第9幕
前半ユージェニー視点。
後半はラシェル視点です。
ユージェニーはぬるくなったお茶を一口すすった。カップをソーサーに戻してから口を開く。
「言いたいことはいろいろあるけど、最初に一つだけ言っておく。この舞台を成功させるつもりがあるなら、自分の意見を押し付けるのはやめてくれる?」
その言葉に、シルヴィアがぐっと眉根を寄せた。
「つまり、私があなたに嫌がらせをしているとでも言いたいの?」
「誰もそんなこと言ってないでしょ。母さんの意見は押し付けがましいんだよ。確かに私に対する言葉はきついけど、それだけじゃない。他の団員に対しても、自分の意見を押し付けてる。別に、悪いことだとは言わないよ。でも、母さんが言うことがすべてではないことをわかってほしい」
「言うようになったわね、あなたも」
シルヴィアが目元に険をにじませる。ユージェニーはカップの中のお茶を飲みほした。
「確かに、舞台を作る上で振付師や監督の意見が尊重されるのは仕方がないことだと思う。今回は、それが母さんだったけだ。でも、私に言えたことではないけど、母さんはもう少し協調性を学ぶべきだ」
「本当に言えたことではないわね」
「私も母さんには言われたくないよ」
この母娘、どちらも壊滅的に協調性がなかった。ただ、シルヴィアは完全にそれが地だが、ユージェニーは自らそのようにふるまっているので、娘の方がまだまし……でもない。結局、二人とも協調性はないのだから。
「指導者の考えに引っ張られるのは仕方がないけど、それでも普通は会話をするものだ。それが、母さんにはないんだよ。押し付けるばかりで。ただ踊るだけのダンサーならそれでもいいかもしれない。でも、母さんはそうじゃなくて、今回の指導者でもあるんだよ。少しくらい譲歩を覚えるべきだ」
シルヴィアはじっと娘の顔を見た。あまり自分に似た顔立ちではないと思う。むしろ、父親に似ていると思う。そう。ユージェニーは美人だ。
美しく未来があって、自分以上に才能がある娘が妬ましかった。シルヴィアはそれを認めざるを得ない。
「その言葉、あなたにもそっくりそのまま返ってくるわね」
嫌味っぽくシルヴィアが言うと、ユージェニーは口元をゆがめるように笑った。下手な笑い方だ。
「いいや。私に必要なのは一歩を踏み出す勇気だった」
まあ、自分も謙虚さが足りないとは思うが、彼女に必要だったのはどちらかと言うと勇気だ。母と決別すると言う勇気。自分は世界的バレエダンサー・シルヴィアの娘であると言うユージェニーの思いが、彼女の歩みを止めていた。
つまり、いい加減腹をくくれ自分、と言うことだ。
△
シルヴィアとユージェニーの母娘対談後、練習に変化が現れた。特にユージェニーに。とりあえず、よくしゃべるようになった。
「ここは二列になるより、円になる方が……」
「私は二列の方が整然としていていいと思いますが」
うん。シルヴィアの方は変わっていなかった。言っていることが相変わらず断定的である。いや、間違ってはいないのだが、頭ごなしに言われるとムカッと来る感覚、わかるだろうか。
今までだと黙っていたユージェニーだが、母娘対決のあと、彼女は変わった。
「母さん、頭硬すぎ」
ユージェニーのぽつりとした言葉に、シルヴィアがぎっと彼女を睨んだ。ユージェニーは相変わらずの無表情で、顔だけシルヴィアとマリータの方に向ける。
「両方やってみて検証すればいいでしょ。その上で母さんが折れないなら、多数決をとる」
「……」
しゃべるようになって初めて分かったのだが、ユージェニーは結構容赦がない。発言がやや中立的であること以外、この辺はシルヴィアによく似ていると思う。彼女の性格は母親似なのだろう。同族嫌悪と言うやつだろうか。ユージェニーが吹っ切れたせいで、余計に面倒なことになっているような気がするのはラシェルだけだろうか。
だが、ユージェニーが臆せず(と言うより喧嘩腰)にシルヴィアに意見するので、何となくマリータたちも我を通すようになってきた。たぶん、そうして意見をぶつけ合った方がいいものができるとは思うのだが。
「ジェイン。もうちょっとこう……柔らかい表現はできない?」
休憩中、ついにフェオドラが言った。ユージェニーが首をかしげる。
「遠回しに言えということ?」
「いや、そこまでは言ってないわ。ただ、あなた口悪くない? そんな子だった?」
「まあ、口が悪いのは地だろうな」
「うるさいわ」
口を挟んできたエルヴェに、ユージェニーがしれっと言った。
「柔らかい表現にしたら、うちの母には勝てない」
その言葉に、沈黙が降りる。
「……うん、まあ、否定できないわね」
「お前、絶対性格は母親似だな」
あ、エルヴェもラシェルと同じことを考えていたようだ。自覚があるのか、ユージェニーは顔をしかめた。
