよ
このような歌を読む時、まるで自分に向かって言われているような気になる。思い過ごしか……
父の作歌活動は大学入学から現役引退までのほぼ四十年間中断。(この間のことを読んだ歌はみな後年の作)生きるのに精一杯だったと言うことらしい。
この後、姉に双子の男の子が誕生した。
向つ家の 犬吠ゆるなり 孫二人
わが門口に あらわるる時刻
奔放に 絵をかく子らを見てあれば
この昼のまま 時移らざれ
会社での最後の数年間、リストラの首切り役として辛酸をなめたと言う。
若きらに うとんぜられておらむなど
酔いて帰りて 妻には言わず
構内に パンジーは群れて笑くとも
資本の側に 連帯はなし
世すぎゆえ 耐えよと言へど たはやすく
癒えて忘れむ 傷ならなくに
一夜、「○○さんの奥さんの首を切らなきゃならない…。」と悩んでいた父の姿を思い出す。亡くなった同僚の奥様は、病気がちで、いつも社宅の奥でひっそりとしている、子供心にもきれいな人だった。
引退後の父は、おおむね平穏に暮らしたと言っていいだろう。
趣味の囲碁の歌に幾つか面白いのがある。
この人より 何が劣るや 黒白の
つきし盤上に 日脚のびつつ
執着は 無き筈ながら 寝につきて
昼の負け碁の 石絡みあふ
男どもに 妻の託せし夢ちりじり
共犯者めきて 子と碁を囲む
父の実母は平成元年に九十七歳の高齢で亡くなった。
死に近き 母が何とて子供らに
笑みつくろいて〈はい〉と答ふる
み仏に なりゆく母を呼びもどす
愚かにわれが 声はげまして
冷え切らぬ うちにおん身を背に負いて
故里の島に 帰らむか母よ
新盆。
亡き母が 庭をまはって縁にいる
そこがよければ いつまでも居よ
たそがれは 天の恵の恍惚に
遊ばむわれも 母の子なれば
晩年の父の作風は、二冊目の歌集「橋川」のあとがきによれば、ようやく軽妙の域に入り独自の世界をかいま見せる。
浅草の ガマの油に立ち止まる
ご用とお急ぎの ないひとりにて
自販機に 入るる煙草を見て佇てば
飽かで別れし ピース茄子紺
薄皮を つるりと剥きて桃尻に
喰らいつきたり 御免とも言わず
水族館 大回遊の水槽の
割れむ日を待つー 魚ら一同
留守の間に お手打ちに合ひし侘助の
素っ首ひとつ 本箱の前
個人的には次の二首のようなジャンル不明の歌も好きだ。
遺伝子を 人の利便に組み替へて
づかづかと 神の領域に入る
舗道より 見ゆるエレベーターに
少女いて 鳥籠のごと降ろされて来る
広島の 被爆者ながら剽軽者
いんでもろては 困るのがいる
友人のTさんを詠んだ歌である。
母によると、亡くなる一週間ほど前、眠りからさめた父が、
「今、Tがここへ来て、話しをしていたんだ。」
と言ったそうだ。
Tさんは、その頃、広島で闘病生活をおくっていたが、奇しくも父と同じ頃亡くなられた。
生前、二人が旅行に行った時のように、旅の打ち合わせは済んでいたのかもしれない。
最晩年
どの部屋にも 妻の居らねば 庭も見る
斯かる日も来む 先立たれなば
一つ根に 二本の竹が並び立ち
一竹枯れぬ 冬に入る前
名月とて 月下美人は咲きをりぬ
隣家の老の 逝きしころほひ
父が妻、逸子を歌った歌はさすがに多いが、二人の関係は、昔の人たちらしく、べたついたところが少しも無く、僕などは子供心に,ーこの人たちは、本当は仲が悪いんじゃないだろうか…などといぶかしんだ覚えがある。
指先の あぶらが切れて ひび割れし
妻へたりいる 薬ひろげて
些かの 酒に疲れて 軍門に
降るがごとく 妻に帰りく
水細き 大河をひとつ渡り来て
その名を逸す また逢はざらむ
そして一冊目の歌集『佐渡』の中ほどに、最初に読んだ時には読み過ごしてしまった、こんな歌を見つけ出した。
海に向く 坂のかたへの松丘に
まつはりて 遠き秘事ひとつ
辞世の歌などは、もとより無いと思うが、もしも勝手に選ばせていただけるなら、次の一首など父らしくて良いと思う。さようなら、おやじ。
人はいさ われはさ思ふ ぬけぬけと
世を欺きて 一生終へなむ
追記
現在、佐渡相川の、海を見おろす松林のほど近く、父の菩提寺の境内、桜の木のそばに、沢山の方々の御骨折りと御厚意により、父の歌碑が建てられている。
生前の父を、私などより、よほどよく知っておられた所属短歌会の皆様が、その石碑のために選んで下さった歌は
さいはての 遠流の島に生れしより われに無常の 海鳴やまず
また、関西支部の皆様が推薦して下さったのは、二冊目の歌集『橋川』の最後に収められた次の歌でした。
父になりかわり、あつく御礼申しあげます。
あかねさす 彼岸桜をふりかへり
逝く春が惜し わが齢惜し
おわり