第4幕
「……私?」
「あんたよ。むしろ、あんたを置いて他の誰に出来るっていうの」
「いや、でも、私、練習とか……」
「振り付けは頭に入ってるでしょ。あんたに出来ないとは言わせないわ」
「いや、でき……」
「ジェイン」
エリザベスがユージェニーのパーカーの胸元をつかみあげた。
「いつまでも甘ったれたこと言ってんじゃないわよ! あんたにはできるだけの力があるでしょうが! それを否定されたら、こっちはどうすればいいのよ!」
エリザベスがどこからそんな力が出るのだ、と言う勢いでユージェニーを揺さぶる。
「ちょ、リジー、落ち着け」
「落ち着いてるわよ!」
エルヴェにツッコミを入れられるが、エリザベスはすぐさま言い返した。いや、落ちつてないだろう……。ラシェルはそう思ったが、ツッコミを入れる勇気はなかった。
「みんな、この日のために頑張って練習してきたの。みんな、公演を取りやめたくないの。あんたがやれば、もしかしたら幕を上げることができるかもしれないのに、やらないのはおかしいでしょ。最善を尽くさないと!」
エルヴェがエリザベスの腕をつかんでいるので、ユージェニーがそれ以上揺さぶられることはなかったが、ユージェニーは顔面蒼白である。
「お客さんも、期待してくるの。最高の舞台を見せるのが私たちの役目でしょ。なら、あんたも自分のできる精いっぱいのことをしなさいよ」
「……私が?」
「私たちは一蓮托生! 誰かのミスはみんなのミス! だから、フェオドラがいなくなったのなら、私たちみんなでカバーすべき。その中にあんたも入ってんのよ」
「……」
結構な暴論である。バレエ団のみんなも唖然としていた。ユージェニーは優柔不断なのだろうか、なかなか結論が出ない。
「とにかく、できるの、できないの?」
「で、でき……でき、る」
何故片言。しかし、言質は問ったとばかりにエリザベスは笑った。
「マリータ。ジェインが黒鳥やるわ。抜けた分のフォローをお願い」
エリザベスがいい笑顔で言うと、マリータが苦笑した。
「力技ね。わかりました。ジェイン、エルヴェとヴァルターを貸してあげるから、午後までに黒鳥を仕上げてきなさい」
「わ、わかった」
言質をとられたからだろうか。ユージェニーがおとなしくうなずき、逃がすかとばかりにジークフリート王子役のエルヴェ、振付師でロットバルト役のヴァルターに連れられて地下練習場に向かっていった。
「ジェインでいいのかな。確かに、うまいけどさ」
「黒鳥でしょ。誘惑とか、できるの、あの人」
「いくらうまくても、感情表現ができなくちゃ、ねぇ」
ひそひそとダンサーたちがささやきあう。マリータがぱんぱん、と手をたたいた。
「人のことを気にしている場合じゃありませんよ。フェオドラとジェインが抜けた分をフォローしないといけないんですからね」
問題は第二幕情景だろうか。こちらはユージェニーが白鳥として出られるが、フェオドラが抜けている。コール・ド・バレエは一人抜けるとそれだけで崩れてしまう。誰かが、抜けた穴を埋めなければならないのだ。
なので、若干配置や振付が変わってきたりする。ちなみに、黒鳥の代役は用意していなかったが、コール・ド・バレエの代役は用意している。というか、他の踊りを踊る人の中で何人かに振付を覚えてもらっているだけだが。
なので、正規メンバーよりも精度が下がってしまうのだが、そこは仕方がない。さがると言っても、ヘイゼル・バレエ団だ。底力が高い。
ラシェルもいくつかの振付変更があり、四苦八苦しつつ頭と体に叩き込む。昼ごろにはなんとかなるような気がしてきた。
「ラシェル、お疲れ。大変なことになったね」
と、趙榮も若干の影響が出ている。だが、振付に大きく変更が出たラシェルよりはまし。そして、そんなラシェルもいきなり黒鳥をやることになったユージェニーや、いきなり組む相手が代わったエルヴェに比べればはるかにましなのであろう。
「お疲れ。でも、お客さんにがっかりしてほしくないもん」
「そうだね」
趙榮はラシェルの言葉に同意し、彼女の隣に座った。手には温かい紅茶を持っている。
「変更出たところ、大丈夫?」
「今のところはね。でも、実際通してやってみたら、わからないと思う」
ラシェルは慎重にそう言った。今は変更した曲ごとに踊っているからできるが、通しでやったらできない可能性も高い。だが、午後から通し稽古は一度しかできない。次通しでやるとき、それが本番になる。