「曲がりなりにも母と暮らしていたんだから、性格が似てくるのは当たり前」
この二人の間に親子関係が存在していたのははなはだ疑問であるが、ツッコまないでおこう。
「……今更、シルヴィアさんが考え方を変えるとは思えないけど……」
ラシェルが控えめに言うと、ユージェニーは「そうだね」と返事をした。コミュニケーションが取れるようになってきている。返事があるだけだけど。
「母は極度の負けず嫌いだから、喧嘩腰に正論を解くと乗ってくる」
「……遠回しに自分の母親に常識がないって言ってるよな……」
「まあ、ちょっと舌鋒はきついわよね。でも、それ、あなたも人の子と言えないからね?」
エルヴェとフェオドラがツッコミを入れている。しゃべったらしゃべったでツッコミを入れられるユージェニーである。
「でも、まあ、ジェインが言ってくれるようになってマリータたちも意見を言いやすくなったんじゃないか? やっぱり、俺たちもシルヴィアさんに対して遠慮あるし」
ラシェルと同じく少し離れて話を聞いていたオスカーが言った。やはり、最高のバレエダンサーと言われるシルヴィアに、みんな遠慮があったらしい。
「マリータもヴァルターも確か、シルヴィアさんの指導を受けてるはずだよな。そう言う意味では、遠慮はあるわな」
エルヴェもオスカーに同意した。それにしてもシルヴィア、どこまで手を広げているのだろうか。
「そう考えると、遠慮なく意見できるのはジェインだけってこと? うわぁ、不安しかない」
「それは否定しないが、フェオドラも遠慮がないな」
あ、ユージェニーがつっこんだ。優しい顔して結構毒舌なのがフェオドラの持ち味だ。彼女は軽く笑って言った。
「まあ、私はいい舞台になればそれでいいわ」
フェオドラはそんな男前なことを言う。ダンサーの鏡だ。
フェオドラがそんなことを言ったせいだとは思っていないが、その後も公演直前までユージェニーとシルヴィアの母娘争いは続いた。これも最初はビビっても、慣れてくればそんなもんだ。最終的に、みんな受け流していた。
ただ、シルヴィアの押しつけがましい口調はややなりをひそめていたので、娘の猛攻が効いたようだ、とラシェルはひそかに笑った。
そして、公演前日。先に公演日を迎える『ジゼル』の最終確認、リハーサルに入っていた。一日目に『ジゼル』を終えた後、二日目の『シンデレラ』はラシェルも前から見学する予定だ。
ラシェルの目が確かであれば、このリハーサルの出来は上々だ。明日もこの調子なら間違いなく成功する。不安なのはユージェニーの精神であるが、このところは安定しているようなので、あまり深く考えないようにしておく。
ラシェルはバレエは楽しく踊ってこそだと思っている。ユージェニーは母親と張り合っているように見えるので、こういうところは母娘でそっくりだと思う。
「ねえジェイン」
『ジゼル』のリハーサルをすべて終え、てこ入れも終わったので、今は『シンデレラ』のリハーサルをしている。本番前の『ゲネプロ』とも言われるリハーサルは、本番さながらに通し稽古をするので見ていて楽しい。
ラシェルは舞台袖から『シンデレラ』のリハーサルを見ていたユージェニーに声をかけた。ユージェニーはラシェルより少し高いところから彼女を見下ろした。
「何?」
「ジェインは、バレエを踊ってて楽しい?」
ユージェニーはラシェルの問いを聞いて腕を組んだ。妙に様になっている。美人だし、ユージェニーは役者としてもやっていけるかもしれない、と何となくそんなことを思った。
「……そうだね。楽しい、と思うよ」
「なんで確証なさげなの」
思わず突っ込んでしまった。ユージェニーは右手で顎のあたりに触れた。
「自分の感情が良くわからないんだ。バレエは好きだよ。踊るのも好きだ。だが、楽しいか、と言われると良くわからない」
うん。ジェインには感情が欠落していることが良くわかった。
「じゃあ、ジェインは何してるときが一番楽しい?」
「……楽しい、か」
ユージェニーは考え込んでしまった。そんなに難しいことを聞いたつもりはないのだが。
「……私が言うのもあれだけど、たぶん、楽しく踊るのはいい舞台にするための条件の一つだと思う。……まあ、無理にとは言わないけど」
突然楽しく踊れと言われても困るだろう。突然笑えと言われて困るのと同じだ。無言でラシェルを見つめていたユージェニーはふっと息を吐いた。
「……そうかもね」
舞台袖から離れて行くユージェニーを見て、ラシェルは「お」と思った。彼女が笑った気がしたのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
こちらもあと一話で完結です。
やはり、バレエというより日常ドラマ的な何かになってる。