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Balletto  作者: 雲居瑞香
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第7幕









「お前……どれだけ自分の母親が怖いんだ……」


 現在、『シンデレラ』の振付中なので、『ジゼル』組は休憩中だ。突然吐いたユージェニーに驚いたラシェルは、あわててスタジオに戻ってエルヴェを連れてきたのである。使っていない応接間のソファに横たわるユージェニーを、エルヴェが小道具の扇であおいでいた。

「大丈夫?」

 心配そうにソファの背もたれ側から覗き込むラシェルに答えたのはエルヴェだ。

「大丈夫だ。こいつの病気みたいなものだからな。黒鳥の時も、結局大丈夫だっただろ」

「あ……うん」

 ラシェルがうなずいたところに、「入るわよ」と柔らかな声が聞こえた。ドアを開けて入ってきたのはフェオドラだった。

「ジェイン、はい、水。もうすぐ『シンデレラ』の振付が終わるけど、先に一幕の振付をするからウィリたちは休んでていいって」

「……ありがと」

 ソファの上に身を起こしたユージェニーは、フェオドラが差し出したコップに入った水を受け取って礼を言った。フェオドラは「どういたしまして」と微笑む。


「シルヴィアがリジーを絶賛していたわ。彼女がうまいのは事実だけど、あなたの同期と言うことで、あなたへのあてつけかもしれないわね」


 フェオドラは、優しげな顔立ちに対して結構な毒舌だ。口調のきついエリザベスは、逆に相手のために隠すようなことをする人だ。

 フェオドラの言葉に、ユージェニーはため息をついてソファの背もたれに肘をついた。手の甲に額を乗せる。

「シルヴィアは私が尊敬するバレエダンサーだけど、人としてはあまり尊敬できないわよね」

 さらっとフェオドラはこんなことを言うから恐ろしい。ラシェルは「あのー」と声をあげた。

「ジェインはシルヴィアと何があったの?」

「親子だから、何もない方がおかしいわよね」

 フェオドラはやはりさらっと言う。まあ、確かにそうか。バレエダンサーになった時、親の七光りとか言われたのだろうと思う。

「一時期荒れてたしな」

 エルヴェも口をはさんだ。ユージェニーは顔を俯けたまま上げない。

「……気にするほどじゃないとは思うんだけど」

 顔を俯けたまま、ユージェニーが口を開いた。

「私はもう大人だし、あの人に振り回されるいわれはない……だけど」

 ユージェニーは一度言葉をきり、震える声で続けた。

「あの人の言葉は……」

 ぐっと言葉が詰まった。エルヴェが扇を仰ぐ手を止めてユージェニーの頭を無言でなでた。
















 フェオドラとエルヴェが『ジゼル』の振付に行ってしまったので、一時的にラシェルとユージェニーは二人きりになった。身を起こしてソファに座り直し、背もたれに身を預けているユージェニーを見て、ラシェルは口を開いた。

「大丈夫?」

「……大丈夫」

 まあ、そう返事が来るとは思った。ここはもう、大丈夫としか答えようがないだろう。

 シルヴィアとのことを聞きたいが、聞いていいのかわからない。と言うか、普通に考えたらだめだろう。

 何となく居心地が悪い中、不意にドアが開いた。

「倒れたんですって? 今度は何を言われたの……って、あら」

 ドアを開けてからラシェルの存在に気が付いたのだろう。エリザベスが目を見開いていた。彼女の後ろからヴァルターが顔をのぞかせる。


「お疲れ様でぇす」


 ラシェルが挨拶をすると、エリザベスも「お疲れ」と言って入ってきた。続いて入ってきたヴァルターを見てラシェルは首をかしげる。

「ヴァルターは『ジゼル』の振付に付き合ってなくていいの?」

「マリータがいるからな。俺は『シンデレラ』側だし、変に口を挟まない方がいいかなって。それと、今はパ・ド・ドゥの振付やってるけど、しばらくしたら呼ばれると思うぞ」

「はーい」

 ラシェルは返事をしたが、ユージェニーは黙り込んだままだ。エリザベスが近づいてユージェニーの頬をぷにぷにとつつく。

「あんたもメンタル弱いわよねー。母親を見返してやろうって思わないの」

「……それで何とかなるような人だったら、今頃、私はもっと明るい性格だろうね」

「まあ、そりゃそうか」

 ユージェニーのセリフも自虐的だが、エリザベスも結構ひどい。気づいているかわからないけど。ヴァルターがユージェニーに近づき、頭を撫でた。


「無理に話す必要はないけど、抱えきれなくなる前に話せよ」


 ユージェニーがうなずく。ヴァルターが優しく目を細めてユージェニーを見ている。

「ラシェル。いらっしゃい」

 エリザベスに手招きされ、ラシェルは彼女に近づく。そのまま部屋の外に押し出された。

「悪いわね。しばらく二人にしてあげて」

 エリザベスの言葉に、ラシェルは目を見開いた。

「えっ。あの二人って……」

「まあ、恋人同士なんでしょうね」

「……そうなんだ……」

 まったくそんな気配は見せていなかったから、気づかなかった。まあ、恋人同士でなくても、お互いに特別な存在、と言うことだろう。


 ラシェルとエリザベスは自動販売機でコーヒーと紅茶を買い、そばにあるベンチに並んで腰かけた。エリザベスが話し出す。

「ヴァルターやマリータは、もともとシルヴィアの指導を受けていたの。ジェインとはおそらく、その時に知り合ったのね」

「……そうなんだ」

 ちなみに、エリザベスとユージェニー、エルヴェの三人は同じバレエ・アカデミーの出身だ。そのアカデミーでシルヴィアは教えていたらしく、つまり、ヴァルターやマリータも同じアカデミーの出身であるのだろう。

