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彼女と黄砂と背中の数字

作者: 黄巻まき

 ある朝、僕が自宅のベッドで目を覚ますと隣に女の子が眠っていた。

 

 女の子は白い色の下着を着けていた。僕は彼女の胸が上下するのをしばらく眺めた後、一度開けた目をもう一度ゆるやかに閉じた。


 こういうのことはよくあることだった。見知らぬ女の子が隣で眠っていたとしても、僕はこれといって驚くことはなかった。ちょうど中国大陸から飛来する黄砂なんかと同じで、それはもう僕にとって仕方のないことなのだ。目を閉じた僕の暗いまぶたの裏側に、春の日本海を渡る黄色い砂粒の塊が見えた。

 そして僕はもう一度眠った。



 まばたきほどの短い二度寝から僕が再び目を覚ますと、隣にはまだ女の子が眠っていた。

 今度は目を閉じることなく、じっとその女の子のことを見つめてみた。見れば見るほど見覚えのない子だった。

 きっと僕は昨日の夜にこの女の子と酔っぱらってアパートに帰ってきて、そして寝たのだ。よくあることだ。春の黄砂のように、それは仕方のない話なのだ。



 ふと、寝返りをうった彼女の背中に、発光する数字の羅列がびっしり書かれていた。


 僕は目を近づけてよく見てみた。


 彼女の背中には、小指ほどの大きさの数字がずらりと並んで浮き上がっていた。数字はストップ・ウォッチを思わせるデジタルで味気ないフォントだった。そこに手作業の気配はなく、変わった趣味のタトゥーとかいうわけではなさそうだった。

 彼女の背中から腰骨あたりまで数字は等間隔に配置されていた。そこに並んだ数字はランダムで不規則なものだった。円周率とかフィボナッチ数列とかその手のものではなさそうだった。数字そのものに意味や理由はなさそうだった。ただただ無意味な数字が彼女の背中で白く光っているだけ。



 まず最初に僕がやったことは、シーツにしみが出来ていないか確認することだった。二日前にニトリで新品に買い換えたばかりだったのだ。

 そっとシーツを触ってみた。しみやインクの気配は感じられなかった。あるのは、若い女の子の体温の痕跡だけだった。



 次に僕がやったことは、直接彼女に触ってみることだった。彼女を起こさないように、慎重に、ちょうど化石を発掘するみたいな感じで、背中の数字を指でなぞってみた。

 数字は彼女の背中一面に現れていた。ちょうど小指くらいの大きさで、絶えず白く発光していた。

 試しにブラジャーのホックの上あたりで光っている数字の「7」を指で触れてみた。特に変わったところのない女の子の背中だった。でこぼこもしていなかった。それはちょうどテレビの画面を触っているようなものだった。目に見えているものと、手に触れているものとの間に距離があるのだ。この数字はどこか遠くにあるのだと僕は思った。僕や彼女とはまったく関係のない場所で成立している数字が見えているだけなのだと。



 彼女はまるで無人島みたいな静けさで眠っていた。彼女の背中が安らかに上下していた。背中の数字は間断なく光っていた。

 僕はその光る背中から目を離し、光らない天井をしばらく眺めた。そうしてみると僕のアパートの天井はずいぶん目に優しい気がした。アパートの天井をこんなにじっくりと眺めたのは初めてだった。見ているようで見ていないこと、というのは思ったより身近にあるのかもしれない。

 とはいえ天井にも飽きて視線を戻すと、彼女と目があった。いつの間にか彼女は目を覚ましていて、僕の顔を見つめていた。



 「おはよう」と僕は言った。

 「おはよう」と彼女は言った。

 会話は途切れてしまった。

 「寒くない?」と僕は言った。

 「うん、平気、ありがとう」と彼女は言った。

 会話はまた途切れた。

 僕はもう二度寝まで済ませていた。これ以上眠るわけにはいかなかった。

 カーテンの向こうに見える空は青く晴れていた。休日だし、洗濯をして、床を拭いて、シャツにアイロンもかけたかった。

 「朝ごはん食べていく?」と僕は言った。

 彼女は首を縦にふった。

 思うに、一夜限りの女の子に男がしてあげられることは、手作りの朝食で体を温めてあげることくらいなのだ。



 僕が歯を磨いたり、お湯を沸かしたり、フライパンを温めたりしている間、彼女は窓外の朝日を夕日を見るような顔つきで眺めていた。

 僕がテーブルに食器を並べ始めると、彼女は布団をたたみ、床に投げっぱなしだった自分のTシャツとジーンズを拾って着替えた。

 彼女は着替えるとき、僕に対して背中を隠そうとはしなかった。少なくとも見られて嫌な様子はなかったように思えた。あの数字は彼女にとってコンプレックスではないのかもしれない。背中のことについて質問すべきかどうか迷いながら、僕は目玉焼きを二つ焼いた。



