第10幕
最後の話になります。
本番当日。ばっちり舞台化粧をして衣装も着て舞台袖に待機しに来たラシェルは、異様なものを見た。
「……」
ラシェルと同じく第一幕での村人役の衣装を着たユージェニーが、袖から舞台の方を見てカッと目を見開いていた。意味が分からないし、彼女もばっちり化粧が決まっている分、怖い。
「な、何あれ」
たまたま近くにいたフェオドラに尋ねる。ユージェニーの背後にはおどろおどろしい効果音が鳴り響いている気がした。
「……精神統一じゃない?」
「さすがに返答が適当すぎるよ」
投げやりなフェオドラの言葉に、ラシェルはツッコミを入れた。でもまあ、精神統一と言われればそんな気もするけど。だが、それよりも恐怖の方が強い。
「もともと無表情だけど、あの顔で舞台に立たれるのは困るわね」
「もしかして、みんな見てるから緊張してるのかな」
フェオドラとラシェルが顔を見合わせた。それはありうる。何しろ、ラシェルたちも緊張している。どの公演でも、ダンサー全員が参加するわけではないので、選考から漏れてしまったダンサーたちはいつも公演を見に来る。見るのも勉強だ。
今回は『シンデレラ』に出演する主要ダンサーたちも、今日は舞台に立たないので客席から見ているはずだ。ラシェルが、明日『シンデレラ』を客席から見る予定なのと同じだ。
だから、緊張している。いつもはともに踊る仲間たちが見ている。それだけのことなのに、とても落ち着かない。
「ま、私たちは今までやってきたことを出し切って楽しく踊るだけよ」
年長者の余裕か。フェオドラがラシェルの肩をたたいた。さすがに一回りも年が違うと、これくらい貫録の差があるか、と場違いなことを考える。
開演十分前のブザーが鳴った。出演者たちがあわただしく配置につく。ラシェルも胸に両手を当てて深呼吸をした。舞台の近くにいたユージェニーもこちらに近づいてくる。暗くなったので表情はよく見えないが、少なくとも恐怖を抱かせるような表情ではない。
開演のブザーが鳴る。出演者と配役が読み上げられ、音楽がかけられる。ちなみに、『白鳥の湖』の時はオーケストラだったが、今回はそれほど大きくない公演なので、普通に機械で流している。
第一幕は、ジゼルの踊りがメインだ。と、ラシェルは勝手に思っている。ウィリ役であるラシェルたちは、第一幕は村人として参加だ。いわゆるその他多勢である。舞台から踊りを見るのも楽しいが、前から見るのも好きだ。
第一幕の後半、恋人アルブレヒトに婚約者がいることを知ったジゼルが錯乱する場面がある。前回、途中で降りることになったとはいえ『白鳥の湖』で黒鳥を踊ったフェオドラが、今度は純粋な少女を演じている。フェオドラの演技力は大したものだ。
第一幕の最期、ジゼルは母の腕の中で息絶える。間に休憩をはさみ、第二幕の開幕。ウィリの出番だ。
未婚のまま死んだ女性の精霊ウィリは沼だか湖の近くに現れる。いや、墓はその近くにあるのだ、という解釈も見たことがある。とにかく、現場は湖畔なのだ。
死したジゼルはウィリの女王ミルタに迎えられる。女王役のユージェニー、無駄に貫録がある。こういう役が向いているのかもしれない。ミルタなら、笑顔がなくても役が成り立つ。以前より話すようにはなったが、ラシェルはいまだに彼女の笑顔は見たことがない。
ウィリたちはジゼルが心臓発作で亡くなる原因を作った男、ヒラリオンを追い回す。彼はジゼルの墓に許しを請いにやってきたのだが、ウィリたちはそれを許さない。ヒラリオン役のオスカーを追い回すのは、ちょっと楽しかった。ウィリたちは迷い込んできたものや裏切った男を死ぬまで踊らせるのだ。そして、ヒラリオンは最終的にミルタに死に突き落とされる。その時のユージェニーの表情と来たら。この作品は、ホラーだっただろうか……。確か、ロマンティック・バレエの金字塔だった気がするのだが。衣装だってロマンティック・チュチュだ。
ヒラリオンと同じく、アルブレヒトもジゼルの墓にやってくる。ウィリとなったジゼルは女王ミルタにアルブレヒトの命乞いをするのだ。この辺り、解釈が分かれるところだが、ジゼルが本当にアルブレヒトを見逃すようにミルタに乞うたのか、それとも、ただ朝になるまでの時間稼ぎをしているだけか。火が昇れば、ウィリたちは墓に帰っていく。
