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Balletto  作者: 雲居瑞香
5/10

第5幕









 翌日。運命の日……と言うほどのことでもないが、よく寝て体調も万全であるラシェルであるが、かなり緊張していた。午前中からみっちりレッスンをして体を作りあげ、変更された曲の確認をし、本番まで待機の時間になった。いやおうなしに心拍数が上がっていく。ラシェルは何度か深呼吸した。

「ラシェル、大丈夫?」

「ああ、うん。ちょっと緊張してるけど」

 話しかけてきたサユリに、そう言って微笑み返す。サユリはうなずいた。

「少し緊張してた方がいいっていうもんね。でも……緊張しすぎもまずいよね……」

「そりゃあ、ね……何かあったの?」

 ラシェルが何気なく尋ねると、サユリは少し眉をひそめた。

「いや、ジェインがすっごく緊張しているよう見えたから、いかがなものかと思って」

「いや、もともとプレッシャーは半端ないと思うの」

「それはそうね」


 ラシェルも同じ舞台袖で待機中のユージェニーを見て言った。急遽、黒鳥の代役をすることになったのだ。しかも、練習期間は一日。緊張するなと言う方が無理である。

 だが、確かにサユリが心配するのがわかるほど、ユージェニーは青ざめていた。今日は舞台化粧でメイクが濃いのだが、それでもわかるほど青白い顔をしていた。今にも吐きそうに見える。


「……大丈夫かな?」

「……大丈夫じゃないと困るよね……」


 ラシェルとサユリがささやきあう。昨日は、感情表現にダメ出しを受けてお残りをしていたが、その後、改善されたのだろうか。

「ねえ聞いた? 今日の舞台、シルヴィア・エニスが見に来てるんだって!」

「シルヴィア……って、世界的バレエダンサーじゃん!」

「絶対に失敗できないね」

 少し離れたところで、別のダンサーたちがそんな会話をしているのが聞こえた。


 シルヴィア・エニス。最高のバレエダンサーは誰? と聞いて必ず名の上がる女性だ。すでに五十歳を越えていて現役を退いてはいるが、彼女は様々なバレエ団に指導役として呼ばれている。解説者や振付師としても活躍しているが、今は某バレエ学校で教えているという。

 そして、名前からわかるとおり、そこで震えているユージェニーの母親だ。写真を比べてみると、何となく似ているし(ただし、ユージェニーの方が美人)、二人が親子関係を隠しているわけでもないので、調べればすぐにわかる。


 ちなみに、シルヴィアのあたり役の一つに黒鳥がある。これはユージェニーにとってプレッシャー大だろう。


 ユージェニーがヘイゼル・バレエ団をくびにならないのは、母親の七光りの精だろう。そう裏で言われているのを耳にしたこともある。技術は一流でも、ただうまいだけではバレエダンサーはダメなのだ。

 だが、ラシェルは今のところ、ユージェニーから母親の話を聞いたことがない。というか、ヘイゼル・バレエ団に来てからしばらくたつが、今言われるまでユージェニーとシルヴィアが母娘であることを忘れていた。つまり、それくらい話を聞かないと言うことだ。だから、ユージェニーがこのバレエ団に所属しているのは、親の七光りのおかげではないのだと思う。


 こんなことをつらつらと考えていたからだろうか。先に異変に気が付いたのはサユリだった。

「ちょ、ジェイン!?」

 サユリの声に驚いてラシェルが目を上げると、ユージェニーがよろめいて壁に手をついたところだった。ロマンティックチュチュのスカート部分が揺れる。パーカーに覆われた肩は不自然に上下していて、一目で正常状態ではないとわかった。

「だだだ、大丈夫!?」

 ラシェルもあわてて駆け寄る。舞台袖は一時騒然となった。そこに、今日の配役と出演者の名前が読み上げられ始める。


「どうした」


 やってきたのはジークフリート王子の友人役のオスカーだ。彼はユージェニーの様子を見て目を見開き、言った。

「誰かヴァルター……は、駄目か。マリータとエルヴェを呼んで来い」

「は、はい!」

 近くにいた女性ダンサーがあわてて二人を呼びに行く。オスカーが「落ち着け~、落ち着け~」と呪文のように唱えて座り込んだユージェニーの背中をさすっていた。


「ジェイン!」


 先にやってきたのはマリータである。ちょうど、黒鳥役が代役に変わったことを告げるアナウンスがかかったところであった。

「ああ、過呼吸ね。ほらゆっくり息を吐きなさい」

 マリータに促され、ユージェニーがなんとか息を吐きだそうとするが、うまく行かない。やや遅れてエルヴェが駆けつけてきた。


「またか!」


 周囲に人垣ができているユージェニーの真正面にしゃがみ込み、彼女の両肩に手を置く。

「ほら、大丈夫だ。お前ならできる。昨日だって最後、よくなってただろう?」

 少しクールな印象のエルヴェが優しい声音でユージェニーに諭すように言った。

「あとはお前が、楽しく踊りきるだけだ。最高の舞台を作るんだろう?」

「そうですよ。はい、息を吐いて」

 エルヴェに諭されて少し余裕が生まれたのか、ユージェニーはゆっくりと息を吐いた。少しずつ過呼吸が収まってくる。

「大丈夫だ。きっと成功する」

 エルヴェの言葉に同意するように、ユージェニーが深く息を吐いた。過呼吸が収まり、通常呼吸に戻っている。マリータが「立てる?」と尋ねると、エルヴェに支えられながらだが自分で立ち上がった。

