第8幕
今回は後半ユージェニー視点です。
ひな祭りですね。乗っかりませんが。
振付が終わり、通し稽古も何度か行われた。この段階で、実力が足りないと考えられれば容赦なく交代させられているものも多かった。シルヴィアは容赦がなく、理想が高く、そして指摘は的確だった。
「そこ! もっと足をあげて! ラインがきれいに見えていないわ!」
注意を飛ばされたラシェルはアラベスクの足を上げる。確かに、このポーズは背中から足にかけてのラインが重要なのである。
さらに、浮かべる表情が違うだの、腕の動きがずれているだの、細かい注文がついてくる。だが、それらがこなせれば確かに、最高の舞台になるだろう。
そして、ラシェルたちはまだましだった。よく注意を受けているのがフェオドラとユージェニー。フェオドラはジゼルだからともかく、ユージェニーに対する言葉が辛辣すぎた。
「あなた、何年目だと思ってるの。そんな簡単なこともできないなんて」
要するに、ウィリの女王ミルタの感情を理解しろと言うことなのだろうが、解釈は人それぞれであるし、ラシェルから見れば、ユージェニーの技術力にも表現力にも問題はない。ただ、ユージェニーの解釈とシルヴィアの解釈が違っているだけに見える。
ユージェニーはちらっと母親を見やり、視線を逸らした。こういうことが何度も続いているので、彼女も反応するだけ無駄だと思ったらしい。だが、無言ながらも指示に答えようとする意志が見られた。のだが。
ついにユージェニーがキレた。
「いい加減にしてよ!」
音楽が響く中、めったに声を荒げない……というか、荒げたところを見たことがないユージェニーの怒声が響いた。しん、と静まり返り、音楽だけが流れている。ラシェルも絶句した。
「確かに、母さんが言っていることは正論だ。それに答えられない私も悪い。だが、あまり言いすぎてもみんなの士気を下げる」
「し、士気……」
ラシェルの小さなつぶやきは、誰にも聞き咎められなかったようだ。そのままシルヴィアとユージェニーの言い争いが続く。ぱん、と手をたたいてその口論を止めたのは総監督のディックだ。
「二人とも、落ち着いて。周りのみんなに迷惑だ」
ディックが冷静に言うと、シルヴィアは腕を組み、ユージェニーは両手を腰に当てて不遜に睨み……見つめ合う。本当に、どんな関係の母娘なのだ。
「いったん休憩にしましょう。それで、そこの二人はちゃんと話し合って」
マリータがそう言うと、いつもはひるむユージェニーが目力を強くした。これは本格的に親子喧嘩に発展するのだろうか。そして、誰も止めない。
△
「いーのかな、ジェインとシルヴィアを二人にして」
シルヴィアがユージェニーと共に抜けてしまったため、必然『シンデレラ』の練習もできない。そのため、ラシェルは趙榮と共にお茶を飲んでいた。最近、練習時間が違うのであまり会えていなかった。
「いいんじゃないの。誰も止めないし、一介喧嘩しておいた方がいいんだよ。たぶん」
「最後にたぶんがついていなければもっと安心できたんだけど」
ラシェルがじとっと趙榮を見て言うと、彼は苦笑を浮かべた。
「だって、そうだろ。たぶん、ジェインは母親に反抗もしたことがなかったんじゃないかなぁ」
「遅い反抗期ってこと?」
「そう、それ」
趙榮もラシェルも結構言っていることがひどい。しかし、親にかまわれなかったであろうユージェニーにとって、初めての反抗である可能性が高い。
「でもまあ、これでうまくまとまってくれれば、願ったりかなったりだね。さすがに、いつまでも不毛な親子喧嘩に付き合うわけにはいかないし」
その分、練習量が減るからだろう。趙榮は本当にバレエが好きなのだ。
「どうせなら、最高の舞台を届けたいしね!」
「……そうだね」
ラシェルはうなずいてテーブルに肘をついて頬杖をつく。確かにこれであの親子の確執に決着がつくのなら、それでいい。和解するにしろ決裂するにしろ、何か前進があるはずだ。しかし。
もし決裂したら、ユージェニーはどうするのだろう。
△
その頃のユージェニーである。応接間の一つに、彼女は母であるシルヴィアと向かい合って座っていた。一応、二人の前にはお茶が出ているが、二人とも手を付けていない。