 床にクッションを重ねて座り、僕と彼女はテーブルを囲んで朝食をとった。クロワッサン、クリームチーズ、半熟の目玉焼きとプチ・トマトを平らげ、最後に温かいルイボスティーをたっぷり飲んだ。

 「おいしかったから、洗い物はわたしがするね」と彼女は言った。僕は任せることにした。その間にしかけておいた洗濯物を干すことができた。



 僕はお礼を言いに、洗い物をする彼女のもとへ行った。すると彼女は綿棒ほどの水流で申し訳なさそうに泡を流していた。他人の家の水道代を気にするタイプの子なのだ。僕は蛇口をひねってあげた。

 「もっと使っていいよ」と僕は言った。

 「ありがとう」と彼女は言った。

 僕のアパートのキッチンは狭く、シンクは低かった。不安定な姿勢で洗い物をしてくれている彼女の背中に、僕は素直に好感を覚えた。

 だから尚更知りたくなった。

 「あのさぁ」と僕は切り出した。「背中のことって、喋るの嫌だったりするかな?」

 「ううん、全然」と彼女はすぐに言った。その言い方には不安というよりはむしろ安心を感じた。ようやく本題に入れた、とでもいうような感じだった。待ってました、とでも言いたげなくらいだった。

 彼女はタオルで手を拭いたあと、急に僕の手を握った。彼女の手はお湯を使った後とは思えないほど、ひやりと冷たかった。その冷たさは冬の雨を思わせた。

 「今日の予定は?」と彼女は言った。

 「掃除してアイロンをかけることくらいかな」

 「じゃあ明日でもできるわね」

 そう言って彼女は僕の手を引きベッドに向かった。そしてそのまま手を繋いで布団の上に倒れ込んだ。

 彼女は僕の胸に顔を寄せた。僕は彼女の頭を条件反射的に撫でた。テニス選手のスプリット・ステップみたいなものだ。そうするものなのだ。

 僕と彼女はベッドに寄り添って寝ころんだ。しばらくそのまま時間が過ぎた。

 僕は彼女のTシャツの下で光っているはずの数字のことを考えた。

 「知りたい? 背中のこと」ふと彼女はそう言った。

 「嫌ならいいよ」と僕は言った。

 「ううん、そうじゃない、あのね、言うならちゃんと説明したいの、わたしも中途半端に言ってあなたも中途半端に聞いてって、そういうのは嫌なの、なんとなくわかるでしょう? ちゃんと交換したいのよ」

 「わかった、今から世界一のお客さんになるよ」

 今も光っているであろう数字を思い浮かべながら、僕は彼女の言葉を待った。





 「最初に教えてくれたのは、高校生のときのボーイフレンドだったの」と彼女は話し始めた。

 「その人とは友達の延長みたいな関係で手を繋ぐこともなかったしキスはもちろんその先も結局なかった、わたしも彼も見つめ合うだけで満ち足りた気分になれた、それはとても素晴らしい交際だった、若さと若さゆえの老いがそれを可能にしていた、ただ発展性だけがなかった、あのときは男女の仲になることがいけないことのような気がしていたの、わかる?」

 「ある程度は」

 「わたしね、後ろから抱き締められるのがとっても好きだったの、彼は陸上部でね、いつも体は硬く引き締まっていて、日焼けした肌が熱を持ってるの、その温度がわたしの背中に伝わるのがとても好きだった、男の人っていいなって思った、そんな彼がある日わたしに言ったの、おいお前背中どうしたんだよ、って」

 「じゃあ高校生のときにはもうあったんだね」

 「そうみたいなの、それでわたし驚いてね、背中に何があるのって言ったの」

 「そのときまで知らなかったんだ」

 「うん、知らなかったわ、誰が想像できる? 自分の背中に数字が浮き出るなんて」

 「珍しいね、とっても」

 「わたしパニックになっちゃってね、その場で泣き出しちゃったの、それからのことはあまり覚えていない、気がついたら彼の部屋を出てたし家に帰ってた」

 「その彼とはどうなったの?」

 「わたしが避けるようになってそのまま自然消滅したわ、彼はすぐ立ち直って別の子と付き合っちゃったみたいだけど、わたしはしばらく何も考えられなかったし、誰かに見せるのも嫌だった、親は今でも背中の数字なんて知らない」