「というか、俺たちもだけど、ジェインもだよね……」
「……うん」
正直、無理を承知でエリザベスがやった方がいいのではないだろうかと思う面もある。しかし、そのエリザベスがユージェニーを推していたし、振付師の二人もそれに反論を挟まなかった。他のバレエダンサーだって、ユージェニーの実力を疑っているわけではない。
ただ、彼女のバレエは感情が伴わないことを気にしているのだ。
昼休憩でゆっくりしていると、地下練習場に行っていたユージェニーとエルヴェ、ヴァルターが戻ってきた。ヴァルターがにやりと笑う。
「振り付けは完璧だぞ。あとは通しでできるかだな」
「さすがです」
マリータがうなずいた。その「さすが」が誰に向けられたものなのかわからない。
「ですが、時間がありませんからこのまま一度通してみましょう。ジェイン、あなたの群舞の振り付けは変えていませんから、周囲が変わっていても今まで通り踊ってくださいね」
「わ、わかった」
ユージェニーがうなずいた。結構難しい注文である。自分の踊りをすればいいと言われても、周囲が変わっているとつられてしまうものだ。
だが、ユージェニーは回りなんて知るか、とばかりに、今までと同じように踊ってみせた。戸惑いも見せずに踊り、そして、問題の第三幕。ユージェニーの黒鳥の踊りである。
踊りは完璧だった。難しいところも難なくこなし、振り付けは完璧に覚えているようだ。しかし。
『違う! もっと、もっと感情表現を!』
ここに尽きる。ラシェルも、ユージェニーの高笑いはフェオドラほどの狂気を感じないと思った。二人とも、技術レベルでは同じくらいなのに、差が出ているのはこの辺りの感情表現のせいだろう。
通しなのでここでは止められず、いったん最後まで通してみる。全体として、変更があったところにややぎこちないところは合ったものの、特に問題ないとされた。それよりも問題の所があるからだ。
「ジェイン。踊りは完ぺきだったわ。さすがと言えるでしょう。でも、今回、あなたはジークフリート王子を誘惑しに来ているのよ。もっと、こう、悪女っぽいふるまいを」
「うーん、ジェインには難しい注文」
「ヴァルターは黙ってなさい!」
マリータに一喝され、ヴァルターは口を閉じた。ユージェニーは唇を引き結ぶ。
「ほら、やっぱり」
「明日の公演はこけるわね……」
マリータに説教されるユージェニーを見て、ダンサーたちがそんなことを言っているのが聞こえた。ラシェルはうつむく。
もし、明日の公演がこけたらどうするのだろうか。きっと、ユージェニーは責任を感じて、余計に感情が出てこなくなるのではないだろうか。そんな気がした。
結局、ユージェニーとエルヴェだけが居残りで、あとのメンバーは明日に備えて休むように言われて帰された。趙榮と並んで歩きながら、ラシェルは明日の公演に俄かに不安を覚える。
「大丈夫かなぁ」
「明日の公演?」
「どっちかっていうと、ジェイン」
明日の公演も心配だが、その前にユージェニーがプレッシャーに押しつぶされたりしないか、心配でもある。
「あー。うん、まあ、今日のままだと、ね……」
趙榮もさすがにフォローしきれなくて口をつむぐ。技術としては完璧。だが、黒鳥としては不完全。そんな状況だ。
「大丈夫よ」
不意に声が聞こえ、振り返ると、やはり帰宅途中だったらしいエリザベスがこちらを見ていた。彼女は不敵な笑みを浮かべる。
「やれと言ったら、あの子は必ず仕上げてくるわ。明日は大盛況で終わるわよ。私からの予言」
そう言ってエリザベスはひらひらと手を振って角を曲がって行った。どうやら、彼女はそちらの方に住んでいるらしい。
ラシェルと趙榮はぽかん、としたまま取り残された。
「……僕、リジーはジェインが嫌いなんだと思っていた」
「実は私も。どういうことかな……」
二人は顔を見合わせたが、もちろん答えなどでない。だから、寝ることにした。どちらにしろ、彼女らに出来ることはほぼ皆無なのだから。よく寝て、体調万全で明日に臨む方が重要なのであった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
人間ドラマ的な展開になってきている。ユージェニーはもう一人の主人公です。