ユージェニーの母は世界的に有名なバレエダンサーで、ユージェニーは幼いころから母の舞台を見て育った。ユージェニーが幼いころに両親は離婚してしまったから、ユージェニーは母子家庭で育ったことになる。
しかし、不自由をしたことはなかった。母には、自分と子供を養うくらいの資産はあったし、母が舞台などでいなくても、世話をしてくれる使用人はいた。
だからこそ、ユージェニーには何もなかった。母から愛されたことがなかった。親の愛を知らなかった。
物心つくころには、彼女はそのことに気が付いていた。母から愛情を向けられない代わりに、父にはかわいがってくれていたと思う。しかし、それもすぐに終わった。父が再婚したからだ。小さいながらに、ユージェニーは父の新しい家族に迷惑をかけてはいけないと思い、父とは会わなくなった。
たぶん、ユージェニーは愛情に飢えていたのだ。そして、父にそれを求められなくなったとき、彼女は母の気を引くことを考えた。
それが、バレエだった。
ユージェニーがバレエを始めたのはそんな不純な動機だった。それが今では生きがいと言っていいほど好きになっているのだから、人生は不思議だ。
当初、ユージェニーの思惑はうまく行った。母はユージェニーがバレエを始めたことを喜んでくれたし、一つできることが増えるとほめてくれた。
だから、ユージェニーはレッスンを頑張った。十代前半のころは、母もそれを微笑ましく見ていたと思う。しかし、十代も後半に入ってくると、もう駄目だった。段々、彼女の娘を見る目が険しくなり、国際コンクールで入賞したとき、とどめを刺された。
国際バレエコンクールで踊られる演目は、だいたい決まっている。踊りやすいバリエーションと言うものがあるのだ。ユージェニーは、母のあたり役だった黒鳥のバリエーションを選んだ。
きっと、ほめてくれると思った。母の気を引くために始めたバレエだ。だから、ほめられなければ意味がない。その目を自分に向けてくれなければ意味がない。
だから、ショックだったのだ。母に拒絶された時は。
『あのバリエーションはなに? あんなひどい黒鳥は初めて見たわ』
……バレエを始めてから、初めて貶された。それから、母はユージェニーを避けるようになった。訳が分からなくて、ユージェニーは練習により力を入れた。寝食を削りすぎて倒れることもあった。それでも、母はユージェニーを冷たく見下ろすだけだった。
プロになってバレエ団に入団するころには、すでに気が付いていた。母は、本当にユージェニーに興味がなかったのだ。母はユージェニーを自分の分身くらいにしか思っていなくて、おそらく、自分よりも未来がある娘に嫉妬したのだ。
大人になって、母の気持ちはわかるようになった。だが、理解はできない。母にとって、自分の小さなプライドが娘よりも大切だったのだ。
暴力を振るわれたわけではない。しかし、ユージェニーの小さな世界では、母がすべてだった。母に否定されたら生きていない。その思い込みが、ユージェニーの身をすくませる。
そのうち、怖くなった。踊ることが。やめようと思ったこともある。でもそのころには、ユージェニーはすでにバレエが好きになっていた。母の気を引こうとしただけなのだからやめればいいのに、踊る楽しさを知ってしまった。
母よりうまく踊ったら、母に見てもらえない。母に捨てられてしまう。そう思い続けて、すでに十年近くが経つ。その間に、ユージェニーの中にあった『感情』はどんどん死んでいった。技術があっても、表現力がなければバレエでも何でも、舞台に立つ者は評価されない。ユージェニーが無心に踊るのは、自分の中で自分が踊ることを正当化するためだった。
いつまでもそうしていられないことはわかっていた。避けるばかりでは、前に進めない。ユージェニーはすでに十年も足踏みをしているのだ。
自分の踊りに感情がこもりきっていないのはわかっている。母と作品の解釈の仕方が違うこともわかっている。……母と自分は別の人間なのだと、わかっている。
だから、今、この機会に決着をつけてしまうべきなのだろう。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ユージェニーは結構口下手です。たぶん、その母親も。
何度も言いますが、この話は私の独断と偏見と妄想に基づいています。実際、バレエの作品はいろんな解釈があって難しいと思います。意見も対立すると思います。