第6幕
衣装からラフな格好に着替え、化粧も落とし、荷物をまとめて帰り支度だ。ラシェルは帰る前にトイレに行っておこうと思い、トイレに向かった。のだが。
「あんた、大丈夫?」
トイレで、エリザベスと遭遇した。トイレの個室にいる人物の背中を撫でているらしい。ふと、彼女と目があった。
「……だ、大丈夫?」
一応声をかけて覗き込んでみると、何となく予想できたが、吐いていたのはユージェニーだった。さすがに着替えて化粧も落としているが、だからこそ顔色の悪さがよくわかる。
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫ではないわねぇ。ちょうどいいからラシェル。ちょっとエルヴェかヴァルターを呼んできてくれない? あと、水」
「りょ、了解」
エリザベスにさらりと命じられ、動揺しているラシェルは特に疑問を覚えずにうなずき、エルヴェとヴァルターを探しに行った。探しに行く途中でミネラルウォーターを購入する。
「あ、エルヴェ!」
先に見つけたのがエルヴェだったので、彼女はエルヴェに声をかけた。振り返ったエルヴェは「ラシェルか。どうした」と声をかけてくる。
「じぇ、ジェインが、吐いてて。リジーがエルヴェかヴァルターを呼んで来いって」
「あー。やっぱりか。わかった」
来てくれる様子を見せたので、ラシェルはエルヴェを連れて元のトイレに戻った。女子トイレだが、ためらわずにエルヴェは入って行った。
「リジー、大丈夫か?」
「吐ききって落ち着いてきたみたい。ラシェル、水持ってきた?」
「も、持ってきた」
ラシェルはうなずき、エリザベスにミネラルウォーターを差し出した。彼女は「あとでお金払うわ」と言うと、そのペットボトルをユージェニーに差し出した。
「はい、口ゆすぐ。あと、吐いたんだから脱水症状にならないように、水飲むのよ」
「わかった……」
少し枯れた声で、ユージェニーが言うのが聞こえた。水で口をゆすいだユージェニーを、エルヴェが立たせる。
「ジェイン、気持ちはわからんではないが、毎回こうなってたらお前の体が持たないだろう」
「……わかってる」
力なくうなずくユージェニーに、ラシェルは「あのっ」と声をかける。
「ジェインの黒鳥、とっても素敵だった! なんていうかこう……胸にぐっとくる感じで!」
だから大丈夫だと思う! と訳の分からない慰め方をするラシェルだ。エリザベスが「そうだけど、そうじゃないのよねぇ」と苦笑を浮かべたが、どういうことなのかは教えてくれなかった。
あと、結局ラシェルはトイレに行けなかった。
△
『白鳥の湖』の公演からしばらく。久しぶりの休みに、ラシェルは趙榮と共に映画を見に来ていた。十年ぶりに公開した人気映画の続編を見に来たのだ。すごい観客数だった。
「面白かった~。っていうか、すごい人だったね」
「そうだね。でも、僕たちはああいう大勢の人たちの前で踊ってるんだよ」
「たしかに」
趙榮の言葉に不思議な気持ちになる。バレエを見る時、観客たちが見ているのは銀幕ではなく、そこで今現在踊っているバレエダンサーたちなのだ。撮りなおしは出来ない。一発勝負。
映画もいいが、舞台もいい。そんな話を趙榮としながら劇場を出ると、趙榮がちょいちょい、とラシェルをつついた。
「どうしたの?」
「あれ、ジェインじゃない?」
「え」
ラシェルはくるっと顔を趙榮が差したほうに向けた。いつも結い上げている髪をおろし、サングラスをかけているが、確かに、後姿や雰囲気が似ている。
「……声、かけてみる?」
趙榮が言ったが、ラシェルは「違ってたらどうすんの」とこそこそ囁き合う。
すると、視線に気づいたか彼女の方が振り返った。サングラスをずらすと、少し切れ長の青い瞳が現れた。
「……」
「……」
「……」
間違いなく、ユージェニーだった。
△
ラシェルと趙榮は近くのカフェにいた。二人の向かい側にはユージェニーがいた。そして、三人の前にはそれぞれコーヒーやカフェラテが置かれている。
「えーっと。ジェインも映画を見に来たの?」
ラシェルが話しを切りだすと、彼女はうなずいた。
「ええ、まあ」
「ジェインもああいう映画を見るんだね、意外」
趙榮も参加して何とか話をつなげようとする。その努力のおかげかはわからないが、返答はあった。
「興味があるというか、父親が出ているから」
「父親っ!?」