「本当は私が言っちゃいけないんだろうけど、シルヴィアって育児放棄気味だったみたいなのよね」

「……ネグレクト、ってこと?」

「まあ、そうね。ジェインの父親の話は聞いたことある?」

 ラシェルは静かにうなずいた。父親のことは、ユージェニー本人から聞いた。

「両親が離婚するまでは、父親が構ってくれたからまだよかったらしいわ。でも、五歳くらいの頃に離婚したみたいね」


 離婚理由は、性格の不一致、価値観の違い、だそうだ。


「この時、父親の方に引き取られていればジェインは少しは幸せだったかもしれないけど、結局、シルヴィアが引き取ったのね。母親は、最低限のことはしてくれるけど、ジェインに対して無関心で、月に一度父親と会う時が一番楽しみだった、と言ってたわ」

 ユージェニーは、母親の関心を買おうとバレエを始めたらしい。そのもくろみはうまく行き、小さいころはできることが増えるとほめてくれたそうだ。


 だが――。


「十代前半くらいになると、ジェインは頭角を現しはじめたわ」

 さすがにずば抜けている、と言うことはなかったが、ユージェニーは本当にバレエの天才だったようだ。卓越した技術に、物語に入り込む感受性と表現力。すぐれた体感と運動神経に記憶力。

「特に、表現力は周囲を圧倒するほどだったわ」

 でも、とエリザベスは言葉をきり、コーヒーを一口飲んだ。

「十代後半にさしかかったころ、国際バレエコンクールに出たわ」

 それにはラシェルも出場したことがある。プロのバレエダンサーになるために、通過しなければならないコンクールだ。


「話は変わるけど、知ってる? 黒鳥ってシルヴィアのあたり役なの。ジェインは同じ黒鳥のバリエーションでコンクールに出場して、優勝した」


 十年くらい前の話だそうだ。当時八歳のラシェルにはその記憶がない。だが、ユージェニーが国際コンクールで優勝したことがあるのは知っていた。公式プロフィールに受賞歴が掲載されているからだ。

「母親からのバレエの技術と、父親譲りの演技力。審査員はジェインをほめたたえていたわ。でも、シルヴィアは違った」

 当時すでに、シルヴィアは引退して伝説のバレエダンサーとなっていて、コンクールの審査員にもよく選ばれていた。しかし、ユージェニーが出る年は審査員にはなれなかった。公平性にかける、と考えられたからだ。


「自分と同じバリエーションで、自分と同じくらい……もしかしたらそれ以上の踊りを見せた自分の娘に嫉妬したのよ」


 それから、二人は決定的に仲たがいしたらしい。十代後半になっていたユージェニーは、母親が自分の才能に嫉妬してきつい言葉を投げかけ、あえて貶すことをわかっていた。だが、彼女もバレエを愛していた。最初は母の気を引きたくて始めたものでも、彼女は確かにバレエを愛していた。

 プロのバレエダンサーになったユージェニーは、早々に母親と暮らしていた家を出たらしい。そのころにはすでにユージェニーの父親は再婚していて、ユージェニーも大きくなっていたのであまり父親とは会わないようになっていたそうだ。それもあって一人暮らしを始めたのだろう。


 しかし、シルヴィアの言葉の暴力は、ユージェニーから表現力を奪った。母親に非難された彼女は、無意識に母親よりもうまく踊るのを避けようとしたのかもしれない。

「で、まあ、今に至る、と」

「は、はあ……」

 ラシェルは相槌を打ったが、

「こんな話、私、聞いても良かったの?」

「いいのよ。ジェインも怒らないと思うわ。それに、これ、結構有名な話よ?」

「そうなの!?」

 ラシェルは驚いた。シルヴィアの負の面は、隠されているものだと思ったが。


「有名人であるほど、こういう話は多くなるものよ。ま、そこまで詳しくないけれど、育児放棄していたってことは結構広まってる。バレエダンサーとしては優秀だけど、人間としては尊敬できないわよねぇ」


 似たようなセリフを聞いたことがある気がしたが、ラシェルはそれどころではなかった。

「き、厳しいってレベルじゃないね」

「育児放棄は虐待だからね」

 ラシェルに対して、エリザベスはさらりとしている。

「ちょっと打たれ弱いけど、びしっといえばやってくれるのよね。怖いからかしら」

「いや、責任感が強いんだと思う」

 少なくとも、『白鳥の湖』のときはそうだった。ユージェニーが踊らなければ、舞台は破綻していた。だから、彼女は義務感が強いのだと思ったのだが……。

「あら、ここにいたのラシェル。そろそろウィリの振付が始まるわよー」

 ラシェルはパッと立ち上がった。手に持った缶はエリザベスに押し付ける。

「今行くー!」

 ラシェルはフェオドラの声がした方に向かって歩いて行った。











ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


黒鳥のバリエーションもいいですが、個人的には『パリの炎』のジャンヌのバリエーションも好き。


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