たぶん、役があっていたのだろうが、ジゼル役のフェオドラと女王ミルタ役のユージェニー。それぞれの性格が良く役に合っていたと思う。いや、フェオドラはちょっと毒舌気味だけど。ユージェニーも、冷酷な女王の役が似合うってちょっとどうかと思うけど。
おそらく、この『ジゼル』の公演に関して、シルヴィアはユージェニーを責められまい。適役であったし、彼女は見事に踊りきった。満場の拍手を聞きながら、幕が下がるのを待つ。
「お疲れ様!」
最初にフェオドラがそう声をあげた。袖幕の方からマリータもやってくる。
「お疲れ様。よかったわよ。特に冷酷無慈悲な女王ミルタ」
「それ、ほめてんの?」
さすがにそれはどうかと本人も思ったらしく、ユージェニーが顔をしかめている。
「ウィリたちも良かったわ。最後にちょっと足音がしたけど、まあ、完璧すぎるのもつまらないものね」
マリータもおおらかだ。最後の最後に足音を立ててしまった張本人であるラシェルはすいっと目をそらす。そこまでは本当に幽霊のような舞踊だったのだ。
だが、そうした小さなミスも、こうした舞台での楽しみの一つだ。ドラマや映画では、味わうことができない。まあ、ミスはないに越したことはないけれど。
公演を終えて衣装を着替え、化粧も落としてついでにシャワーも浴びて、ラシェルは帰る準備をしていた。あまり早く出て行くとユージェニー対シルヴィアの口論場面に遭遇すると思ったのだ。
そのラシェルの懸念だが、現実になった。迷惑にも二人は楽屋口の前で対面していたので、出るに出られない巻き込まれたダンサーたちが曲がり角の影から母娘対決を見ている。
「……まだやってる……」
「まだどころか、始まってもないぞ」
ラシェルのつぶやきを聞きとがめたエルヴェが言った。つまり、あの二人は見つめ合ったまま時間が過ぎているということらしい。
「いい加減にすればいいのに……」
「二人とも素直になれないんだよな」
フェオドラの呆れた声と、オスカーの苦笑が聞こえた。
「……悪くはなかったわ」
シルヴィアの声が聞こえてラシェルたちははっとした。彼女渾身のほめ言葉だったらしい。それだけ言うと、シルヴィアは背を向けて楽屋口から出て行った。残されたユージェニーは少し眉間にしわを寄せると、こちらを見た。みんなでびくっとする。
「何してるの、みんな」
「微笑ましい母娘対決を見守っていたのよ」
「……素直に出入り口をふさいでいて出られなかったと言えばいいだろう」
フェオドラの開き直ったセリフに、ユージェニーがため息をついた。実際には、楽屋のない反対側の袖口にも出入り口はあるのだが、みんな気になってユージェニーとシルヴィアの様子を見ていたのだ。
「……お前、絶対母親似」
「それはもう聞いた」
エルヴェの言葉に、ユージェニーは肩をすくめた。
「でもまあ、今のはシルヴィアの渾身のほめ言葉でしょ。ちょっとは関係改善したんじゃないの」
フェオドラがからかうように言った。ユージェニーは生真面目に「どうだろうね」と答えた。そのまま出て行くので、ラシェルたちもそれに続く。
「まあ、みんなには迷惑をかけて申し訳ないとは思ってる」
ユージェニーはそう言って速足に会場から出て行った。母親といい娘といい、本当に素直ではないなぁとラシェルは苦笑した。
△
翌日。ラシェルは『シンデレラ』を客席側から見ていた。真正面からは少しずれているが、かなりいい席だ。中腹の下手より。ラシェルの右側にはユージェニー、さらにその隣にはフェオドラが座っている。一番良い席には招待客が座っているので、バレエ団関係者はちょっとずれた席が与えられたのだ。それでもいい席だけど。
『シンデレラ』にもさまざまな版が存在するが、前にも述べたとおり、今回上演するのは童話に基づいた版だ。ちょっとコメディ感はあるが、それはそれで面白い。シンデレラの義理の姉として出演している趙榮もいい感じだ。申し訳ないが、大いに笑わせていただいた。
義母や義姉が舞踏会に出かけてしまうと、ここからはシンデレラのターンである。いや、ターンっておかしいけど。