ラシェルと趙榮の裏返った声がかぶり、二人は顔を見合わせた。ユージェニーはすまし顔でカフェラテを口にしている。
「父親って、誰!?」
そう言えば、ユージェニーの母親の話はよく聞くが、父親の話は聞かない。たぶん、ユージェニーの母シルヴィアは、ラシェルたちと同じバレエ業界にいるから自然に話が入ってくるのだ。
ユージェニーはさらりと答えた。その名は、有名な男優の名だった。言われてみれば、ユージェニーの美貌は彼に似ているのかもしれない。シルヴィアは不細工ではないが、顔立ちは普通なのだ。
だが、その男優には今、奥さんとその奥さんとの間に子供がいるはずだった。まさか、不倫!? と思ったラシェルであるが、すぐにユージェニーの年齢が二十八歳であることを思い出して一人で納得した。
おそらく、その男優はシルヴィアと離婚したのだろう。ユージェニーはシルヴィアに引き取られたから、シルヴィアと同じ姓を名乗っている。その男優の今の奥さんの子供は、確か、年長の子でもまだ十代半ばのはずだった。
なんでこんなに詳しいかと言うと、その男優はラシェルが一押しの俳優なのだ。
「……ええっと。お父さんと会ったりするの?」
趙榮が再び話をつなげようと頑張っている。意識を遠くに飛ばしていたラシェルであるが、彼女も参戦すべきだろうか。
「たまにはね」
とりあえず、聞けば返答がある。ということは、何とかしていろいろ聞けば、いろいろ答えてくれる、と言うことだろうか!?
ラシェルはちらっとユージェニーを見た。聞いてみたいことがあったのだ。
「……あの。不快だったら、答えてくれなくてもいいんだけど」
「何」
「ジェイン、お母様……シルヴィアさんと、仲悪い?」
ラシェルの問いに、ユージェニーは少し目を伏せて顎に指を当てて考えるそぶりを見せた。趙榮に「なに聞いてんの!」と小声でつっこまれる。ラシェルは小突きがえしてユージェニーの返答を待つ。
「仲が悪いと言うか、苦手なだけ」
同じではないのだろうか、とラシェルは思ったがツッコまないことにした。
まあ、母親が有名なバレエダンサーで、娘も同じ道に進めば、比べられることは必須だ。ユージェニーも嫌な思いはしただろう。それでもバレエを辞めないのは、彼女がバレエを心から愛しているからに違いない。
バレエは好き。でも、バレエをしている限り、母親と比べられる。そんな複雑な思いがユージェニーの踊りに現れているのかもしれない、と思った。
その後、趙榮とともにしばらくユージェニーと話をしてみたが、彼女は別にコミュニケーション能力に乏しいわけではないらしい。聞けば答えてくれるし、こちらに質問もしてきた。まあ、主に先ほど見た映画の話とバレエの話で盛り上がったことは否定しないが。
図らずも昼食を一緒に取り、それからユージェニーとは別れた。ラシェルは趙榮に言った。
「ジェイン、結構いい人よね」
「そうだね……」
趙榮が苦笑した。何故ならば、二人分の昼食代を、ユージェニーがおごってくれたからだ。
「ラシェルって、現金だよね……」
だまらっしゃい。
△
見事黒鳥を踊りきったことで、ユージェニーの評価も上がってきている今日この頃。フェオドラも復帰し、ヘイゼル・バレエ団も通常営業に戻っていた。
そろそろ次の公演内容も公表されるか、と言う頃、ヘイゼル・バレエ団のスタジオに一人の人物が訪れた。
シルヴィア・エニス。世界的に有名なバレエダンサー、プリンシパルにしてユージェニー・エニスの母親だ。
すでに五十代半ばほどの年齢のはずだが、かくしゃくとしたなんというか、『貴婦人』というような印象の人だ。遠目や写真では見たことがあるが、まさか会うことができるとは。感動である。
「リジー、ジェインはどうした?」
そう尋ねたのはこのバレエ団の総監督であるディック・ストランドだ。エリザベスはしれっと答える。
「シルヴィアさんを見た途端に逃亡して行ったけど」
「あ~……」
ディックが苦笑を浮かべた。いつものことのようだ。シルヴィアがこれ見よがしにため息をつく。
「娘が見苦しいことを。すみませんね」
謝っているのに、偉そうな態度だ……。ラシェルはちょっと不快感を覚える。確かに、逃亡したユージェニーに非はある。それを母親が謝るのも自然だ。だが、こんなに偉そうに言うのであれば、言わない方がましである。
