お題「フォーク」
時刻は夕暮れ時。
仕事から帰ったその男は、一足先に食卓に着くと、夕刊を片手に、女房が食事を作るのを待っておりました。
狭い庭先では、野球部の息子が、壁に向かって白球を投げております。
握りはなんとも不格好で、球はふわふわと飛んでいきます。
おい、それは一体何の練習なんだ、と尋ねますと、フォークの練習をしているのだ、と、息子はこう答えました。
気が散るから、邪魔をしないでおくれ。
息子は不機嫌そうにそう言って、再び白球を投げ始めます。
居間からはギターの音が聞こえてきます。
娘が練習をしているのですが、これがまあ下手糞でございまして、何をやっているのかちっとも分かりません。
おい、お前は一体何を弾いているんだ、と尋ねますと、聞いて分からないの、フォークギターよ、と、娘はこう答えました。
お前のような若い娘が、フォークをやるのか。
男は感心したように笑い、新聞を閉じてテレビのスイッチを入れました。
昔のヨーロッパの農業の風景が映し出されます。
農民たちは大きな熊手のような農具、ピッチフォークを使い、干草や刈り取った麦を運んでいます。
食器のフォークは、この農具を模して発明された、という話をやっておりました。
食卓に並べられた銀のフォークを眺め、男は、へぇ、と溜息をつきました。
今日はお仕事いかがでしたか、と女房が言いました。
男は、今日は現場作業員の手が足りなかったから、一日中フォークリフトに乗っていた、腰が痛くてたまらない、とこう答えました。
そういえば、と男は庭先へ目をやります。昨日まであった自転車が消えています。
おい、これは一体どうしたことだ、と尋ねますと、女房は申し訳なさそうに眉をひそめます。
ごめんなさい、実は買い物に行く途中転んでしまって。
転び方が悪かったのか、自転車を壊してしまったのです。
男は驚きましたが、女房が怪我をしなかったのだと分かり、ほっと肩をなでおろします。
自転車屋からは、前輪を保持するフロントフォークと呼ばれる部品が大破しているから、新しく買い換えたほうが良いと言われた、と女房が話します。
今度一緒に買いに行こう、と男が言うと、女房は安心したように笑い、器に入った白い麺を食卓に並べました。
おい、これは一体なんなんだ、と尋ねますと、ベトナム料理のフォーです、と女房は答えました。
最近、女房は料理教室に通っていることを思い出し、男は、へぇ、と頷きました。
さて、夕飯の準備は整いました。
男は娘と息子を呼びます。
娘はギターを置いて食卓に来ましたが、息子は言うことを聞きません。
先ほどから変化しない変化球を投げ続けています。
おい、いつまでやっているんだ、と男が言いますと、息子は渋々と庭先から家に戻ってきました。
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「師匠、今回の話、どうでしたか?」
「まったく、馬鹿な弟子だねぇ。お前は俺が教えたことを何一つ覚えちゃいない。いいかい、落語っていうのは、落ちが無きゃだめなんだよ」
「師匠、違いますよ。話の中で、息子はフォークの練習をしているでしょう?」
「それがなんだってんだい」
「息子のフォークは、いつまでたっても落ちないんです。つまりこれは、オチのない話、というわけでございます」