自分だけお留守番で泣いているシンデレラの元に、先ほどシンデレラが親切にした老婆がやってくる。義母たちは不気味がって突き飛ばしてしまうが、シンデレラは親切に食べ物を与えたのだ。
そして、さめざめと泣くシンデレラの前で、老婆は仙女になる。魔女でも可。もちろん、仙女はシルヴィアだ。ユージェニーに負けないほどの無表情で指導をする彼女だが、この時ばかりは慈愛に満ちた微笑みを浮かべており、隣のユージェニーが「うわぁ」とどん引きしていた。母親の姿にどん引きすというのも相当である。
そして、ここからが四季の精の出番だ。それぞれさまざまな贈り物をしていく。そして、エリザベス演じる冬の精がティアラを渡すのだ。ちなみに、ガラスの靴を渡すのは仙女の役目。
仙女や四季の精たちに見送られて、シンデレラは舞踏会に出発する。ここで一幕は終わり、休憩をはさむと二幕に入った。
舞踏会に到着するシンデレラ。もちろん、王子と踊るところもメインだが、ラシェル的には趙榮たちが演じる義姉たちの踊りに注目したい。その振付師にもよるのだが、たいてい、滑稽に踊るのが決まりなのだ。ほら、みんな笑っている。ラシェルもひきつれた笑い声をあげて口元を押さえる。意外にも完全に陥落したのはユージェニーで、前の席の背もたれに手をついて顔を伏せ、肩を震わせていた。
童話の『シンデレラ』と同じように十二時の鐘が鳴り、シンデレラは帰っていく。そこで第二幕が終わり、また休憩をはさんで第三幕だ。第三幕で最後である。
第三幕はシンデレラと王子の再会だ。まあ、ストーリー的には童話と変わらないので、最後はハッピーエンドだ。
最後の舞台挨拶で周囲の客たちと拍手をしながら、フェオドラがからかい気味にユージェニーにささやく。
「ジェイン、楽しそうだったわね」
「うるさい」
ぼそっとユージェニーが言い返した。楽しそうと言うか、ひきつけを起こしたみたいだった。
幕が完全に閉まり、周囲の観客がほとんど出てしまってからラシェルたちは腰をあげた。さて。母娘対決二回戦だ。
楽屋出入り口で対決するのはさすがに避けたらしい。客がいなくなったロビーの隅で、今回もユージェニーとシルヴィアの二人はにらみ合っている。
「……今日もやってるんだね」
ヘイゼル・バレエ団の主なダンサーたちが集まってエニス母娘の対決を見ている。そこに、着替えを終えた趙榮がやってきて苦笑した。
「お、趙榮。おつかれー。面白かったよ」
「うん。バレエの感想としては間違ってる気がするけど、でもありがたく受け取っておくよ」
そう言って彼も母娘対決の観察に混ざる。しばらくたつと、エリザベスやサユリも混ざってきた。というか、いつまでにらみ合っているんだ、あの二人は。
みんなが待ちくたびれてきたころ、ユージェニーがぽつりと言った。
「面白かった」
「……」
ラシェルも言った感想だが、確かにバレエの感想としては微妙かもしれないと思った。もう少し、この二人は腹を割って話すべきではなかろうか。それと、コミュニケーション能力を磨くべき。
「……そう」
シルヴィアが低く答えた。うん。この母娘、本当によく似ている。
だが、以前のことを考えればかなりの進歩である。エリザベスも「見ものだねぇ」と笑っている。
あと半年もすれば、ラシェルと趙榮は元のペルティエ・バレエ団に戻ることになる。それまで、せいぜいこの母娘を観察してやろうと思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
自分で言いましたが、本当に山なし、オチなし。ここまでお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。
『ジゼル』も『シンデレラ』もいいですよね。『ジゼル』はバリエーションもいいですが、ミルタの内面も私は好きです。この人(人じゃないけど)怖い。
『シンデレラ』は面白いですよね。個人的には『不思議の国のアリス』も結構好きです。『眠りの森の美女』しかり、童話っぽいバレエが好きです。
とにかく、今までありがとうございました!