「大丈夫。……ごめんなさい」

 ユージェニーの謝罪に、オスカーが口を開く。

「良かった。ジェインがいないと、今度こそ公演中止に……」

 言いかけたところで、オスカーがエルヴェの蹴りを食らった。


「下手なことを言うな。こいつ、繊細だから。あまりプレッシャーをかけないように」

「……わかった」


 小声で理不尽に責められ、オスカーは戸惑い気味。幸いと言うか、ユージェニーはマリータと話していて気付かなかったようだ。

 多少のハプニングはあったものの、つつがなく舞台は開演された。フェオドラが抜けて振付や立ち位置が変わったところも、特に問題なく踊れている。実は、ほとんど合わせる時間がなかった、ユージェニーが参加する第二幕の白鳥たちであるが、これはユージェニーに周囲が合わせることで何とか乗り切った。全体としては、まあまあいい出来だったのではないだろうか。

 そして、次の第三幕が問題の黒鳥オディールがでてくる。フェオドラの衣装を直した黒のチュチュを着たユージェニーが胸の前で手を組んでいた。その隣には、シルエットとしてだけ登場予定の白鳥オデットエリザベスが立っていた。三幕が開演されるベルが鳴る。


「――っ! やっぱり」

「無理、っていうのはなし! 泣きごとは後でいくらでも聞いてあげるから、とりあえず、あんたは全力で踊れ!」

「……」


 エリザベスの言葉に、ユージェニーは半泣きだ。いつもクールそうに見える女性の泣き顔に、何故か見ているだけのラシェルが動揺した。

 にしても、ユージェニーと同期のエリザベスとエルヴェは、さりげなく彼女の扱いがひどい。扱い方がわかっている、と言うべきかもしれないが。

「わかればよろしい」

 エリザベスのその言葉を聞いたところで、ラシェルは舞台に出た。とてつもなく不安を感じているが、まあ、エリザベスの檄が効いたと信じよう。

 ジークフリート王子の縁談相手としてやってきた各国の王女たちが踊る。そして、そろそろ黒鳥の出番だ。昨日は、振り付けは完璧だった。そう。振り付けは。一度もミスがなかった。

 ラシェルはちらっと黒鳥に扮するユージェニーを見た。たぶん、舞台上の全員が彼女の方を注目した。ここは彼女に視線が集まるシーンだから、不自然ではないし。

 真っ黒な衣装に口元には妖艶にも酷薄にも見える笑み。動きは、昨日の通り完璧だ。


 ……ユージェニーの笑みを初めて見た。彼女が笑っているところを、舞台上ですら見たことがなかったのだ。


 さすがと言うか、彼女は完璧に難しいバリエーションを踊って見せた。そして、ジークフリート王子に愛を乞う。そして、王子はオデットに扮した黒鳥オディールを一生愛すると誓ってしまうのだ。

 ここが黒鳥の見せ所だと、ラシェルは勝手に思っている。振付師の振付にもよるが、この高笑い! フェオドラに負けず劣らずの悪女っぷりだ。怖い。

 なんというか、さすがは最高のバレエダンサーと呼ばれたシルヴィア・エニスの娘だ。やればできる子なのである。

 黒鳥の踊りが終わった後、ジークフリート王子が『マザコン』と呼ばれるゆえんである、王子が王妃に泣きつくシーンを経て、第三幕は終了。急いで着替えて第四幕だ。


 第四幕の最期、ジークフリート王子はロットバルトを倒すことに成功するが、オデットの呪いは解けない。絶望した二人は湖に身を投げて来世で結ばれることになる……。


 と、ここまでほぼ完ぺきな舞を披露していたヘイゼル・バレエ団だが、その舞台裏は結構な修羅場だった。


「吐きそう!? ちょっと待って、あと挨拶だけだから!」

「耐えろ! 全力で耐えろ!」

 主にこの辺りである。開演前から不調であったユージェニーが吐き気を訴えているようだ。エリザベスとヴァルターがツッコミを入れている。確かに、最後に黒鳥がいなければ意味がない。

 最後に、順番に挨拶に出る。ラシェルは白鳥のコール・ド・バレエの仲間たちと一緒に挨拶だ。趙榮チャオ・ロンは貴族たち、の一人だった。

 ラシェルの元の所属であるペルティエ・バレエ団もそうだが、オデットはジークフリート王子と最後に、その前にはロットバルトと黒鳥オディールが一緒に出てくる。いや、ペルティエ・バレエ団ではオデットとオディールが一人二役なので、オデットたちの前はロットバルトだけになるのだが。

 そのため、ユージェニーはロットバルト役のヴァルターと共に出てきたが、彼女は舞台用の濃い化粧をしていてもわかるほど顔面蒼白だった。しかし、顔には笑みを浮かべて最後の挨拶に望んでいる。

 そして、本当の最期にはエリザベスとエルヴェが出てきた。二人が深々と礼をして、最後にみんなでもう一度礼をして、幕が下りた。


 これで、『白鳥の湖』の公演も終わりだ。またすることもあるかもしれないが、今まで練習してきた曲をこれでしばらく踊れない、と思うと、いつも少しさみしくなる。











ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


ジークフリート王子のマザコン疑惑って、何で見たのだろう……。

『白鳥の湖』と言えば、第2幕『情景』ですよねー。フィギュア・スケートでもよくつかわれてますし。私もバレエをしていたころに踊りました。ずっと出ずっぱりで地味にきついんですよね……(鍛錬が足りぬ)。


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