しばらくして、ヴァルターがユージェニーを捕獲してスタジオに戻ってきた。シルヴィアと目があったユージェニーは、あからさまに視線を逸らした。
「えーっと。大体そろったか。みんな、ちょっといいか!」
ディックが声を上げる。みんなが彼に注目した。
「今回、ジゼルとシンデレラを公演する。そして、シルヴィアさんが特別出演してくれることになった」
ここで、ユージェニーが死んだ顔になったが、誰も気にしない。どうやら、シルヴィアは『シンデレラ』の仙女として特別出演するようだ。ちなみに、二日連続講演で、一日目『ジゼル』、二日目『シンデレラ』で公演するらしい。地方公演も行うようだ。地方公演と言っても、二か所を回る。そして、時間がない。
ざっと概要を説明され、やはりざっと出演者と配役が発表される。『シンデレラ』の方にはあまり出演者数が多くないので、必然的に『ジゼル』の方にダンサーが多くなる。ラシェルも『ジゼル』のウィリ役だった。
『ジゼル』の主人公は心臓が弱いが踊るのが好きな少女ジゼルだ。恋人に裏切られたショックで死んでしまうのだが、未婚のまま死んだ女性はウィリ、という精霊になる。通りかかった男を死ぬまで躍らせると言う、さりげなく恐ろしい設定だ。そのウィリの女王がミルタである。
主人公ジゼルはフェオドラ。その恋人役アルブレヒトはエルヴェ。ジゼルに恋するヒラリオンにはオスカー。そして、女王ミルタはユージェニーだ。これが発表された時、団員のほとんど全員がユージェニーがぶっ倒れるのではないかと思ったそうだ。ラシェルも思った。
ちなみに、『シンデレラ』の方。こちらは少々コメディー色が強い。『シンデレラ』にもいくつか版が存在するが、みんなが知っている童話のシンデレラになぞらえたほうの版を上演するらしい。
主人公のシンデレラはサユリだ。そして、シンデレラの義理の母と義理の姉二人は、そのバレエ団にもよるが男性が演じることが多い。義姉の一人に、趙榮が選ばれた。ちなみに、王子はヴァルターで、エリザベスは冬の精を踊るらしい。この辺りは順当である。
早速レッスンが始まったが、ユージェニーが怒られまくっていた。何しろ目が死んでいるし(いつもか)、体の動きはおかしい。なのに、振付が始まると、一度も間違えることがない。意味が分からない。
『ジゼル』は難しいバレエだ。解釈はいくつかあるが、ジゼルは病弱で、心臓が弱い、という設定なのだ。なので、激しく踊ることはできず。大事に、大事に踊るものだ。
ウィリになってからも困難は待ち受ける。ウィリは精霊、平たく言うと幽霊なのだ。幽霊だと、足音がない。
もともと、バレエは足音を立ててはならないとされる。優雅に踊るのがバレエだからだ。しかし、ウィリはそれだけではなく、幽霊のように踊らなければならないのだ。幽霊のように、ってどういうことだ。
見ているだけなら、今日のユージェニーは幽鬼みたいだけど。ウィリはもう少し優雅な幽霊だと思うのだ。どうやら、そう思っていたのはラシェルだけではないようで。
「あなた、今日の踊りはなんなの?」
休憩中、ちょっと外に出たラシェルの耳に、女性の声が飛び込んできた。死角になっている建物のでっぱりの所をのぞくと、シルヴィアとユージェニーの親子がそこにいた。母が娘に説教をしているようだ。
「バレエは技術がすべてではないのよ。そこに込められた思いまですべてが作品なの。あなたの踊りには思いがないわ」
シルヴィアの言葉を聞いて、ラシェルは、ユージェニーが『ただうまいだけ』と言われていたことを思いだした。黒鳥を踊りきったことで、そう言われることは少なくなっているように見えたけど。
くどくどと説教を続けるシルヴィアに対し、ユージェニーが口を開こうとした。だが、シルヴィアが「口答えは許しません」と一喝する。
「次また同じように踊ったら許しませんからね」
そう言って、シルヴィアがこちらに向かってきたのでラシェルはあわてて隠れた。シルヴィアをやり過ごした後、ユージェニーに駆け寄った。
「ジェイン、大丈夫?」
蒼ざめたユージェニーを見上げると、彼女もラシェルを見た。そして、吐いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『シンデレラ』はストーリー的に面白くて好きです。『ジゼル』はバレエって感じがしていいです。
でも、踊り的にはやはり『くるみ割り人形』の雪の精が好きですね。(完全に個人の好みです)