 「親に言わなかったの?」

 「もう高校生だったし、自分の部屋もあった、温泉旅行や海水浴に行くような家庭じゃなかった、以外と隠せるものよ」

 「じゃあ、特に、困ったこととかはないんだ?」

 「えぇ、何もない、いたって健康」

 「病院で医者に驚かれるんじゃない?」

 「病院には行かない、その日以来一度も」

 「嘘だ」

 「いつか数字が出てこなくなったら病院に行くつもりよ」

 そう言って彼女はルイボスティーを一口飲んだ。僕もつられて飲んだ。何と言うべきかわからなかった。

 「触っても痛くはない?」

 「えぇ、もし痛かったら夜も眠れないでしょ」

 「これはこっちの勝手な言い分だから気にしないでいいんだけどさ、よければ一緒に病院に行かないか?」

 「なんで、嫌だよ」

 「たぶん、世界中の医者にモテる日々が始まると思う、多少お金も入るだろうし、ひょっとしたら何かのワクチン開発の役に立つとかもあるかもしれない、そうすれば君はもっとイージーに暮らしていける」

 「そういうのに興味はないわ」

 「今の仕事は?」

 「調剤事務」

 「手取りは?」

 「なんでそんなこと言わないといけないの」

 「薬局を都内に十個持てるくらいのキャッシュを稼げるかもしれない」

 「わたしをサーカスに売って一儲けしようってことね」

 「違うよ、違う」

 「何が違うの」

 「きみのそれは才能だし、居場所がある才能なんだ、活かさないともったいない」

 彼女は黙って僕のことを見つめていた。

 「ごめんなさい、病院には行きたくないの」

 「ううん、わかった、別に何ともないならそれでいいよ」

 僕にできることは何もなさそうだった。

 抱き合っている気分ではなくなって、僕たちは腕を離した。

 「きっとね」と彼女は言った。「きっと、あのとき、彼はわたしとセックスをしようと決心したんだと思うの、とても大きな決心をね、そういうことも含んだ恋人同士になろうって、先に進もうって、それにまつわる色々なわずらわしさを引き受けるって勇気を出したんだと思うの、でもその気持ちを結果的にくじくことになってしまった、だってそうでしょう、ブラジャーを外そうとしたときに数字が見えたりしてムードもなくなってね、なんだかとても可哀想なことしたかなって時々思うの」

 「きっと大丈夫だよ、気にしてない」

 「そうかなあ」と彼女は言った。「だって初めて出した勇気が実らなかったんだよ、そんなのって不幸でしょう、背中に数字が浮かぶより不幸よ」


 背中に数字が浮かぶより不幸、と僕は声に出さないで繰り返した。

 

 窓の外に見える空は、悩み事を許さないほどの爽やかな青色だった。

 誰かが我が家の郵便受けに捨てられるだけのチラシを投函していった。

 キッチンの蛇口がしっかり閉められていなくて水滴の弾け散る音が聞こえた。心臓の鼓動のようだった。

 僕は立ち上がった。

 「蛇口閉めてくるよ」 

 「ねぇ、ちょっと」と彼女が言ったのはそのときだった。 

 「あなたの話も聞かせてよ、わたしだって話したんだから」

 「僕の話なんて退屈だよ、じゃなきゃこんなアパートに住んでないさ」

 「そうじゃなくてあなたの場合を聞きたいの、いつ数字が出てきたのか、痛みはあるのか、病院には行ったのか」

 僕は黙った。黙って彼女の顔を見つめた。彼女も黙って僕の顔を見つめた。僕たちは見つめ合い、沈黙しあった。

 「昨日の夜は酔っぱらってて教えてくれなかったから」と彼女は言った。彼女の瞳はきらきらと輝いていた。僕の話を待ち望んでいた。

 「うん」とだけ僕は言った。

 「背中に数字が光ってる人にはじめて逢えたの、嬉しくてお家までついてきちゃった」

 僕はできるだけゆっくり呼吸するようにした。それから黄色い砂のことを思った。誰が何と言おうが、風は吹くのだ。そして砂は降り続けるのだ。

 さて、自分の背中を最後に見たのは、一体いつのことだろう?  

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― 新着の感想 ―
[良い点] 題名のテンポが良いですね。 最後のオチまでの持っていき方が非常にうまかったです。 彼女の数字がなぜあるのか的なことがオチに来るのかと思ってみていたので、うまいように騙されました。 [気にな…
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